吾輩は現場猫である|青ブラ文学部
吾輩は猫である。名前はまだない。
……いや、正確に言うなら、人々は吾輩を「現場猫」と呼ぶ。どこで生まれたかとんと見当がつかぬが、気がついたときには薄暗い資材置き場に座り、頭にはいささかサイズの間違った黄色い安全帽を戴いていた。
この帽子をかぶって高いところから見下ろしていると、人間という生き物は、つくづく愚かで危なっかしいものだと実感させられる。二本足で歩く彼らは、視野が狭いくらいならまだしも、自ら注意力をドブに捨てる悪癖がある。
今朝もそうだ。朝礼という名の集会で、人間たちは「ツールボックスミーティング」と称し、何やら紙切れを前にボソボソと呟いていた。
「今日の作業内容は……配管の溶接。各自、安全帯の着用と……えー、足元の確認……」
眠そうな声だ。彼らの脳はまだ起きていない。その証拠に、足元に転がっている錆びた単管パイプや、油の滲んだ床といった「ヒヤリ・ハット」の種に、誰一人として気づいていないのだ。
彼らが解散し、それぞれの持ち場へ散っていく。吾輩は足音を消し、キャットウォークの上からその様子を睨み据えていた。
一人の若い作業員が、足元も見ずに後ろ歩きで重い機材を運ぼうとしている。その進路の先には、崩れかけの足場板。昨日からの雨で濡れ、乗れば確実に滑る。
(おい、人間。お前の後ろ。そこは危険だぞ)
吾輩の鳴き声はグラインダーの爆音にかき消される。
人間は気づかない。あと三歩で盛大にひっくり返り、大ケガするであろう。
吾輩はキャットウォークの端へ駆け寄った。背筋をピンと伸ばし、左前足を脇腹のあたりに当て、右前足を真っ直ぐに伸ばす。ぎゅっと握った肉球から、人差し指の代わりとなる鋭い爪をシャキッと突き出し、その濡れた足場板へと狙いを定めた。
目をカッと見開き、対象を凝視する。 腕を引き戻し、己の耳元へ。本当に良いか、間違いないか。 そして、渾身の力を込めて右前足を振り下ろした。
「にゃーん(ヨシッ)!!」
張り詰めた高音が、若い作業員の耳に届いた。彼はビクッと肩を揺らし、上を見上げた。吾輩と目が合う。吾輩は突き出した前足を動かさず、ただひたすらに足場板を指し示し続けた。
「……あ」
作業員が吾輩の視線を追い、自分の足元を見た。
顔から血の気が引いていくのが分かる。
彼は慌てて機材を置き、自らの右手を突き出した。
「足場板の濡れ、危険、ヨシ! 迂回ルート、ヨシ!」
鋭い発声とともに手が振り下ろされる。
周囲の人間も巻き込まれるように次々と指を差し始める。
「通路の整理整頓、ヨシ!」「足元注意、ご安全に!」
やれやれ。吾輩の完璧な「危険予知(KY)」と「指差呼称」がなければ、今頃救急車が来ていたところだ。人間どもめ、もっと我が身を労るが良い。
――さて。現場の安全を守るという大仕事を終えたのだ。労働の後には、それ相応の対価が支払われねばならない。
吾輩は事務所のプレハブ小屋へと足を向けた。サッシの隙間から滑り込むと、机の上のカゴに見慣れた細長い袋があるのを、吾輩の鋭い眼光は見逃さなかった。人間どもが「チュール」と呼ぶ、魅惑の合法麻薬だ。
引き出しのキャスターに飛び乗り、カゴのフチから身を乗り出す。
吾輩は左前脚をピンと脇腹に当て、右の前脚を突き出した。
「ニャ(マグロ味)、ニャオ(ヨシ)!」
差した前脚を耳元へ引き戻し、じっとパッケージの文字を見つめる。
「ニャ(賞味期限)、ニャオ(ヨシ)!」
よし、2027年まである。問題ない。さらに前脚を引き戻し、袋に破れがないか、液漏れがないかを鋭くチェックする。
「ニャ(外装破損なし)、ニャオ(ヨシ)!」
最後に、これからこれを吾輩に捧げるであろう、事務員の姉ちゃんの顔をじっと見つめ、前脚を勢いよく振り下ろした。
「ニャーオ(全部ヨシ)!」
早く寄こすのだ、人間。吾輩の胃袋の安全性は、今まさに脅かされている。

お題:「指差呼称」
下記の企画に参加させていただきました。
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