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とにかく正解の写真ばかりを求めてしまう

これは現在を生きる弊害なのか?
古来からあるものなのか?
ホモ・サピエンスの基本スペックなのか?


作品撮りで、はたと気がついた。

作品撮りとは言葉の通り、自分の作品を撮ること。創ること。それは表現活動の1つでもあり、次の仕事へ繋げるための伏線でもある。

つまりクライアントがいないので、自分の自由に撮れるわけです。

するってーと明確な答えってないですよね。あえて言葉にしてみると、自分の中にだけ答えはある。

だけどそれが正解かって分からないですよね。

正解の定義をどこに置くか?って問題もありますが、明確なクライアントがいれば「クライアントが求めている写真」が正解なわけです。

でも作品に正解も何もない。いや、正確には無くはない。だけど自分はどこで満足が…納得ができるのか。

その線が分からずに、『映え』とか『承認』とか、分かりやすい正解を求めてしまう。


これが苦しい。

今撮っている写真は仕事に繋がるのか?作品として売れるのか?需要があるのか?


仕事に繋がる・売れる写真=正解


とおくことは出来るけれど、それはひとつの結果であって撮っている時は分からない。分からないのに正解を求めにいく。

分からないから「綺麗な写真」に着地してしまう。

そこに自分の思想や哲学・考えみたいなものは抜け落ちていて、人からの評価しかない。だから苦しいのではないか。なんて考えたりする。


この現象は写真に限らず、noteの記事を書いていても思う。

誰がこの記事を読むんだろうか?みんなが求めていることに対して100%答えられなければ、それは意味がないのでは?記事を書いているこの時間を選択したことは間違いなのではないか?

そんな風に考えてしまうわけです。

写真やnoteだけじゃない。生活をしている中で他の様々なことにも影響していることに気が付きます。

アートを見ている時とかね。特に現代アート。意味を持たせずに作っているものも多い中で、作者の意図=正解を見つけようとしてしまう。

たぶんそうじゃない。
答えなんて求めなくて良い。それよりも自分が何を感じているのか、何を思ったのかをもっと大切にしたいって気づきます。



正解ばかりを求める自分に苦しむ。

みなさんはそういう経験ありますか?

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中澤紘大 ||写真家 サポートありがとうございます。今後の写真活動の資金にしていきたいと思っております。写真を通して”幸せを目に見える形に”していきます。

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