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『したたかに笑って』| アマノ文筆クラブ

「あなた、本当にお疲れ様でした」

麗子は穏やかに微笑みながら、夫の前にグラスを置いた。
窓の外では、雨が静かに降っている。

修一はソファに深く沈み込み、琥珀色の酒を見つめた。
つい先週まで、誰もが畏怖する大企業の役員室にいた男だ。

だが、今は違う。

派閥争いに敗れた形で汚職の全責任を自ら引き受け、失脚の道を歩んだ。
明日には記者会見、その後は泥沼の告発と訴訟が待っている。
世間から見れば、地位も名誉もすべてを失った悲劇の男だった。

「会社も冷たいものね」

麗子が隣に腰を下ろし、そっと肩を寄せる。

「あなた一人に全部背負わせるなんて」

修一は力なく笑った。

「世の中そんなものさ」

「でも安心したわ。……あなたが生きていてくれて」

麗子は自分のグラスを、修一のグラスに軽く合わせた。

チィン、と澄んだ美しい音が鳴る。

修一は酒を一口含み、小さく息を吐いた。

「ありがとう。……最後まで、いい妻を演じてくれて」

雨音だけが部屋を満たしていた。
麗子の微笑みが、わずかに固まる。

「……何のことかしら」

「もういいんだ」

修一はポケットから一枚の紙を取り出し、テーブルに置いた。
海外口座への、巨額の送金記録だった。

そこに記された名義人を見た瞬間、麗子の目が激しく揺れる。

「君の口座だね。ずいぶんと手際よく移したものだ」

しばらく重苦しい沈黙が続いた。

やがて麗子は、深くため息をついた。
それまでの健気な妻の表情を消し去り、ソファの背にもたれかかって肩をすくめる。

「だから?」

否定もしない。言い訳もしない。 修一は思わず笑った。

「だから、か」

「だって当然でしょう?」

麗子はグラスを揺らし、冷ややかに言い放つ。

「あなたが素晴らしい肩書を持っていたから結婚したの。利用価値があったから尽くした。それだけよ。一文無しのあなたに寄り添う嘘つきより、よっぽど誠実だと思わない? 離婚届なら用意してあるわ。これからはお互い、自分の人生を生きましょう?」

差し出された麗子の笑顔は美しく、そしてしたたかだった。

修一はしばらくその顔を見つめていたが、やがて胸元から別の封筒を取り出した。

「そうだな。君の言う通り、お互い打算のない関係ではなかった。だから私も正直に話そう」

麗子は不審そうに封筒を受け取り、中の書類を開いた。
一枚目で顔色が変わる。
二枚目で呼吸が止まる。
三枚目で、書類を持つ指先がガタガタと震え始めた。

「……何、これ。汚職の賠償や追徴金で、あなたの資産もすべて差し押さえられるはずじゃ……」

「法的な責任を負うのは、あの『会社』と、その『役員』としての私だけだ」

修一は静かに言った。

「君も知っての通り、私はあの会社の『創業者一族』だ。君は私が会社と心中すると思い、資産が差し押さえられる前に海外へ金を逃がした。だが、甘いよ。あの企業がどれほど傾こうが、私個人には何の影響もない」

そこに並んでいたのは、会社とは完全に切り離され、何年も前から法的に隔離されていた個人資産の信託契約書と残高報告書。
その額は、彼女の想像を遥かに超えていた。

「私は背負わされたんじゃない。あの泥舟を合法的に切り捨て、この莫大な個人資産だけを無傷で残すために、あえて汚職の泥を被って身を引いたんだ」

修一は静かに麗子を見た。

「あえて泥を被って、ようやくすべてが見えたよ。部下も、友人も」
「……君もね」

麗子は唇を震わせた。 修一は小さく笑う。

「君だけは違うと思いたかったがね」

麗子は何も言えなかった。

「別に責めるつもりはない。君の言う通り、私たちは最高のビジネスパートナーだった。……安心してくれ。離婚届には喜んでサインしておく。君が持って行った端金(はしたがね)は、手切れ金代わりにくれてやるよ」

修一は立ち上がり、玄関へ向かった。

「待って、あなた……!」

すがるような麗子の声を背中に浴びながら、修一は足を止めない。

ドアが閉まり、重い音が部屋に響いた。

麗子はその場に立ち尽くしたまま、手の中の書類を見つめる。
テーブルの上には、飲みかけのグラスが二つ。

ふと、結婚写真が目に留まった。
タキシード姿の修一が、写真の中で穏やかに微笑んでいる。

今見ると、その笑みは――
どこまでも、したたかだった。




お題:「したたかに笑って」
以下の企画に参加させていただきました。



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