「欲」とは「生命力」のことだ
「欲(それは良いものも悪いものも含めて)とは、即ち生命力のことだ」というのは、私の「自論であり極論」であるが。(いつもの。笑)
生命体としての一番初めの欲――「自分の生命を維持する欲」が何不自由なく満たされるようになれば、その次の欲へ、で、今度はそれが満たされるようになれば、更にまた次の欲へ、……と、「欲に際限がない」のは、当然と言えば当然のことなのだ。
言うなればそれは生命体として元気な証だ。
「尽きせぬ欲」こそ、「涸れることなく湧き出る生命力」ということになるのだろうから。(至極シンプルにとらえればだが。――つまり、そこに「依存」や「ストレス」が絡んでいる場合とか、その他諸々、細かいケースまでは、話が長くなるので、あえて今回は考慮しないこととする。)
で、そのように、「欲」が「生命力」であるのだと仮定して。
それならば、やはりその「生命力」の、「量」だけでなく、「質」についても、そろそろ問うようにしてもいいのかも?なんてことを、最近の私は思うようになったのである。
「とめどなく湧き出てくる欲」を「豊富な水量」に喩えたとして。
しかしそれなら、「濁った水」より、どうせなら「澄み切った水」のほうが、「人である」自分を潤す気がするのだが、いかがだろうか?
――泥水でも美味しく飲めるほど、私は生命体として、強固でも頑丈でもないのだ。
(つまり私は、「精神的に最も軟弱な生命体」なんです。――「悪い水」浴びるように飲んでいたら、調子を崩す、てか、病気になる。笑)
「欲」は「欲」でも。
「弱者から奪い取る」とか「こっそり搾取する」とか、そういった形で満たそうとする「欲」は、どこか「濁っている」し、本当にそれは、自分の喉や心を潤すかな?
そういうのって、「こんこんと湧き出る自分の中の生命力までもが濁る・汚れる」ような気がしないか?
あるいは。
それらの類の「濁った水」には、近づかない、というか、精神的に混ざらない・染まらない、つまり「別の容れ物に分かれている」ようにもしておきたい。
そのためにも、その場その場で、キッパリしている必要があるというか、それらとは意識の上では「袂を分かつ」というか。
例えば、他者から投げ込まれた「泥水」――それは場合によっては「理不尽」だったり「搾取」だったり――などはなるべく、自分の心に留め置かず、都度、切り離していくことが肝要なのだと私は思う。
「濁った水」と同じ世界にいれば、自分自身の中にあるものも、そのうち濁りかねない。
(という、この部分は、この記事の付け足しとして。)
また逆に。
欲は強くても「強欲」ではない人、つまり「盗む」とか「騙す」とか「人から力で奪う」とか、そういうことは一切しない人の欲は、傍から見ていても「卑しい」とは、私は感じないことのほうが多い。
――「ガツガツ」、大いに結構じゃないの!これぞ生命力!!と、思う。(笑)
「欲」自体を止める必要はないのだ。
「暴力的」「搾取的」にならなければいいし、――とはいえ、ついつい、気づかずそうなってもしまいがちかもしれないから、そうならないようにはくれぐれも、欲については、気にとめておきたいものだよなあ。
なんてなことを、最近、いろいろ考えていたりもする次第である。
