プラハ【NOMAD weekly No.26】
アムステルダムの冷徹な合理や、ブルージュの凍りついた沈黙とは違う、うねるような「歴史の重力」がこの街にはある。2010年の春、火山の噴火でヨーロッパの空が閉ざされた日、私は偶然にもプラハへと導かれた。予定不調和から始まったその短い旅は、絵葉書のような中世の古都の裏側に隠された、驚くべき強靭さを私に見せつけた。カフカが描いた不条理、伝統美に牙を剥くキュビズム建築、そして泥にまみれても壊れない工業の誇り。幾度も大国に翻弄されながら、知性とユーモアを武器に生き抜いた、誇り高き石の都の深層へ潜り込む。
プラハ / チェコ共和国
ーー不条理の迷宮に、強靭なる中欧の骨格を見る。ーー
【NOMAD weekly No.26】
序章:予定の消失と、不意に開かれた古都の扉
旅の記憶というものは、綿密に計算されたスケジュールよりも、不意に生じた「空白」にこそ深く沈殿していく。私が初めてチェコの首都プラハの土を踏んだのは、仕事の目的地として自ら計画して訪れたわけではなかった。
2010年の春。アイスランドの火山、エイヤフィヤトラヨークトルが大噴火を起こし、その巨大な灰の雲がヨーロッパ全土の空域を次々と閉鎖していくという、未曾有の航空混乱が起きたあの日のことだ。約10万便がキャンセルされるという異常事態の中、私は出張先のドイツ・ニュルンベルクで完全に足止めを喰らっていた。
「一週間は飛ばないと思うよ」という現地の友人の言葉通り、帰国の目処は全く立たず、私は城壁都市の中で途方に暮れていた。そんな宙ぶらりんの時間を過ごしていた私を、思いがけない偶然の連鎖がプラハへと導いてくれた。当時、台湾から来ていた取引先のご夫婦が、暇つぶしにと車で私をプラハへ誘ってくれたのだ。ご夫婦の旦那さんがチェコ出身だったこともあり、プラハには親戚も多く、2泊3日程度の短い旅だったが、現地の人々の温かい輪の中でひどく賑やかに過ごすことになった。
仕事のプレッシャーもなく、ただ「空が閉ざされた」という不可抗力によって強制的に与えられたモラトリアム。しかし、中世の絵葉書のような表層を打ち破り、その街の深い地層へと私を引きずり込んだのは、この予定不調和な旅の始まりだった。
今週のNOMAD weeklyは、私が今まで滞在した街を仕事上の俯瞰した目を通して観察する旅エッセイとして、幾度も歴史の波に翻弄されながら、強靭な知性と美意識を手放さなかった街、プラハの深層へと潜り込んでいく。

第一章:モルダウの調べと、石の記憶
プラハの中心をとうとうと流れるヴルタヴァ川(ドイツ語名:モルダウ川)。この川辺に立ち、鈍く光る水面を眺めていると、チェコを代表する作曲家ベドルジハ・スメタナの交響詩『わが祖国』の旋律が、幻聴ではなく、この街が発する実際の環境音として脳内に響き渡る。
アムステルダムの運河が泥と水の上に築かれた人間の執念と合理のインフラであり、ブルージュの運河が時間を薄く引き伸ばす沈黙の鏡だとすれば、プラハのモルダウ川は、もっと重厚で、うねるような「運命」そのものを感じさせる。水源から湧き出し、森を抜け、村の婚礼を横目に、急流を越えて堂々とプラハの街へと流れ込んでいくスメタナの楽曲構成は、そのままこの街が辿ってきた波乱の歴史と完全に重なり合う。
ロマネスク、ゴシック、ルネサンス、バロック、そしてアール・ヌーヴォー。プラハはしばしば「建築の生きた博物館」と称される。戦禍による決定的な破壊を奇跡的に免れ、各時代の建築がそのままの姿で保存されてきたからだ。だが、プラハの街並みは決して過去を懐かしむだけの死んだ風景ではない。

台湾から来た友人夫婦の親戚宅で振る舞われた家庭料理を囲み、言葉の壁を越えてとりとめのない仕事関連の話をしていた夜。窓の外には、何百年も変わらない街の灯りが滲んでいた。観光客として一人で歩いていれば決して入り込めなかったであろう、プラハの深い「体温」に触れた瞬間だった。
しかし、プラハの真の魅力は、こうした古典的な美しさだけではない。この街には、世界でも類を見ない、極めて前衛的で奇妙な美意識が根付いている。
第二章:キュビズムの洗礼——美しさに牙を剥く精神
旧市街を歩いていると、突然、周囲の中世的な景観とは明らかに異質な、しかし奇妙な調和を持った建物に出くわす。その象徴が「チェコ・キュビズム」である。
ピカソやブラックがキャンバスの上で行った「対象の解体と再構築」というキュビズムの実験。それを絵画の世界にとどまらず、建築や家具、日用品の立体造形にまで適用して現実の街に建ててしまったのは、世界中でこのチェコだけだ。

ヨゼフ・ゴチャールが設計した『黒い聖母の家』を見上げると、その特異な精神性がよくわかる。それまでヨーロッパを席巻していたアール・ヌーヴォーの有機的で柔らかな曲線を徹底的に拒絶し、鋭角な斜面やクリスタルのような多面体で構成されたファサード。そこには、ただ伝統的な美しさに甘んじることを良しとせず、常に知的な反逆を試みるプラハの芸術家たちの「鋭い精神性」が結晶化している。
プラハは、甘いおとぎ話の都ではない。知性と前衛が、分厚い歴史の地層に鋭く突き刺さっている街なのだ。
目次
序章:予定の消失と、不意に開かれた古都の扉
第一章:モルダウの調べと、石の記憶
第二章:キュビズムの洗礼——美しさに牙を剥く精神
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第三章:カフカの影——不条理という名の迷宮を歩く
第四章:プラハの春——石畳に沈殿する血とビロードの風
第五章:熱狂の教室——予定不調和という名のスリル
第六章:沈黙の工業大国——キルギスで気づくチェコの骨格
第七章:美食の地層——重厚なる中欧の胃袋を満たす
◆ プラハで足を運びたい名店
終章:灰色の空がくれたもの
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「NOMAD weekly」は、毎週土曜日にお届けする小さな旅の雑誌です。 仕事の傍らにふらりと立ち寄った街、滞在のすき間に見つけた景色、…
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