時と時の隙間にあるもの
※本日はいつにも増して、「個人的感覚の話」です。
他者からも、そして自分自身からも、絶えず「せっつかれている」ような感覚が、自分にはある。
(――という、この話までは、以前にも記事にしたことがあったような気がする。)
あるいはこれは、時間についての「隙間恐怖症」とも言えるものなのかもしれない。
時間に限らず、「無駄を嫌う」そのこと自体は、本来、悪いことではないはずだ。
――が、しかし。
「元から自然とそこにある」そんなものまで、すべて「ムダ」と感じるのは、やはりどこか「ムリ」がある気もしてきたのだ。

さて、はたして。
「空白の時間」は、「無駄」だろうか?
「全部を有意義に」「全部をお金に」「全部を栄養に」……。
これらすべての「変換作業」は、「時間の使い方」にも繋がるものだし、そうするとそれは、「時間の流れ方」にもいずれ繋がってくる。
――今の自分の中に流れている「時間」、その「流れ方」って、どこか「不自然」な部分はないだろうか?
そろそろそこに、「違和感」を、感じてはいないだろうか。


少なくとも、起きている時間であれば、その「空白」について、意識までは「空白」になりようがない。
というか。
「無意識」ですら、「意識」の一部なのではないかと、私は感じているのだ。
つまりこの「無」は、「意識してはいない」の「無い」の「無」であり。
そして、本当に意識が消滅して「無になる」とは、つまり「死」なのではないかと私は思うのだ。(※個人の解釈です。)
一方の、「有意識」――「意識する意識」の中には、絶えず「自分」が居座ってしまう。
しかし、この世界は、「自分」「自分の意識」だけで組み立てられているわけもなく……。


このところの私は「睡眠」を、(なるべくだが、)多めにとるようにしている。
「睡眠時」は、「自分の意識」を手離し、先述した意味での「無意識」の世界に包まれることができる。
――元々、人間の場合、1日24時間のうち、3分の1から4分の1は、この「睡眠」に当てるのが理想的だそうだから。
それを考えると、元々の「(24時間の)時間の使い方」自体も、「アレしてコレして次はソレを考えてそこでどれを書き留めるんだっけ?」なんてやっている「有意識」ばかりで全てを「徹底的に」「完膚なきまでに」埋めるのが、必ずしも正しいわけでもなかろう。


まあ、幼少期でもあるまいし、「白昼夢」とはいかないまでも。(笑)
「自分の意識を手離す」時間が、もう少し、生活の中にあってもいいような気もする。
――「時」について、一分一秒単位まで、一瞬の隙間もなく、潰していくこともなかろう?とも思う、ということである。
それをやっていくと、「生物」ではなく、「マシン」に化していく自分を感じる。
(というか、ここ三十年近く、つまり既に長らく、そうなっていた自分を感じる。)
「マシン」になるということは、本来、生物として「苦しみ」になるはずなのだが。
(生物は「マシン」ではないから、当然である。)
(しかし、)
――案外、人間の「適応能力」は凄まじく。
いつか「そっちのほうが『自動的で』ラクだ」なんて感じるようにまでなってしまうもののようである。
「やることは全て埋め尽くされて決まっている、考えるべきことも予めプログラムされている、余白がない、自由に動けない、そのまま計画順守で、……」
=「ラク」
みたいなそれは感覚である。
――今の社会自体も、「全体を『自動的に』」「人間すら『オートメーションで』」という考え方に、傾いていると思う。
まあ、効率「だけ」で考えたら、そっちのほうが良いし、いずれそれが「ラク」と人々に感じられるようになるのは、想像できる結果ではあるけれども……。
そこの「ラク」にはたぶん、――あえてすごくわかりやすいところだけ、ごく僅か数例の喩えだけで言うなら、「雨の音」や、「空の色」や、「風の匂い」などは、例えばなかなか入り込みにくい。
少なくとも、「そういったもの」が、「希薄」な世界にはなるだろう。
――そういう「ラク」は、私は実はあんまり望んでいないのだろうなあ、と、改めて思い至った、というところでもある。


一見、あるいは、理屈だけで考えると、「無意味」にも見える、そんな「時の隙間」にしかないものは、きっと存在しているわけであるからして。
「そこにしかないもの」を拾うために、――というか、否、「ために」とか理屈を付けている時点で、もうこれ、「有意識」になるからダメなんだよな。(笑)
いずれにせよ、時と時の隙間を「埋めきらない」心持ちでいようと思っている。
ちょっとここらで、自分自身が見ている「世界の見え方」を、変えてみたいのだ。
――って、「たい」って言っている時点でこれもまた、「有意識」でダメなんだと思うんだけれども。(笑)


