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かっこつけない場でしか出てこない言葉って、あると思いませんか?|問いびいき#23

深夜の、少しだけざわざわした居酒屋のテーブル。

お酒のグラスの結露が、ゆっくりとコースターに染みていくような時間帯。

何人かの友人たちと、とりとめのない話をしていたんです。

テーマは、たまたま「メタ認知」のようになっていました。

自分を上から俯瞰して見る視点って、どうやったら身につくんだろうね。

そんな、答えなんてすぐに出るはずもない、少し抽象的な問い。

そのとき、一人の友人が、手元のコップを少し回しながらボソッと言ったんです。

「いや、一旦それについて仮説を考えてみたんだけど、なんか、やめた」

で、その後に、彼は別の話題を口にするわけでもなく、ただ静かにビールを口に運びました。

私はその瞬間、なんというか、ものすごく惹かれてしまったんですよね。

普通なら、頭に浮かんだ仮説は、つい言葉にしたくなるものだと思うんです。

「それって、要するにこういうことなんじゃない?」って。

でも、彼はそれを口にしなかった。

自分の頭の中で一度組み立てた仮説を、言うのを踏みとどまって、止まった。

その「考えた末に、止まれる」という、一見すると何でもないような動作。

そこに、私は本当に深く考えている人のサインを、うっすらと感じたんです。

深夜のテーブルに、そっと置かれた言葉

私たちは、日頃からたくさんの言葉に囲まれて生きています。

特に仕事の場なんかでは、分かりやすい答えや、すぐに役立つ知識ばかりが求められますよね。

「で、結論は何?」と急かされるような毎日。

そこでは、頭に浮かんだもっともらしい理屈を、いかに早く、それらしく差し出すかの勝負になります。

でも、あの深夜のテーブルで友人が見せたのは、その真逆の姿勢だったような気がするんです。

一度考えたけれど、それはまだ言葉にして外に出せるほど、確かじゃない。

だから、今回は差し出すのをやめておく。

その、ある種の潔さというか、誠実さみたいなもの。

それに触れたとき、私の胸の奥が、なんとなく静かに揺れたんですよね。

私たちは、誰かが完璧に整理してくれた「答え」や「知識」を共有することには、すごく慣れていると思うんです。

本を開けば、素晴らしい著者が何年もかけて磨き上げた「完成品」が手に入りますし。

一方で、その手前にある、まだ形になっていない思考。

今まさに揺れていて、詰まっていて、未完成なままの半端な思考。

そういうものに触れる機会って、実は日常の中で、ものすごく希少なんじゃないかなと。

誰かが今まさに抱えている「進行中の問い」そのものを、そっと見せてもらうような感覚。

だとすると、そういう言葉というのは、どこでなら出てくるのだろう。

そんなことを、うっすらと考え始めていたんです。

「今、どんな問いに詰まっているか」という贅沢

本に書いてある素晴らしい知識や経験は、ある意味でいつでも手に入ります。

お金を払って本を買えば、完璧にパッケージされた理論が読める。

でも、目の前の人が「今、まさにここで詰まっている」という生の思考。

それって、その場、その瞬間、そして「かっこつけない場」でしか共有されないんですよね。

マウントを取らない。

お互いに、かっこつけない。

そういう、どこか深夜ラジオのブースのような、生の思考がただそのまま流れる空間。

そこに参加していた人たちが、誰も「自分をよく見せよう」としていなかったからこそ、あの友人は半端なままの思考をテーブルに置けたのかなと。

もしあの場に、少しでも「俺の方が知っているぞ」という空気があったら。

彼はきっと、仮説を引っ込めることなく、それらしい言葉で武装して喋っていたはずなんです。

自分の知らない自分や、中途半端な自分を、そのまま相手に差し出すこと。

それは、弱さを見せることでもあるから、すごく怖いことなんですよね。

前に、田中泰延さんの『会って、話すこと。』という本を読んだんです。

その中に、こんな一文があって、ずっと心に残っていました。

「生半可な知識を振り回さず、あまり知らない自分を、正直に相手に差し出そう。」

— 会って話すこと。 / 田中泰延

この本、気になった方はこちら👇

あの夜のテーブルで起きていたことは、まさにこれだったんじゃないか。

そんな気がして、あとからうれしくなってしまったんです。

生半可な知識で自分を飾り立てるのをやめて、あまり知らない自分を正直に置く。

それができる関係って、ものすごく贅沢なものだと思うんですよね。

不確実性を、未完成のまま差し出す

友人が「考えて、やめた」と言ったとき、私たちの間には、なんとも言えない静かな時間が流れました。

そこには「早く答えを出して片付けよう」という焦りが、一切なかったんです。

こういう、答えが出ない状態に耐える心の持ち方のことを、

後から調べたら「ネガティブ・ケイパビリティ」って言うらしくて。

平たく言うと、どうにも答えの出ない状況や、割り切れない問題に対して、

焦って白黒つけようとせず、不確実な状態のまま持ちこたえる能力のことらしい。

「わからないままにしておく心の強さ」みたいな感じ。

これって、まさにあの友人が、仮説を抱えたまま踏みとどまった姿勢そのものですよね。

「今んところそうかな」という、暫定的な態度を自分の中で許せること。

そして、周りもそれを「早く結論を出せよ」と急かさずに、ただ待てること。

さらに、対話の中で、すぐに正しい答えや治療方針を導き出そうとせず、

お互いの意見のズレや、未完成のアイデアをそのままの形で尊重し合う姿勢。

これを、心理学や対話の分野では「不確実性を抱え続けること」と呼ぶアプローチがあるみたいなんです。

要するに、答えを出してその場をきれいに片付けるんじゃなくて、

「未完成のまま、ただ場に置いておく」ということ。

それって、あの時、私たちがかっこつけずに、

ぐちゃぐちゃした思考のままテーブルを囲んでいた空気そのものなんじゃないか。

そんなふうに、自分の体験と、あとから知った言葉たちが、

うっすらと頭の中で重なって、つながったんですよね。

答えがないことの気持ち悪さに、私たちはすごく弱い。

だからこそ、すぐに「それっぽい答え」で蓋をして、安心したくなってしまう。

でも、本当に大切な言葉や、自分だけの深い気づきというのは、

その「気持ち悪さ」のただ中に、じっと佇んでいるときにしか生まれないような気がするんです。

承認が「邪魔」だと腑に落ちた、アラサーの夜

白状すると、昔の私は、これが全くできませんでした。

いつだって、誰に対しても、どこかでマウントを取ろうとしていたんです。

友人との会話でも、相手の話を心から聞くというよりは、

「次に自分は何を言おうか」ということばかり考えていました。

「俺はこんな本を読んでいる」

「俺はお前より、この構造を一段高いところから見ているぞ」

そういう、浅い優越感や、よく見せたいという見栄。

それらを必死に言葉の鎧にして、自分を大きく見せようとしていました。

本当に、今思うと、必死すぎて恥ずかしい限りなんですけど。笑

当時は、他者からの評価や、周囲からの承認という「天井」を、

必死になって追いかけることが、正しい生き方だと思い込んでいたんですよね。

ですが、アラサーの頃、じわじわと人生の辛さがのしかかってきた時期があって。

仕事も、人間関係も、自分の思い通りにいかないことばかりが増えていきました。

そんな、どうにもならない辛さの中で、たくさんの本を読んだり、

数少ない友人と、夜を明かすように本音で語り合ったりしていくうちに、

ある一つの構造が、うっすらと見えてきたんです。

それは、「変えられないことへの依存が、苦しみを生み出している」ということ。

他人が自分をどう評価するか。

自分のことを、すごいと思ってくれるか。

それらはすべて、他者側の都合であって、自分には絶対にコントロールできない。

それなのに、その変えられない他者の評価に、自分の幸せを完全に依存させていた。

その構造に、心から、ストンと納得がいった瞬間があったんですよね。

そこから、他者評価や承認欲求というものが、

「別に要らないな」を通り越して、はっきりと「邪魔だな」と腑に落ちたんです。

自分をよく見せようとするための、速くて、中身のない建前の言葉。

そういうものが、自分の生活をただ空虚にしていくだけだと分かってしまった。

だとすると、わざわざマウントを取るために、

言葉の鎧をまとう必要なんて、最初からなかったんじゃないかなと。

答えのない問いを、ただ転がし続ける

今の社会は、あまりにも「速い答え」を求めすぎているような気がします。

ネットを開けば、1秒で「正解らしきもの」が画面に表示される。

でも、そうやって即答できる人というのは、

裏を返せば、何も考えていないから即答できているだけなのかもしれないです。

「普通はこうでしょ」という言葉を、

私はどこかで「疑いが届いていない場所の名前」だと捉えているんですが、

その普通という枠の中に、安易に逃げ込んで、考えるのをやめてしまう。

それに対して、かっこつけない場で、

言葉を詰まらせながら、迷いながら、

「今んところそうかな」と、なんとか絞り出すような半端な言葉。

私たちは、そういう、生の、未完成な思考をもっと愛おしんでもいいと思うんです。

答えは出ないかもしれない。

自分の言っていることは、明日には矛盾しているかもしれない。

それでも、自分をよく見せようとすること(それがいちばん嫌いな建前なんですが)を手放して、

今抱えている問いを、ただそのまま差し出してみる。

そういう、深夜ラジオのような、

誰の評価も気にしなくていい静かな場所が、

私たちの人生には、絶対に必要なんじゃないでしょうか。

あの日、友人が見せた「仮説を考えて、やめた」という静かなブレーキ。

あの瞬間に漂った、割り切れない不確実な空気。

私は今でも、あのざわざわとした居酒屋のテーブルを思い出すたびに、

答えを急ぎそうになる自分を、そっと立ち止まらせることができるんです。

あなたには、かっこつけないで、

半端なままの思考をそっと置ける、そんな場所がありますか?


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