『デジタルタトゥーを消したい』|アマノ文筆クラブ
雑居ビルの一角にある小さな看板には、『記憶と情報の消去専門――デジタル・タトゥー除去クリニック』と書かれていた。
「本当に……完全に消せるんですか?」
男――タカシは、診察室の白いデスク越しに医師へ身を乗り出した。
タカシの目の下には濃いクマができていた。
数年前、若気の至りでSNSに投稿した1本の動画。軽い悪ふざけのつもりだったが、瞬く間に拡散され、炎上した。アカウントを消し、引っ越しまでしてやり直そうとしたが、誰かがコピーした動画が今もネットの海のどこかに漂い、定期的に再浮上してはタカシの過去を苛んだ。
白衣を着た老医師は、穏やかな笑みを浮かべてタブレット端末を差し出した。
「ええ、完全に。ネット上のミラーサイトはもちろん、個人の端末に残されたコピーまで、痕跡ひとつ残さず消去します。……では、こちらの同意事項をご確認の上、サインを」
タカシは示された画面に視線を落とした。ずらりと並ぶ利用規約の末尾に、強調された一文があった。
> 【重要】データ消去のプロセスに伴い、脳内にある該当事象の記憶領域も完全に初期化されます。
「あの……記憶も消えるんですか?」
「データと記憶の整合性を取るための技術的制約です」
医師は淡々と言った。「何か問題でも?」
「滅相もない! 願ったり叶ったりですよ」タカシは食い気味にサインした。「あんな忌まわしい記憶、1秒だって覚えていたくないんですから」
手続きはあっけないほど簡単だった。特殊なヘルメットを装着され、青いレーザー光線が頭部を優しく撫でる。ほんの数分で施術は終わった。
◇ ◇ ◇
目を開けたとき、タカシはすっきりとした爽快感を覚えた。胸を押し潰していた重苦しい不安や羞恥心が、嘘のように消え去っていた。
「終わりましたよ」と医師が言った。
「ありがとうございます! ……あの、ちなみに僕って、一体どんなひどい動画を投稿していたんですか?」
タカシが尋ねると、医師は苦笑した。
「さあ、私にも分かりません。システムが自動で処理しましたからね。ですが、もう安心してください。あなたの人生から、その件は完全に消去されました」
タカシは深く頭を下げ、晴れやかな気持ちでクリニックを後にした。街の空気までが新しく感じられた。これからは何の影もない、明るい未来が待っているのだ。
◇ ◇ ◇
数日後。タカシは自宅の部屋でパソコンに向かい、SNSを開いていた。新しく作り直したアカウントだ。
「何か面白いこと、起きないかなあ」
退屈に耐えかねたタカシは、ふと思いつきでスマートフォンを取り出した。そして、ちょっとした悪ふざけのパフォーマンスを撮影し始めた。
(これ、ネットに載せたらみんな驚くかもしれないぞ――)
かつて自分を地獄に突き落とした「愚かな失敗」の記憶も、そこから学んだ痛切な後悔も、もう彼の頭の中には一切残っていなかった。
タカシは満面の笑みで『投稿』ボタンを押した。
お題:タイトル:デジタルタトゥーを消したい
下記の企画に参加させていただきました。
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