翳に沈く森の果て #1 月 |小説
大人になって自分の本心を聞かなかったことで酷く自分を傷つけてしまい、前に進めなくなったことを機にもう一度自分らしく生き直そうと決意した璃乃(著者自身)。三年ほど書き溜めたメモや詩、自分なりのささやかな考察を整理し、人生初期からの心の棚卸しを決行。その過程を、参考とさせていただいた脳科学者ジルボルト・テイラー氏のWHOLE BRAINという著書を参考にし、一年かけ実際に行った「自分を知る、自分を救う」という作業記録を小説という形にして綴ってみました。(作業の進捗具合で回により文字数にかなりの幅があります)
辛い記憶も未来の糧となることを知り、土台となる”自分の中にあった四人の存在と世界”を知ることができた、人生で最も有意義な一年でした。
(ヘッダー等:画像はAI、写真は自身の撮影 / 音源の画像はAI、音源は自作)
森へ
今日は月が見当たらないな?
璃乃は昼夜を問わず、時々ベランダから空を眺めるのが好きだ。
今夜も家のベランダから見える小さく切り取られた夜空に月を探していた。いつか何かの投稿で見かけた家庭用の天体望遠鏡で撮影したという写真に驚いたことを思い出した。小さくてぼんやりとではあったけれど、璃乃の知っている木星や、土星の輪まで映し出されていた。璃乃は自分の目で見ているわけではないのにまるでレンズを覗いている気持ちになって”本当にあるんだ”という不思議な実感と何かが込み上げてきた。涙だ。そしてなぜか溢れた。いつか小さな天体望遠鏡を手に入れたい。自分の目でレンズを通して夜空の星を見てみたいと思った。
理由は分からないけれど、璃乃はなぜか海もとても好きだ。旅行先はたいてい海だった。当たり前のように選んでいたけれど、随分後になって島や海辺の街ばかり選んでいたことに気が付いた。いつからか「海がなければ生きていけない」と思うようになっていた。最近はなぜか木々に触れたい気持ちが湧き上がっていることに気付いた。この町に住んで十年以上になるのにまだ行ったことのない森林公園がとても気になってきていたのだ。
さて。
今日はとてもいい天気だからあれこれ考えてしまう自分を抑えて璃乃はその森林公園を目指してみることにした。何となく普段はあまり使わない古い腕時計をつけた。
その腕時計はこの間実家を掃除している時に出てきた大昔のものだ。親に貰ったことは憶えてはいたけれど、母に聞くと幼稚園の入学祝いにと両親が買ってくれたものらしい。そんなに古いもの?文字盤にはミッキーマウスがいるけれど、大人サイズの腕時計だ。なぜ幼稚園児にそんな大きな時計を?母も憶えていなかった。それはもちろん時は刻んでいないしベルトはもろもろだった。けれど手に持った時、璃乃は”愛情”しか感じない。確かにそう思った。涙が出た。
せっかくなので試しにそれを時計の修理店に持って行ってみると、無理だろうと思っていたその時計は動いていた。璃乃は今動き出してくれたその大人サイズの腕時計のベルトを交換して随分大人になったいま、大切に使うことにしたのだ。
璃乃は急いでおにぎりを作って本やノートパソコンを鞄に入れてとりあえず家を出た。
寒さも和らぎ久々に心地良い風を感じられるようになってくると気持ちまで暖かくなるようで嬉しくなり、車に乗り込んで好きな曲を聴きながら山へと向かった。
ところが山に入ってしばらくするとナビは璃乃に「脇道へ降りろ」と言っていたのか、よく分からないまま画面から目的地の森林公園は消えてしまっていた。実は以前にも一度行ってみようとして同じルートでは辿り着けず諦めたことがあった。何となく近くて遠い場所。璃乃は仕方なく車をそのまま走らせていると、この森の先にもう一つ気になっていたとある神社に辿り着いた。同じように前回道に迷った時にも前を通り、場所を確認しただけで参拝はせずまたの機会にと後にしたことがあった神社だ。
今日もまた道を間違ったのか。
気がつくとその神社に着いていた。以前よりずっと近く感じた。今日はこの山々を守っている神様にご挨拶をしていこう。そう思って小さなお社を参拝することにした。
人影もない神社。小さなお社の説明を読むとなるほど、山の麓に水を届けている龍神様もお祀りしているらしい。璃乃はずっと住みたいと思っていたこの土地にご縁をいただいたことと、とても遅くなったけれど初めてご挨拶に来る機会を得られた感謝の言葉を心の中で呟きながら手を合わせた。
参拝を終えると、やっぱりこんなに天気の良い日には何としてもあの森林公園へ行きたいと心を動かされ、再び挑戦することにした。ナビの設定をし直し、来た山道を戻った。随分遠回りにはなったけれど、璃乃は行ってみたかったその場所にようやく辿り着いた。
森林公園
車を停めて木が生い繁る公園へと入っていった。すると子供達が走り回ったりして遊んでいる声が聞こえて来て、ほっとしたのもあり、璃乃は自然と口角が上がった。遠くで鳴る飛行機のエンジン音も山肌に丸められ反響してはしばらくして消えていった。立ち止まると枝が支えるたくさんの葉が風に揺れているのがなんだか木々の囁きのように感じた。その枝たちの重なりのずっと向こうにある雲がゆっくりと動いているのを眺めていた。
風は見えないけれどこうして目で、耳で感じ取れる。土や新緑の匂いもこの鼻まで運んでくる。風は掴めないけど確かに何かを動かしている。こんな静かな場所に来ないと気が付かないことだったんだな。頭の中でそんな独り言を言いながら春から初夏へと向かう山を撫でる風の中、璃乃は森林公園の奥へと進んでいった。橋の下には沢が流れ、その音に気持ちも洗われるようだった。初めて訪れた山の中のその大きな森林公園は、璃乃には別世界に感じられたのだった。
その時突然辺りを覆う枝たちが風に大きく揺れて葉音が鳴り渡ったので、璃乃はぐるりと見渡した。高く昇った太陽の下をふわりと何かが横切った。雲が横切って光を遮ったのかなと思うような翳りを感じた。一瞬だったから気のせいかと思ったけれど、空に大きな鳥が一羽横切って行っただけだった。それ以外は雲ひとつない空のままだった。
その後、さらに緑が深く薫る森の中を進んでいくと木々の根元は皆苔で覆われていていた。おそらく落雷や虫などから受けたと思われる大きな傷にも負けずに生きて来た結構な樹齢の木もある。それらの足元からは絡むように伸びる無数の根が蛇のようにうねり、地面に潜り込んでいた。璃乃は長い年月をかけてこれらの一つ一つがこの森を、山を支えているんだな、そう感じながら果てしない悠久の時を想像していた。
「おぉ・・」
すぐ目の前の柵もない斜面が気になった。枯葉の絨毯ってどんなふうになっているのかな?ふかふかっぽいな。リスとか小動物なんかいないのかな?と、ちょっとした好奇心だった。
続
