見出し画像

恋愛と宝くじとノーベル賞、信じる者だけが報われる?

僕ならそんな確率の低いことに挑戦しない

1000万分の1。
ノーベル賞を受賞する確率として聞いたことがある。
落雷で死ぬ確率。そして…大学時代の憧れのあの子から「私も、ずっとあなたのこと気になってたの」と言われる確率も…まぁ同じくらいか…。

つまり、ノーベル賞を取るというのは、「雷に打たれながら宝くじを当てて、片思いが両想いになる」という、もはやラブコメ漫画の最終回みたいな奇跡と同レベルってこと。

こんな話を聞いてから宝くじを買わなくなった。そりゃそうだろう。米粒200kgの中から1粒を引き当てるレベルの確率。人生のリソースをそんな無謀なことに費やしてる場合じゃない。なんて思っていたはずなのに、先日、あるビジネスの集まりで6億円の当選者と話す機会があった。

その瞬間、僕の中の慎重派は一瞬で吹き飛んだ。「いや、買ってみようかな」と思ってしまった。単純すぎる。冷静に考えれば、6億円当てた人がこの世に何人かいるとして、それが自分の目の前にいて、話をしている確率も相当すごい。でも、そんな計算より「目の前に当たった人がいる」というインパクトの方が勝ってしまう。

「確率なんて気にしてるのがバカらしい」と思う反面、「やっぱり無理だろ」とも思ってる自分もいる。脳内でずっと天使と悪魔がジャンケンしてる感じ。


ノーベル賞は、努力で当たる宝くじ?

寄生虫病などに苦しむ数億人の命を救ったイベルメクチンを開発し、2015年にノーベル生理学・医学賞を受賞した大村氏の対談記事を読んだ。もちろん、大村智氏はノーベル賞を狙って研究していたわけではないし、「確率」なんて気にして生きていたとは到底思えない。

そこで印象的だったのは、この言葉だった。

縁尋機妙 多逢聖因(えんじんきみょう たほうしょういん)

安岡正篤

良き縁が良き縁を呼び、出逢いがさらなる運命を導く。そんな意味のこの言葉が、大村氏の人生を象徴しているように思えた。

農家に生まれ、母は元小学校教員。読書好きの母の影響で学問に興味を持ち、盲腸の手術で療養しているときに読書に目覚めた。それを見た父が大学進学を勧め、進学先で恩師と出逢い、夜間高校では仕事と学問を両立する生徒たちに刺激を受けた。

すべてが「偶然」のようでいて、どこかで何かが導いているような出逢いの連続。研究所、アメリカ留学、そして共同研究者のキャンベルとの出逢い──まるで奇跡のドミノ倒しだ。


恋愛だって、当たり前に成就しない

読み進めながら、ふと思った。
これって恋愛と似てないか、と。

「運命の人」なんて、都市伝説レベルの存在で、実際は出逢い、信頼、行動、タイミング、その全部が合致したときにしか成就しない。なのに人は、SNSでキラキラしたカップルを見て「いいなぁ」「あんなふうになりたいなぁ」と言ってる。

でも、その裏には何十人分の「うまくいかなかった出逢い」があるはず。大村氏の人生もきっとそうだったはず。会って、話して、つながって、信じて、踏み出して──それを何度も繰り返した結果が、ノーベル賞だったのではないだろうか。

恋愛もノーベル賞も、「たった1回でうまくいく」ことを期待してるうちは無理。告白してフラれて家で枕を濡らす…いや枕を殴った夜があって、ようやく人は本気になる。


確率が上がる生き方はある

ノーベル賞受賞者はこれまで900人あまり。ノーベル賞は個人だけでなく団体に与えられることもあり、約900人ということになるのだそうだ。数字だけ見れば「不可能」だけど、大村氏の話を読む限り、それは「競争を勝ち抜いた成功者」というより、「誰も踏み込んでない場所に静かに道を刻んだ人」という印象だった。

素直さ、勇気、根気強さ。それらをもって、縁を信じて進み続けた結果として、誰もいない荒野に自分の轍を残した。その足跡の先に、たまたまノーベル賞があった──そんな感じではないか。

「ノーベル賞の宝くじ」は、きっと買う人が少ない。必要なものが多すぎて、みんな最初から諦めるからだ。だからこそ、買った人にはチャンスがある。
ただし、誰もいない場所に飛び込むという、強烈な孤独とリスクがセットでついてくる。


僕はそんな確率の低いことに挑戦しない(はずだった)

無作為に印刷された紙切れの中に「当選」を求める宝くじと、人生という名のキャンバスに自分の道を描いていくノーベル賞とでは、似て非なるもの。

「僕ならそんな確率の低いことに挑戦しない」──そう思っていた。
でも今は、「確率が上がるような生き方を選び続ければいい」と思っている。
ん? それって結局、「確率の低いことに挑戦してる」ってことになるのか?

まぁ、恋も夢も、確率を理由にして逃げてたら一生始まらないってこと。

いいなと思ったら応援しよう!