『どうにもとまらない』| アマノ文筆クラブ
「今夜はどこへ行くの?」
退勤間際、隣の席の先輩が声を潜めた。
視線の先には、デスクの端に置いた小さなトートバッグ。中には、オフィスカジュアルにはおよそ不似合いな、真赤なシルクのシャツが畳んである。
「ちょっと、ひと踊り」
そう言ってはぐらかすと、先輩は呆れたように「またそれ?」と笑った。
社内では、私について妙なうわさが流れていた。
昼は真面目なOL、夜は別人。毎晩違う男と遊び歩いているらしい、と。
――うわさを信じちゃいけないよ。
心の中で小さく毒づく。私はただ、昼の私を脱ぎ捨てる場所を知っているだけだ。そうでもしなければ、魂が酸欠を起こしてしまうから。
二十時。
六本木の地下にあるダンスホールは、今日も熱気でむせ返っていた。
化粧室で地味なジャケットを脱ぎ捨て、あの真赤なシャツに袖を通す。
ボタンを大胆に開け、髪をほどくと、鏡の中の女が不敵に笑った。
フロアに出れば、重低音が腹の底を揺らす。
名前も肩書きもすべてを掻き消すような音の洪水の中で、私は激しくステップを踏んだ。
一人で、誰かと、顔も知らない誰かと。
視線が絡み、手が触れ、笑い合っては離れ、また別の誰かと踊る。
ここにいる間だけ、私は誰の所有物でもない、ただの私になれた。
今夜は真赤なバラを抱くように、フロアで見かけた背の高い男の手を取った。 男は踊りが上手だった。自分が私を完全にリードしていると信じ切っているその顔が少し可笑しくて、私は男の耳元で小さく呟いた。
「あゝ、蝶になる。あゝ、花になる……」
男は意味も分からず微笑み返した。 今夜の私は、どちらでもよかった。
汗と熱、眩い光と音の渦。
どうにもとまらない。
身体が信じられないほど軽い。何もかも忘れられる。
月曜の会議も、数字ばかりの資料も、息苦しいオフィスも、全部。
気づけば午前二時だった。
最高のトランス状態のまま、私は男の手を振りほどき、地上への階段を駆け上がった。熱気の膜を突き破るように外へ出て、捕まえたタクシーに滑り込む。
ドアが閉まった瞬間、世界から音が消えた。
車内にはエアコンの風だけが冷たく流れている。
スマホが震えた。
画面には顔もよく思い出せない男たちからの、メッセージが並んでいる。
『楽しかった。また会える?』
『今どこ?』
どれも見覚えはあるのに、どうしても実感が伴わない。
私は指先で、それらの通知をまとめて消し去った。
窓の外では、東京のネオンが高速で後ろへ流れていく。
赤、青、白。流れては、すぐに消える。
ふと、さっきまで一緒に踊っていた男の顔を思い浮かべようとした。
どんな目をしていたか、どんな声だったか。
少し考えて、虚しくなって諦める。さっきまで男の肩に触れていた指先が、今は冷房の風に吹かれて急速に冷え切っていく。
私はシャツの襟元を寄せた。 真赤な布地は汗を失い、ただ冷たかった。
さっきまであれほど鮮やかだったのに。
スマホがもう一度震える。
今度は会社用だった。
【明日10:00 定例会議】
表示された文字を見つめる。しばらく、ただ見つめる。
「……私の心はうぶなのさ」
口に出してみる。 誰も聞いていない。運転手も振り向かない。
その言葉だけが、音楽の消えた空間にひどく虚しく取り残された。
スマホの画面が暗くなる。
窓に映った自分の顔も、すぐに闇へ溶けた。
明日になればまた働く。
夜になればまた踊る。
その次の日も。
きっと、その次も。
どうにもとまらない。
赤いテールランプが、夜の東京へ溶けていく。
お題:どうにもとまらない
下記の企画に参加させていただきました。
#️⃣ ハッシュタグ
#アマノ文筆クラブ #どうにもとまらない #短編小説 #創作 #OL #都会 #孤独 #山本リンダ #ライフスタイル #二面性
いいなと思ったら応援しよう!
皆様の応援が、今後の活動の大きな励みになります! いただいたサポートは、より良い作品をお届けするために大切に使わせていただきます。
Thank you for your support! 