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「極楽」は、作れる!(?)

「よくない」とか
「それは間違いでこれが正しい」とか
「こうあるべきだ」とか、
声を一度は上げるだけあげてみても、
現実は現実で
既にここにあるという――そんな現実。

言葉にするだけしてみたら、
あとは、
その状況に応じて、
「粛々と対処し」、
「最善を尽くす」。
これしかないのだ、という気も
私はしている。


「そういう人もいる」
という、
現実だけが結局そこに残る場合もある。


――例えば。

「信用できない人」が
いたとして。

さすれば、ただただ、
その人のことは
信用しなければいい、
それだけのことなのかもしれない。

(――と、言っても、
こちらを読んでいただいている皆様は
概ね「大人」の方が多いと思いますので、
それをまた
「わかりやすく態度に出す」ことも
特に必要ではない、というのは、
言うまでもなく
お含みおきいただけるかと思われますが。笑)

「理不尽製造機」かのごとき、我々人間。
――人間がこの世にいる限り、
この世から「理不尽」はなくならない、
そんな気さえしてくる。

この世がすべて
「正しいこと」でできていたなら、
「正しい」という概念すらなかったはずだし。

もしかすると
人間社会の何割かが
「間違っている」のは、
ごく自然なことなのかもしれない。
(「それでいい」とは別に言っていない。)
(「自然とそうなってしまうもの」ということ。)

とはいえ。

巻き込まれるとシャレにならない
そんな「理不尽」もある。

戦場に駆り出されるとか、
ハラスメント被害受けるとか、
――本当に、
「人をそんな目に遭わせて平気」な
そいつらの神経が、
(人間社会の成り立ちとしてはともかく)
私個人としては解せなすぎる。


極論だが、
「自分の人生に納得している人」って
他人を酷い目に遭わせるようなことを
あまりしないのではないかなあ?
なんてことも思う。
――それは、言い換えれば、
「他人を酷い目に遭わせて平気」な人とは、
他人が持っている、大切にしている、
命や生活や幸せを、
「奪ったり壊したりも平気」という
そんな神経の持ち主だ、ということでもあろう。

最近ではそういう人を
「サイコパス」と捉える解釈もあって、
それもまた当てはまる事例もあるとは思うのだが。

けれども、
「他人が幸せだったり楽しそうだったりするのが
許せない、壊したい、奪いたい」
(そうしたところでその分自分が
幸せになるわけでもないのにも関わらず、それでも。)
となる深層心理は、
割と多くの人にあり得るところだと思うし、
でもそれって、
自分の人生に
(とりあえずでも)「満足している」となれば、
湧き上がりにくい心理であるともまた私は思うのだ。
(他人のことより自分のこと、ってなるものね。)



富や権力を十二分に持っていても、
「まだ足りない」「まだ納得いかない」
となる人もいる。
――他人の命や生活と引き換えにしてでも
「まだ欲しい」となるのは、
(たとえば戦争をしたがるなど、)
所謂「餓鬼」という奴なのだろう。

――「六道」の「餓鬼」で調べると、
『常に飢えと渇きに苦しみ悩まされる』
と言い表されていることが多いが、
と、なると、
いくら得ても「まだ足りない」となる人は、
今生における「餓鬼」なのかもしれないなあ、
なんてことを、私は思ってしまう。

――その人はその人で、
苦しいのかもしれない。

つまり、
「人に酷い仕打ちを平気でできる人」は
その人の中に既にもう
「地獄」みたいなものがあるんだろうなあ、
――なんていうようにも
私はこのところ思い当たってはいるのだが。

しかし、言うまでもなく、
「それなら他人もその道連れにしてしまえ」
なんて考えるようなそれは、
「その人自らが生んだその人自身の地獄」
なのだから、
こちらはそんなものに
わざわざ巻き込まれて差し上げる必要もない。

そう考えると。

自分の「極楽」とは、
他でもない、自分自身が、
守れるだけ守らねばならないものなのである。

「今生の極楽」
(例えば「上機嫌」とかね!)を、
各々が、責任をもって守る。

――割と、これもまた、
人が生きていく上で、
思いのほか大切なことだったりするのではないか?
と、私はこのように
結論付ける次第である。

「自分の極楽」とは、もしかすると、
最後は「自分で作るもの」、
なのかもしれないとも思う。