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【短篇小説】 アマリア ──アマルフィの11月25日

二十五年間、同じ日、同じ部屋で海を見つめ続けた男。その扉を叩いたのは──一通の手紙を抱えた、見知らぬ若い女だった。


【読書のお供に】

アマリア

──アマルフィの11月25日


――高橋の手記 ――

78歳になっても、人間は案外、若いころと同じような手つきでスーツケースを詰めるものだ。

11月23日の夜。いつもと同じように、グレーのジャケットを畳み、少し襟の擦り切れた白いシャツを2枚、それから古びたパスポートケースを黒いトランクの中に収める。ベルトを締める音まで、25年前とほとんど変わらない。

行き先はただ一つ。イタリア、アマルフィ海岸。小さなホテル《アマリア》の301号室。

成田からローマへ飛び、さらに乗り継いでナポリへ。そこから車で海沿いの道を走る。運転手が陽気に歌うカンツォーネをBGMに窓の外を見ていると、断崖にへばりつくような白い家並みが少しずつ近づいてくる。

海だ。地中海の青さは、どうしてこうも人の心を無防備にするのだろう。

岩肌に貼りつくように並ぶ家々は、白い鳥の巣のようだ。そのあいだから顔を出すレモンの木には黄色い実がぶら下がり、洗濯物が風に揺れている。道路は無茶なくらい曲がりくねり、カーブを曲がるたびに視界の全部が海になったり、また崖と家に埋め尽くされたりする。

最後のカーブを抜ける手前、道路脇に小さな看板が見える。 ――Hotel Amalia。

薄く色あせた文字を目にすると、胸の奥で何かが小さく鳴る。25年間、毎年この看板を見てきたのだ。 運転手が振り向いて、英語混じりのイタリア語で言った。

「シニョーレ、あれがアマルフィですよ。ビューティフルでしょう?」

私は頷き、胸の中でそっと答えた。 ――知っているさ。25年前から、毎年同じ景色を見に来ている。

ホテル《アマリア》に着くと、ロビーの匂いまで懐かしい。レモンと古い木材と、少しだけ洗剤の混じった匂いだ。フロントの奥から、支配人のアントニオが出てくる。かつて若かった男も、今ではすっかり白髪になった。

「お帰りなさい、シニョーレ・タカハシ」 「今年も301号室は空いていただろうか」 「もちろんですとも。11月25日は、Hotel Amalia にとって、あなたのための日ですから」

彼はそう言って、いつものように鍵を渡してくれる。私はエレベーターに乗り込む。古びた箱は、相変わらず軋む音を立てながら私を上へと運んでいく。 3階。廊下の突き当たり、海を正面に見る位置に、301号室はある。

部屋に入ると、まず窓を開ける。アマルフィの海が、扇を広げるように目の前に現れる。 夕暮れ前の光は柔らかく、海面には細い金の帯が何本も走っている。湾曲した海岸線に沿って、白い家々が積み木のように重なり合い、窓という窓から小さな灯りが漏れ始めている。遠くでは鐘の音がし、どこかの家から食器の触れ合う音が風に乗って届く。

――25年前も、同じ景色だった。 ただ、そのときは、私の右隣に、由美子がいた。

* * *

初めてアマルフィを見たときの由美子の顔を、私は死ぬまで忘れないだろう。

あの日、車が最後のカーブを曲がって、アマルフィの町が眼下に開けた瞬間、彼女は思わず息を呑み、窓に額をくっつけた。細い指が、ガラス越しに海岸線をなぞる。

「……本当にあるんだ、こんな景色」

いつもより少し高い声でつぶやく。私はハンドルを握りながら、心の中で密かに得意になっていた。

「ああ、昔、仕事で地中海を回る客船に乗ったときにな。船から見たこの町があまりにも綺麗で、いつかプライベートで来てみたいと思っていたんだ」 「都会は仕事をする場所で、休むときはこういう場所がいいって、言ってたもんね」

彼女はそう言って笑った。 由美子はよく笑う人だったが、声を立てて笑うというより、口元だけでふっと笑みを漂わせるような笑い方をした。目尻に小さなしわが寄り、その影が彼女の白い頬に柔らかく落ちる。そのささやかな変化を見るたびに、私はこの人と一緒にいることが信じられないほど幸運に思えたものだ。

Hotel Amalia に着くと、ロビーの木の扉を押し開ける。中は小さなソファと、手書きの観光案内が貼られた掲示板。カウンターの奥に、若かったころのアントニオが立っていた。

「ボンジョルノ。チェックインですね?」 「タカハシです。予約していたと思うのですが」 「ええ、もちろん。タカハシ様と……」

アントニオは宿帳を開き、由美子のほうを見た。 「よろしければ、お連れ様にご記入いただけますか? 代表の方のお名前とご住所を」

由美子は一瞬驚いて、それから嬉しそうに笑った。 「私でいいの?」 「もちろんですとも。レディのお名前でお迎えできるのは、Hotel Amalia にとっても光栄なことですから」

由美子はペンを取り、小さく息を整えてから、丁寧な字で名前と住所を書き込んだ。 ――高橋由美子。東京、杉並区。

その文字を、アントニオがちらりと見て、頷いた。私たちは鍵を受け取り、階段を上がって301号室へ向かった。

部屋の扉を開けた瞬間、由美子は靴を脱ぎ捨て、バルコニーに飛び出した。欄干に両手を置いて、目を大きく見開く。

「見て……海が、全部、ここに来てる」

言葉の選び方が少し不思議なところも、私は好きだった。 彼女の肩までの黒髪が、海から吹き上げる風でふわりと揺れる。夕方の光が横から差し込み、頬の輪郭を薄く縁どっている。

「お誕生日おめでとう」

私は背中からそっと抱きしめた。由美子は、頬を欄干に預けるようにして笑った。

「ありがとう。こんなの、夢みたいだね」 「夢なら、来年も見るといい」 「来年?」 「また来よう。来年の11月25日、同じ部屋で」

由美子はふっと息を呑み、振り返った。 「本当に?」 「ああ」

私はそのままフロントに駆け下り、アントニオに言った。 「悪いが、来年の今日も301号室を予約したい」 「来年の今日? 1年後にですか?」 「そうだ。彼女の誕生日なんだ」

事情を説明すると、アントニオは目を丸くして、それから大げさに肩をすくめた。 「ロマンティコ! いいですね。では、必ずお部屋を空けておきます」

そんな調子で、私たちの「毎年11月25日、アマルフィで会う約束」は、軽い冗談のように始まったのだ。

夜。小さなレストランで誕生日を祝ったあと、二人でバルコニーに出た。海は黒く沈み、波の縁だけが月の光を拾って白く揺れている。 バルコニーには、籐の椅子が2つ、向かい合わせに置いてあった。編み目が少し粗く、肘掛けの丸みが柔らかい、素朴な椅子だ。

「この椅子、好き」

由美子が、肘掛けを撫でて言った。

「長いこと陽に焼けてる感じがするのに、ちゃんと形は残ってて。私たちも、こんなふうに歳をとれたらいいね」 「歳をとった私なんて、君は見たくないだろう」 「見たいよ。しわくちゃのおじいちゃんになっても、ここで海を眺めててよ」

由美子は、もう一つの椅子を軽く叩いた。 「私は、しわくちゃのおばあちゃんになって、ここに座るから」 「椅子のほうが先に壊れるかもしれないぞ」 「じゃあ、壊れる前に、もう一回来なきゃね」

そう言って笑う彼女の横顔を見ながら、私は、この約束が永遠に続くような気がしていた。

* * *

ところが、翌年の11月25日。私はその約束を、ひとりで守ることになった。

由美子は、ある日突然、私の前から姿を消した。

当時、自宅とは別に仕事場からほど近いところに、書斎兼宿泊できるワンルームのマンションがあった。由美子は私の自宅には来たことはなかったが、この部屋には時折思いついたように来て世話を焼いてくれた。 ある日私は夜遅くに仕事から帰ると、部屋は驚くほどきちんと片づいていた。食器は洗われ、本棚の隙間には一枚の小さなカードが立てかけてあるだけだった。

そこには、きれいな字で短くこう書かれていた。

――これ以上、あなたとは会えません。 ――私には、別の人生が必要になりました。 ――どうか探さないでください。

「愛している」とも、「ごめんなさい」とも書かれていない。あまりに冷たい文面が、かえって不自然に思えるほどだった。 私はしばらく、そのカードを持って立ち尽くしていた。

なぜ、という言葉が、胸の中でぐるぐると渦を巻いた。あれほど笑い合っていたのに。老後の話までしたのに。なぜ何も言わないのか。 怒りと悲しみと、どうしようもない空虚さが一度に押し寄せた。

追いかけようと思えば追いかけられた。でも、由美子が逢おうとしない限り、私は彼女の困った顔は見たくなかった。 それは、意地のようなものではなく、私なりの唯一の美意識だった。

それでも、11月25日だけは、何かに取り憑かれたように航空券を予約していた。 ――もしかしたら、約束の日には来てくれるかもしれない。 淡い期待というのは、どれほど愚かでも、人間を動かす。

二回目のアマルフィは、初めてのときよりも静かに見えた。 Hotel Amalia のロビーに入ると、アントニオは嬉しそうに笑った。

「お帰りなさい、シニョーレ・タカハシ。レディは?」

その問いに、私はうまく笑顔を作れなかった。 「……来られなかった」

それだけ言うと、アントニオは表情を変え、黙って鍵を差し出した。

301号室のバルコニーから見る海は、相変わらず美しかった。夕陽に染まる屋根、ゆっくりと寄せては返す波。だけど、そこに由美子の横顔はない。 私はバルコニーに椅子を2つ出し、一つには腰を下ろし、もう一つは空のままにして、ワインを2つのグラスに注いだ。

「来年は……来るのか?」

誰にともなく呟きながら、空のグラスを見つめた。 チェックアウトのとき、私はアントニオに言った。

「来年の11月25日も、301号室を頼む。……たぶん、またひとりかもしれないけどね」

照れ笑いを混ぜて言うと、アントニオは一瞬目を伏せ、すぐに顔を上げた。 「かしこまりました。お待ちしております、シニョーレ」

彼の目には、言葉にできない何かが宿っていた。

* * *

このホテルには、昔からの小さな習慣がある。その年に泊まった客の「代表住所」に、クリスマスカードを送るのだ。

初めて泊まったとき、宿帳に代表として住所を書いたのは由美子だった。それ以降、私は常連扱いになり、チェックインに宿帳は使わなくなった。 だから、私が11月25日にここへ泊まるたび、年末のカードは、東京・杉並区の彼女の住所へ送られていた。

――親愛なるお客様へ。 ――本年もご宿泊いただき、ありがとうございました。 ――どうか良いクリスマスと、新しい年をお迎えください。

ただの、ありふれたクリスマスカードだ。どこにも私の名前は書かれていない。 それでも由美子には、それが何を意味するのか分かったはずだ。 ――今年も、11月25日に彼はここへ来たのだ、と。

カードが届く年は、私がこの海を見た年。届かない年があれば、それは私がここへ来なかった年。 ……幸いなことに、カードが途切れることはなかったようだ。

もちろん私は、そんな仕組みを長いあいだ知らずにいた。ただ、自分ひとりが約束にしがみついているのだと思い込んで、毎年同じように飛行機に乗り、同じように301号室に泊まり続けたのだった。

なぜ由美子が姿を消したのか。私の何が足りなかったのか。それとも、ただ飽きられただけなのか。 そんな呪いのような問いは、年月とともに少しずつ角を丸くしていったが、完全に消えることはなかった。

それでも、11月25日になると、ここへ来ることをやめられなかった。この旅だけが、私の人生につながった一本の糸のように思えたからだ。

やがて60を過ぎ、70を越えても、その習慣だけは続いた。 だが、今年は違った。 78になった身体は、明らかに前ほど元気ではない。階段を上る足取りも重くなり、医者からは遠距離の旅行を控えたほうがいいとやんわり忠告された。

――今年で最後にしよう。 成田に向かう電車の中で、私はそう決めていた。

* * *

301号室の机に、ホテルの便せんが用意されている。レモンとインクの匂いが混じって、どこか懐かしい。 私はペンを取り、ゆっくりと由美子の名前を書いた。

「由美子へ」

届くのか届かないのかわからない手紙。 手紙を書くのは自己憐憫とはわかっていても、自分なりに終止符を打ちたかった。

それから、言葉を探しながら、25年間のことを短く綴った。 君がいなくなってからの季節。毎年同じ日に、同じ部屋で見た海の色。結局、結婚もせず、子どもも持たず、ただ働いてはこの旅だけを続けてきたこと。

最後に、こう書いた。

――本当は、来年もここで君を待つつもりだった。 ――でも、どうやら時間のほうが先に、僕を連れて行くらしい。 ――だから、今年を最後にする。 ――もしどこかでこの手紙を読む機会があったなら、 ――笑って「ばかね」と言ってくれ。

そこまで書いて、私はペンを置いた。 窓の外では、夕暮れが始まりかけている。海面の金の帯が太くなり、家々の窓から漏れる灯りの数が増えていった。遠くで教会の鐘が鳴り、どこかの家からトマトソースの匂いが漂ってくる。

そのときだった。 コン、コン。 控えめなノックの音がした。

* * *

「……はい」

ドアを開けると、そこに一人の若い日本人女性が立っていた。 黒髪をひとつに結び、グレーのコートの裾を両手でぎゅっと握っている。海風で少し頬が赤くなっていた。

「あの……失礼します。高橋さん、でいらっしゃいますか?」 「そうですが」

返事をすると、彼女は深く頭を下げた。その仕草のどこかに、見覚えのある線を感じた。うまくは説明できないが、胸の奥が小さくざわついた。

「突然お伺いして、本当に申し訳ありません。日本から参りました。ある方から、こちらにおられる日本人の紳士に手紙をお渡しするよう、頼まれておりまして……」 「ある方?」 「はい。その方は……亡くなる前に、どうしてもこの手紙だけは、と」

彼女はそう言って、一通の封筒を差し出した。 白い封筒。見覚えのある、丸みを帯びた筆跡。

――301号室のあなたへ。

差出人の名前を見た瞬間、時間が少し止まったように感じた。 由美子。 私は手が震えるのを感じながら封を切った。中から、同じ筆跡の便せんが現れた。日付が目に飛び込む。

11月20日。

つい、つぶやいていた。 「……今年の、11月20日?」

女性は小さく頷いた。 「はい。5日前です」

私は何も言えず、ただ便せんの文字を追った。

――11月20日。病室の窓の外は、今日も灰色の空です。 ――でも、目を閉じると、あの日のアマルフィの海が浮かびます。 ――あなたと初めて見た夕暮れの色は、25年経っても消えませんでした。

――あの旅から帰ったあと、 ――実は自分が新しい命を授かっていたことに気づきました。 ――驚きと喜びと、不安が入り混じり、 ――心がどこへ向かっていいのか分からなくなりました。

――その感情が落ち着かないうちに、 ――私はもうひとつの宣告を受けました。 ――私の身体が、長くはもたないかもしれない、という宣告です。

――病気の身で子どもを育てながら、 ――誰かに頼って生きていく未来を思うと、 ――私はどうしても、誰かの人生を巻き込む勇気が持てませんでした。 ――自分ひとりで抱えていくしかない、とそのときは思い込んでしまったのです。

――そのあと私は、子どもを産みました。 ――その子は、10月10日に生まれました。 ――秋の光が柔らかく差し込む日で、 ――私はその小さな手を見ながら、 ――この子こそが私に残された最後の季節だと感じました。

――私が姿を消したのは、あなたを自由にするためでした。 ――病気と子育ての重さを、あなたに背負わせることができませんでした。 ――だから私は、あなたに嫌われる道を選びました。

――アマルフィのホテルから届くクリスマスカードは、 ――私にとってあなたからの返事のようでした。 ――カードが届くたび、 ――「今年も、あの人はあの椅子に座って海を見ている」と思えました。

――でも逆に、あなたを、長いあいだ縛ってしまったかもしれません。 ――それでもどうか、最後に一度だけ、わがままを許してください。

――もし、今年も11月25日に、 ――あなたが301号室に来てくれているなら、 ――私の大切な娘に会ってやってください。 ――その娘の前では、どうか笑っていてください。

――そして来年の11月25日、 ――もしあなたがまだここへ来てくれるなら、 ――今度は私も、時間の向こう側から会いに行きます。 ――そのときに、もう一度だけ言わせてください。 ――「来年も、ここで」と。

              由美子

便せんの最後の一行が、涙でにじんで見えなくなった。 私はゆっくりと顔を上げ、目の前の女性を見た。

「……君が、由美子――由美子さんの、娘さんなのか」

驚きが先に立ち、そこまでしか言葉にならなかった。 彼女は、ほんの少し間を置いてから、小さく頷いた。

「……はい。由美子の、娘の……アマリアです」

アマリア。 胸の奥で、その名前が微妙な揺らぎを伴って響く。 Hotel Amalia。初めて二人で泊まった、この小さなホテルの名前。あのバルコニーで、由美子と寄り添った夜。 偶然だろうか、と一瞬思う。だが今は、そこまで考えが追いつかない。ただ名の響きだけが、静かに残った。

彼女は、便せんを見つめる私をしばらく黙って見守ってから、静かに口を開いた。

「……強い母でした。どんな状況になっても、誰かのせいにはしませんでした」

声には淡々とした響きがあったが、その奥に熱があった。

「子ども私がいてつらい事があっても、一度も、あなたに助けを求めようとしませんでした。むしろ、あなたに対して自分のほうから逃げたことを、ずっと気にしていました」 「……一度も、助けを求めなかった?」

自分でも驚くほど低い声が出た。

「ええ」

アマリアはまっすぐ私を見た。

「『私はひどいことをした。あの人に、ちゃんと説明もしないで』って。でも、それでも、『あの人の人生を壊したくなかった』って」

胸の中で、何かがゆっくりと軋んだ。怒りにも似た何かが、ふっと空気に溶けていく。

「今日は、手紙をお渡しするという約束を果たせたので……これで、失礼しようと思っていました」

彼女は軽く頭を下げ、ドアのほうへ向かおうとした。だが、数歩歩いたところで、ふと立ち止まり、振り返った。

「……アマルフィの海、本当に綺麗なんですね。ずっと、話でしか知らなかったので」

その横顔に、由美子の輪郭が、一瞬だけ重なったように見えた。

「そうか……アマルフィの話を君にしたんだね」

それしか言えなかった。 彼女は小さく会釈をして、部屋を出て行った。

* * *

アマリア――と、まだ声に出して呼ぶには実感の追いつかない存在――を見送ったあと、私はバルコニーに出た。

二つの籐の椅子。 向かい合わせに置かれたうちの一つの座面に、白い小さな花が一輪、そっと置かれていた。彼女が、出る前に置いていったのだろう。 花の種類はよく分からなかったが、どこかで嗅いだことのある控えめな香りがした。由美子がつけていた香水に、少し似ている気がした。

私は片方の椅子に腰を下ろし、向かいの椅子を見つめた。

「由美子」

夜の海に向かって、静かに呼びかける。

「……君は、ずっとここに来ていたんだな」

風が、頬を撫でた。あの晩、髪を揺らした風と同じ温度だった。 海の向こうで、教会の鐘が鳴った。その音を聞きながら、私は胸ポケットの中の便せんにそっと触れた。

どれくらいのあいだ、そうして座っていただろう。時間の感覚が、波にさらわれた砂のように溶けていく。 ふいに、もう一度ノックの音がした。

コン、コン。

「どうぞ」

ドアを開けると、先ほどの女性――アマリアが立っていた。目が少し赤くなっているが、表情はどこか決意を帯びている。

「あの……何度もすみません。最後にひとつだけ、どうしてもお伝えしたいことがあって」 「どうぞ」

私は部屋の椅子を指さしたが、彼女は首を振った。

「ここで、大丈夫です」

彼女はバルコニーのほうをちらりと見てから、言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。

「子どものころから、毎年12月になると、うちには同じようなカードが届きました。レモンの絵が描かれた、小さなクリスマスカードです」

私は息を呑んだ。

「母は、その封筒を見るだけで分かるんです。厚みとか、紙の手触りだけで、『あ、今年も来た』って。そして、カードを開ける前からこう言っていました。『今年も、海はきっと綺麗なんだろうね』って」

彼女は少し笑った。

「内容は、毎年同じでした。『今年もご利用いただきありがとうございました。またお越しください』。それだけ。でも、母には、それで十分だったみたいです。カードが届くたびに、『今年も生きててよかった』って言ってました」

私は喉の奥が詰まるのを感じた。

「……君は、その意味が分かっていたのか」 「子どものころは、よく分かりませんでした。でも、大人になってから、うすうす察するようになりました。母には、毎年同じ日に、同じ場所で海を見ている誰かがいるんだって」

彼女は、一度深く息を吸った。

「母は、私が生まれた日を、とても大切にしていました。10月10日。秋晴れの日だったそうです。『あなたは、海からもらった贈り物よ』って、よく言われました」

10月10日。 由美子とアマルフィに来た、あの年の少しあと。 Hotel Amalia。アマリア。 あの夜、バルコニーで交わした約束。

頭の中で、時間の線が静かにつながっていくのを感じた。

「……お母さんは、最後に何か言っていたかね」

やっとの思いで尋ねると、彼女は目を伏せた。

「亡くなる前の日に、握った手を離しながら言いました。『ようやく、あの人に本当のことを返せる』って。『あの人の時間を止めてしまったまま、私の時間だけ先に終わるのは、ずるいから』って」

胸のどこかで、長いあいだ固まっていたものが、ゆっくりと解けていくのが分かった。

「……そうか」

それしか言えなかった。 彼女はほんの少し迷ったような表情をしてから、口を開いた。

「長い時間、お邪魔しました。手紙をお渡しするという約束は果たせましたので、これで……」

そう言って、ドアのほうへ向かう。 私の中では、まだ言葉にならない何かがぐるぐると渦を巻いていた。 彼女がドアノブに手をかけたところで、ふと立ち止まり、振り返った。泣き笑いのような顔だった。

「……図々しいお願いだということは、分かっているんですけど」

彼女は胸の前で、そっと両手を組んだ。その仕草は、由美子がよくしていたものと、驚くほどよく似ていた。

「最後に一度だけ、『お父さん』って、呼ばせてもらってもいいですか?」

時間が、音を立てて止まった。

10月10日。あの旅の少しあとに授かった命。由美子の手紙。冷たい別れのカードの裏に隠された意図。毎年届いていたクリスマスカード。そして、あの名――アマリア。 そのすべてが、一つの線になって、目の前の一点に結びついた。

――この子は、私の娘だ。

喉の奥が、熱くなった。

「……ああ」

かろうじてそれだけ絞り出すと、彼女は目をぎゅっと閉じ、小さな声で言った。

「お父さん」

その2文字は、驚くほど静かだった。けれど、胸の奥に届いたとき、音を立てて何かが崩れ、同時に満たされていくのが分かった。 頬を伝うものを、私は拭おうとはしなかった。拭いてしまったら、この瞬間のすべてが消えてしまいそうな気がした。

「……ありがとう」

自分でも驚くほど穏やかな声が出た。 アマリアは、深く頭を下げた。

「いいえ。こちらこそ。会ってくださって、ありがとうございました」

静かに、ドアが閉まった。

* * *

私は再びバルコニーに出て、籐の椅子に腰を下ろした。

夜の海は、黒いベルベットのようだった。波の縁だけが銀色の線となって、絶え間なく打ち寄せては引いていく。 向かいの椅子には、一輪の白い花。

その椅子に、白いワンピースを着た誰かが腰かけている錯覚が、ふっと胸をかすめた。由美子が、そこに座っているような気がした。

「椅子は……まだ壊れてないよ」

思わず、あのときの約束をなぞるような言葉が口をついた。

「先にくたびれたのは、こっちのほうみたいだ」

自分でもおかしくなるほど、身体の隅々まで満ちていく穏やかさを感じながら、私は胸の内で、あるいは小さな声で、自分に語りかけるようにつぶやいた。

「……もう、いいかな」

それが本当に口から漏れた言葉だったのか、それとも心の中だけの声だったのか、自分でも判然としなかった。けれど、その瞬間、長いあいだ握りしめていた何かを、ようやくそっと手放せた気がした。

風がそっと頬を撫でた。遠くで、ピアノの音が聞こえた気がした。 昔見た古いアメリカ映画で、恋人たちがすれ違い、ようやく再会するときに流れていたような、柔らかいメロディーだった。

瞼が、少しずつ重くなっていく。 最後にもう一度だけ目を開けると、向かいの椅子に座る白い影が、微笑んでいるように見えた。胸の前で、そっと手を組んで。 私は、その影に向かって、ごく自然に微笑み返した。 そして、静かに目を閉じた。

* * *

翌朝。301号室のバルコニーには、柔らかな光が差し込んでいた。

アントニオは、控えめにノックをしてから部屋に入った。ベッドが乱れていないことに気づき、窓のほうへ視線を向ける。 そこには、籐の椅子に座ったままの私がいた。

背筋を伸ばし、海を見つめる姿勢のまま。その顔は、穏やかに微笑んでいるようにも見えた。 向かいの椅子には、一輪の白い花。

アントニオはしばらく黙って立ち尽くし、それから小さく十字を切った。

「……ようやく、お三人で同じ景色をご覧になれましたね」

窓の外では、11月の陽が海を金色に照らしていた。波の音が、遠いピアノの伴奏のように静かに続いていた。

(了)


あとがき

『アマリア ──アマルフィの11月25日』をお読みいただき、ありがとうございました。

この物語は、「人はどこまで、ひとつの約束に人生を預けてしまうのか」という問いから生まれました。高橋は、ある意味でとても不器用な男です。現実的に考えれば、25年も同じ海を見つめ続けるのは愚かに見えるかもしれません。それでも彼が通い続けたからこそ、時間の向こう側から、あの手紙とひとりの女性が辿り着くことができたのだと思います。

人生には、説明のつかない「待ち時間」があります。報われないまま終わってしまったように見える想いもあります。それでも、誰かを想い続けた時間そのものは、決して消えないし、どこかで必ず形を変えて返ってくる――そんなささやかな希望を、この短編に託しました。

読み終えた今、あなたの中に少しでもアマルフィの風のような温度が残っていたら、とても嬉しいです。 短い一言でも構いませんので、感想をいただけたら、これから書いていくうえで大きな励みになります。

Satoshi


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