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『名前を捨てた日』 ep1〜期待を込められた腫れ物〜

あらすじ

 名前には願いが宿るという。愛なのか、救いなのか、それとも、ただの呪いなのか。僕はその願いの正体がわからなかった。

 僕の名前は功平。けれど“功”も“平”も、ずっと僕のものではなかった気がする。

 それでも、舟はもう出ていたのだ。本当の名前を探す長い航海が、あの団地の片隅から、そっと始まっていた。

 2021年3月、警察官を退職したあの日、功平という名を捨て、平仮名の「こうへい」を名乗ることにした。この物語は社会を変えようとか、そんな、大それたものではない。人生100年時代と世間は言うが、今まで心身を酷使してきた自分はそんな長く生きられるはずがない。だから、まもなく43歳を迎える今、人生の半分を過ぎたであろう自身のヒストリーを記し、記憶を整理することで、人生後半の航海に出るための準備に充てようと思う。あくまでも己のエゴのために記していくものであることを伝えておきたい。

 大阪の田舎で、“半”母子家庭で育った子どもが、最愛のパートナーと出会い、なぜ社会に向けて発信するに至ったのか。家族の話し、柔道の話し、恋の話し、警察の話しなど、メディアでは語らない本音の旅に、どうぞ、お付き合いください。

第1章「期待を込められた腫れ物」

 名前には、きっと“願い”が込められている。でも僕は生まれたその日から、“期待”のほうに包まれて育った気がする。それは温かな毛布のようでいて、時に息が詰まるほど重たかった。

 1982年4月17日、大阪の南部にある泉北ニュータウンの病院の一室で僕は出産予定日よりも3週間ほど早く産声をあげた。母曰く、医師が立ち会う間もなく、二人の看護師たちあいの下、分娩台にもたれかかってわずか数分で生まれたらしい。

 泉北ニュータウンは、1960年代から急速に開発された大阪南部のベッドタウンだった。都市の喧騒を逃れた“理想の生活”を夢見て、多くの家族がこの新天地に希望を託し、転居してきた。団地が整然と並び、バスが町の隅々まで張り巡らされ、植え込みや公園には都市計画の意志が息づいていた。けれど、開発から20年を過ぎた1980年代初頭には、その“理想郷”の足元に、既に綻びが見え始めていた。

 人の営みは、設計図通りにはいかない。無機質なコンクリートの団地群には、都市の片隅に取り残されたような孤独が棲みつき、住民たちはその静けさの中で、それぞれの小さな苦しみや秘密を抱えながら暮らしていた。功平の家族もそのひとつだった。

 母は予定より早く、生後3ヶ月で功平の授乳期を切り上げ、大阪・阿倍野で醤油やだしの卸売業を営む父方の祖父母に預けた。祖父母の家は、当時の日本家屋といった感じで灰色の屋根瓦の平屋の一軒家で、うなぎの寝所のような設計図だった。正面玄関を入って細い廊下を進むと右手の土間に台所があり、左手にある小さな居間が功平の寝室に使われた。祖父母の性分と功平の丸みを帯びない後頭部から想像すると、預けられた大半は、その小さなスペースで放置して寝かされていたのだろう。静かな平屋の天井からは時折、ネズミが威勢よく這う音が鳴り響いていた。

 母が功平を手放したのには理由がある。功平が生まれる3年前、母は長男・ダイスケをわずか10ヶ月で亡くしていた。功平が眠りに就く時、母はダイスケと同じ道を辿るのではないかという不安から当時、不眠状態に陥っており、ダイスケがこの世から消えてしまった「10ヶ月」を過ぎるまで、功平を己の手で育てることを放棄した。

 桜の満開期が過ぎ、春風と共にただの木々の姿に戻る功平が1歳の誕生日を迎える頃、母は功平を祖父母から自分の手中に連れ戻した。

 大阪の実家は泉北ニュータウンにある庭代台エリアの団地の角の一階で、ベランダから生い茂った雑草に続き、三階に住む町内会長が独占する畑、その奥には団地住民専用の駐車場があった。玄関を出てすぐ左には団地専用の小さな公園がある。ベランダからは排気ガスと町内会長が不定期にまく獣の糞のようなフレーバーの農薬、そして、我が家5人分の天日干しの毛布の匂いがした。

 家族は母、父、6歳上の長女、5歳上の次女の5人家族で、功平が物心ついた時には父は夜遊びに明け暮れ、あまり家に顔を出さなかった。実質、経済的にも精神的にも我が家の一家の大黒柱は母だった。当時の記憶で今でも鮮明に覚えていることがあるの。1歳頃、笑顔の父に抱き抱えられた時、恐怖心で全身が凍りついた記憶。人の形をした憎悪の塊。赤の他人のような感覚。言語コミュニケーションを覚える前の本能で感じ取った感覚。それは大人になった今でも続いている。

 ようやく実家に連れ戻されたのも束の間、保育園に預けられた功平は、おとなしくでひっ込み思案ではあったものの、大人の顔色を伺い、それなりに優良保育園児を務めた。鬼ごっこや三輪車などのアクティブな遊びより、ルールがなく自由に表現する歌やお絵描きなどのインドアな遊びが性に合っていた。同い年の子どもたちが常軌を逸した目でオモチャを取り合うシーンに功平は馴染めず、自分の身を守るために、おとなしめの子どもや保育園の先生の近くで平和に過ごすことが多かった。

 唇というプライベートゾーンを他人に占領されたのは意外と早く訪れた。保育士のカタヤマは、引っ込み思案な功平に気をかけ保護してくれる保育園での生存戦略において貴重な存在であったが、過剰なほど溺愛気質で、よくほっぺにキスを求めてきたのが苦痛で仕方なかった。しかし、功平はこの保育社会でうまくやっていくためだと条件を飲んだ。日本の性教育の敗北。これが身体の自己決定権を剥奪され、占領され始める最初だった。

 不快に思うその事実よりも、母が功平を大切にしてくれるタカヤマを信頼し称賛していることの方が、功平には重要だった。母が’’安心’’できる環境にいる息子を演じていたかった。

 当時から気づいていた。母がダイスケの時のように、また功平を失ってしまわないか、また“失敗”してまわないかと功平を腫れ物を扱うように功平に遠慮していたことを。時折見せる母の悲しい瞳を見逃さなかった。母は時折帰ってくる父から暴力を受けていた。矛先が子どもに向かう時も、前面に火の粉を被る人。子を失い、最愛の人からも心身に暴力を振るわれる母が可哀想で仕方なかった。母が生きるための意味や希望を作る必要があった。僕はそのために生まれてきたのかもしれない。

 功平は大人の見よう見まねで、挨拶や笑顔、我が家を訪れる来客への配膳など、母にとっての自慢の息子、大人にとってのいい子を演じていた。この頃から父方の祖父母や大人の親戚陣から「功平はダイスケの分までお母さんを幸せにしなあかん」「お母さんのために2倍頑張るんやで」と言われていた。この家のこの状況に生まれてきた以上、ただ元気に毎日を生き、この世に存在しているだけではだめだった。功平はその条件を飲み、母の顔色を伺い、母の期待に応える人生がスタートしていた。

 腫れ物を触るように育てられた僕は、いつしかその“腫れ物”という仮面に、自ら心地よく身を沈めていった。ただ元気で生きているだけでは足りなかった。誰かの希望でいなければならなかった。それが母のためになると信じていたし、何よりも自分の存在を肯定するための、唯一の方法だった。

 本当の自分は、いったいどこにいたんだろう。「功平」という名前の内側には、誰のためでもない、まだ名もない“僕”が、小さく、息を潜めていた。

 それでも当時の僕は、「期待」という名の舟にそっと乗り込んだ。本当の名前を見つける旅が、すでに始まっていたことには、まだ気づかぬままに。

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