見出し画像

「自己中心的思考」ノススメ

昨日の記事でも少し書いたように、
「他人のことより自分のこと」
という思考回路で、いいのだと思う。

――この「自己中心的思考」とは。

「他人様のことに気をとられて
よそ見ばかりしない」

「唯一自分が好きにできる人生である
『自分の人生』というものに、
(他人の人生は私の好きにしてはいけないので)
もっと集中する、注意散漫にならない」

ということでもある。


何故そのほうがいいのか。

それは、
他人がどうだろうと、
妬まなくていいし、
間違っても、
そこから何かを奪ってやろう、
そこを邪魔してやろう、という
「意味ない発想」には至らないだろうから
である。



他人の世界は、他人の世界、
私の世界は、私の世界、
なのである。

もちろん、我々は、
「一つの世界を共有」はしているし、
その中で関係はしあっているのだが、
実は、各々が抱える
「認識上のその世界」は、
「交わることはない」のだとも言える。
(――って、
たぶんここで多くの人は
「エ?」となると思いますが。笑)

(それは、)
私の目線や認識と
全て寸分も違わない目線・認識の組み合わせで、
この「同じ世界」(なのに)を
構成し捉えれられる他人はいない。
(と、いうことである。)

と、そういう意味では、
私が感じて知っていくこの世界は
実は
「私だけのオリジナル世界」
とも言えるわけなのであるからして。

――だったら、
他人と比較しても、
仕方なくないですか?と。
(だって、どうがんばっても
「他人」にはなれませんもの。
――でも、それでよくないですか?!)

そうだなあ。

もし、神様がいたとしたら、
「不公平!」なんて、
つい口走り訴えたいことも、
ないわけではなかったのだろうけど。


でも、考えてみると、
私は「今の私」とセットでないと
たぶん、私ではなくなるわけで。

「わかったよゴメン、じゃあ、やり直すね!」
って神様が爽やかに言って、
今の私自身を「完全清算」するために
現世から「完全抹消」しにかかったら、
どうですかね?
本当に、それでOKですかね??

例えば、
「自分だから感じられた」
それはこれまでの「喜怒哀楽」なのだけど、
それもまた跡形もなく、
自分の中――というかそうなるとこの世から、
清算され抹消されるのだよなあ。

――「喜・楽」だけではなく
そう考えると、何なら、
「哀・怒」すらも、
それは「自分だけのもの」で、
時を経て俯瞰して今見てみると、
自分にとっては
「かけがえのないもの」のように、
今なら、思えてきたりもする。


「自己中心的思考」で、
各々が、いいのだと思う。

さすれば、他人様の「自己」を、
互いに尊重できるようにもなる。

――自分の内側を
土足で他人に踏みつけられて、
「うれしい」なんて人は
そうそういないはずなのだから。

まあ、
私はかねてより、
「善人と思われようとしない」を
モットーとして掲げているのだが(笑)、
それでも最低限の
「いい人のフリ」みたいなものは
(そう、そんなもんは「フリ」で「お芝居」ですよ、
私の場合は。笑)
「自分がそうしたいから」捨てきれなかったりするし、
でも、そんなふうに、
各々の人にムリなく自然に湧いてくる範囲の
「だっていい人にも思われたいもん!」意識程度で、
この世の中は、
十分に丸く収まるんじゃないかなあ、
という気が、
私はしたりしている。


「自分本位」「自己中心的思考」を、
各々がもっと自ら大切にして、
他人のそれについてはまた尊重し合う、
それで、(いや、そのほうが、)
いいのではないだろうか??