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第8話:【マジョリティOS】なぜ“説明する人”ほど孤立するのか

―― 正しさが人を遠ざける理由 ――

私は、正したかったわけじゃない。
争いたかったわけでもない。

ただ、
同じ認識に立ちたかっただけだった。

説明は、私にとって攻撃ではなかった。
つながるための行為だった。



けれど現実は違った。

話せば話すほど、
空気が冷えていく。

言葉を選ぶほど、
距離ができる。

沈黙のほうが、歓迎される。

努力と結果が、
きれいに逆転していった。

たとえば、
「じゃあ基準は?」と確認しただけで、
相手の目が曇る。

私は同じ地点に立ちたかった。
けれど相手は、波を立てない地点に戻ろうとしていた。



なぜ説明は、
こんなにも“重い”と感じられるのだろう。

説明とは、
認識の差を明確にする行為だ。

前提の違いを可視化し、
無意識を言語化する。

それは、
安全な曖昧さを壊す行為でもある。

マジョリティOSにとって、
それは少し刺激が強すぎた。



説明されると、
間違っていたかもしれない、という可能性が生まれる。

無意識の特権が、
言葉として浮かび上がる。

今まで「普通」だった自分が、
揺らいでしまう。

意図していなくても、
説明は否定に聞こえる。

だから距離を取る。

悪意ではない。
自己防衛だ。



この社会では、

正しいかどうかより、
波風を立てないかどうか。

意味が合っているかより、
どう聞こえたか。

が優先される。

正しさは、
空気を壊し、
序列を揺らし、
責任を生む。

だから避けられる。



こうして、説明する人は
役割を背負わされる。

理屈っぽい人。
面倒な人。
空気を読めない人。

でもそれは、性格ではない。

構造的な役割だ。



マイノリティ側は、
ここで誤解してしまう。

私の伝え方が悪いのかもしれない。
もっと柔らかく言えばよかったのかもしれない。
私が我慢すればいいのかもしれない。

けれど違う。

孤立は、
説明できる人の問題ではない。

感情が足りないからでも、
コミュニケーション能力の問題でもない。

OSの役割が、
噛み合っていなかっただけだ。



それでも、
説明する人は必要だった。

説明する人がいなければ、
構造は更新されない。

社会は、
説明されたあとにしか変われない。

彼らはいつも少数だった。
だから孤独だった。



私はずっと、
自分が壊れているのだと思っていた。

でも今は思う。

説明してきた私は、
間違っていたのではなかった。

ただ、
社会との接続方式が
違っていただけだった。

私はまだ、
この説明衝動そのものが
どこから来ているのかを
知らなかった。

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