A・ナフィーシー『テヘランで『ロリータ』を読む』:読書記録
A・ナフィーシー『テヘランで『ロリータ』を読む』(以下『テヘラン』と略)を通読した。
「世界的」には、かなりベストセラーのようで、自分一人ではまず手に取らなかった一冊。
今回『テヘラン』を読んだきっかけとなったのは、読書会の課題本として挙がったからだ。
なので本稿、読書記録というよりかは、読書会記録の側面も多分に含まれている。
端的に自分は、なかなか『テヘラン』に食らいつけなかった。読みがまだまだ浅い。
本書の難しいところ(でもあり、逆にそこが魅力・見所でもある)は、『テヘラン』自体の物語と作中で登場する各書籍(『ロリータ』、『グレート・ギャツビー』、『デイジー・ミラー』、『高慢と偏見』)の繋がりを捉えるための力量が求められる点だ。
これを上手くやるには、時代背景(時代情勢)や、各著者の遍歴などまで知っていなくては、いけない。
今回、そういった予備知識的な部分を補ってくれる方が読書会にいたので、よかった。
もちろん、訳者解説も大変役立つ。
『ロリータ』は、主人公のハンバート・ハンバートのドロレス・ヘイズに対するエゴイスティックな暴力的立ち振る舞いを描いているが、その暴力性をテヘランにおける自分たちの環境境遇とを重ね合わせている。
『グレート・ギャツビー』では、革命への夢とその儚さが投影されているらしい。
『デイジー・ミラー』は、『テヘラン』第三部における焼き身自殺をする学生が、デイジーの最期、つまり身の滅ぼし方がアナロジーぽっい。
『高慢と偏見』は、当時の時代情勢を巧みに描いた小説らしく、身分階級が物凄く露骨に描かれている。結婚も当然、身分・金銭に気を遣わなくてはいけない時代で、そんな中、あくまでも結婚をするのは、「人」と「人」なんだという主張をメタファー的に書いているらしい。その点に、抑圧されているテヘランの彼女たちは、魅力(共感的な?)を感じているという『テヘラン』での描き方。
こういった文学読解ができるのは、本当にすごいと思う。
自分が文学読解(批評)をするときは、どうしてもテクストから哲学、若しくは、精神分析フィルターに落とし込んで行う。この行いを恥じる気は、ないが、自分にできないことをできる人は、やっぱりすごい。
今回、読書会で盛り上がったキーワードは、「他者への盲目性」だ。
文字通り、「他人のことをまったくみれていない」ハンバート・ハンバートや『テヘラン』で登場するその傾向が少しありそうな何人かの人を指し示している言葉。
SNSの時代において、こういった「他者への盲目性」は、様々な形で現出すると思われる。私見だが、これは、他者への無関心性だけでなく、他者への過剰共感によってももたらされると思われる(詳細は、また別の機会に、、、ご興味あれば、千葉雅也 他著『欲望会議』をご参照)。
ただ、読書会のさなかに一つ共通了解に至ったのは、「他者への盲目性」があることが問題というより、自らの「他者への盲目性」に対して、無自覚であるということ。この姿勢が、恐らく危うさをはらんでいる。
人間である以上、「他者への盲目性」から完全に脱することは、できない。レヴィナスなどが他者論で散々している議論だ。
だから、「他者への盲目性」の問題は、哲学的には、「他者論」的な理解(≒他者と完全に分かり合うことはできないし、理解することもできない)の欠如…より古典的な用語を出すとソクラテス的な「不知の自覚」の欠如と言えそうだ。
そんなことを皆で楽しくワイワイと話す時間をこの『テヘラン』を通じて行った。
やはり、読書会はいいものです。
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