見出し画像

「“分からない”と言えなかった日から、考え始めたこと」          第3回:その“基準”は、どこから来たのか

このシリーズは、語学の話から始まりました。
けれど書き進めるうちに、それは少しずつ別のものに変わっていきました。

「分からない」と言えなかった、あの一言。
その背後にあったものを辿っていくと、いつのまにか、自分の選び方そのものに触れていたように思います。

気づかないまま引き受けてきた“ものさし”がある。
それは、「どう振る舞えば大きく外さないか」を判断する、自分なりの基準とも言えるものです。

その基準は、どこから来たのか。
いつ、どこで、どうやって、自分の中に入ってきたのか。

気づけば、私は同じような場面で、いつも似た選択をしていました。
ほんの少し迷ったとき、問い返す代わりに、曖昧なまま先に進む。
それは慎重さというよりも、もっと無意識に近い反応でした。

「slightly」が聞けなかったあの場面も、今思えば特別な出来事ではありませんでした。
あれはただ、普段から繰り返していた選択が、たまたまはっきりと見えた瞬間だったのだと思います。

前回書いたように、あのときの私は、ある“基準”のようなものに従っていました。
それは明文化されたルールでも、誰かに教えられた記憶でもありません。
けれど確かに、「どこまでなら許されるか」「ここで立ち止まるのは適切か」──そうした判断を、ほとんど自動的に下している自分がいました。

それは一つの出来事で形づくられたものではありませんでした。
むしろ、日々の中で少しずつ、気づかないうちに積み重なってきたものだったように思います。

たとえば、こんな些細な場面です。
誰かの話を遮らずに最後まで聞いたとき、
「ちゃんとしているね」と言われたこと。

場の流れを読んで発言を控えたとき、
空気を壊さなかったことで、内心ほっとしたこと。

あるいは、分からないことをそのままにしても、
その場が滞りなく進んでいった経験。

そうした小さな出来事の中で、私は少しずつ学んでいきました。
どう振る舞えば、その場にとって“適切”とされるのかを。

最初はきっと、外側にあったはずの基準。
けれどそれは、繰り返されるうちに、
いつのまにか自分の内側に移っていきます。

誰かに言われなくても、自然とそう判断するようになる。
違和感を覚えることすらなく、それが「普通」になっていく。

だからこそ、あのときの選択も特別なものではありませんでした。
「聞かない」という判断は、その場に合わせた一時的なものではなく、
これまで積み重ねてきた感覚が、そのまま表に出ただけだったのだと
思います。

そして厄介なのは、そうして身についた基準ほど、自分の意思と区別がつかなくなるということでした。
それが「正しい」と思っているわけでも、「従わなければならない」と感じているわけでもない。
ただ、そうするのが自然だから、そうしている。

もしそれが、「自然に見えていただけ」だとしたら。
その感覚は、どこから来たものなのか。



では、その基準はどこから来たのか。
少しだけ視点を内側に向けて、辿ってみたいと思います。

ここから先は

1,102字

¥ 300

Amazon Payで支払うと最大2%還元のチャンス! 9/30まで

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?