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【創作】あなたへ

 春が過ぎて桃色の花びらが散り尽くし、新緑が風にそよぐ季節になると、私の心にそっとあなたが浮かぶ。いたずらな笑顔が、まるで今もそこにあるように、鮮やかに蘇る。私は胸の内であなたを呼び続ける。あなたはもういないのに、なぜかこの瞬間、時間が逆流する。
 私はコーヒーカップを片手にキッチンの窓から庭を眺めている。外では、あなたが新しい車を磨いている姿が見える。あなたの手つきは丁寧で、まるで宝物を扱うようだった。少し白髪の混じった髪が風に揺れ、少年のようなワクワクした笑顔がちらりと見えた。私は思わず微笑んだ。あなたはいつもそうだった。真面目で、優しくて、でもどこか夢見がちな子供の心を隠し持っていた。
 「ねえ、この車はあの子ごのみなの?」私は窓越しに声をかけた。「ああ、きっとあいつも気に入るはずだよ」あなたはいたずらっ子のような笑顔を返した。あなたと息子はなぜか車の趣味がとことん合わなかった。それまであなたが乗っていた車に息子は全く興味を示さなかった。私には車のことは分からないけど、どうやら今回の車は息子も気に入るようだった。来月遊びに来る息子に自慢したいのか、その頃のあなたは時間があれば、よく車を手入れしていた。まるで車を本当の子供みたいに大切に扱うあなたに、私は苦笑いを浮かべていた。
 「気に入るといいわね」私の言葉にあなたは黙って笑顔を見せて、またせっせと車を磨きだした。その笑顔が、私の脳裏に強く残った。あなたの笑顔を、もっと大事にしておけばよかったなと、今なら思う。もうあなたがいない今、そう強く思う。


 あなたと初めて出会ったのは、私が22歳で、あなたがその2つ下20歳の時だった。地元の商業組合で働いていた私の元に、あなたは新入社員として現れた。なぜか私があなたの教育係になり指導することになった。あなたは真面目だったけど、どこか抜けていて、書類を間違えたり、納品の時間を忘れたり、失敗ばかりだった。「またやっちゃった……」と肩を落とすあなたに、私は「大丈夫、失敗は誰にでもあるよ。次、ちゃんとやればいい」と笑って励ました。あなたはぎこちない笑顔を浮かべて「ありがとうございます」と言った。そんなことが日課のようになって、いつしか私はあなたの少し照れた笑顔を見るのが楽しみになっていた。
 ある日、残業で二人きりになった時、あなたがぽつりと言った。「先輩、なんでいつも俺のこと、怒らないで励ましてくれるんですか?」私は少し考えて「だって、あなたの頑張ってる姿、嫌いじゃないから」と答えた。あなたは目を丸くして、顔を真っ赤にして「そ、そんなこと言わないでくださいよ」と笑った。その瞬間、私の心のどこかで何かが動き始めた。あなたは失敗ばかりだったけど、そのまっすぐな瞳と、どんな時も諦めない姿に、私は少しずつ惹かれていった。多分きっと、あなたも同じだった。私たちは次第に近づいていった。

 私たちがまだ20歳そこそこだった頃、よくあなたは小さな中古のセダンで私をドライブに連れ出してくれた。海沿いの道を走りながら、あなたは「いつかバスの運転手になって、でっかいバスでみんなを乗せて走りたいんだ」と目を輝かせて話した。私は「ふーん、バスかぁ。地味じゃない?」と笑ったけど、あなたは「地味でもいい。乗ってる人が笑顔なら、俺はそれで幸せだよ」と真剣な顔で言った。その言葉がなんだかとてもあなたらしくて、胸がじんわりと温かくなった。真っすぐな瞳でハンドルを握るあなたの横顔を今でも鮮明に覚えている。

 ある春の日の夕暮れ、あなたは私を地元の小さな公園に連れて行った。桜の木の下、風が花びらを散らす中、あなたは少し緊張した面持ちで立ち止まった。「なあ、ちょっと大事な話があるんだ」とあなたが言った。いつもは軽い口調のあなたが、珍しく真剣な顔をしていた。私はドキドキしながら「何?」と尋ねた。あなたはポケットから小さな箱を取り出すと、ぎこちなく、ゆっくりと開けた。そこには、シンプルな銀の指輪がキラキラと輝いていた。「俺、失敗ばっかでさ、迷惑かけてきたけど……君と一緒にいると、なんか、ちゃんとやれる気がするんだ」と、顔を赤らめながら、でも真剣な眼差しで私を見つめて言った。少し笑ってしまったけど、あなたの目は、指輪に負けないくらいキラキラしていた。「私と一緒に、ずっとそばにいてくれる?」私がそう呟くと、あなたは「結婚してほしい」と続けた。私は涙がにじむのを感じながら「うん、よろしくね」と答えた。
 あなたは箱から指輪を取り出すと、そっと私の指に滑らせた。桜の花びらが私たちの周りで舞っていた。あの瞬間、私はあなたの夢も、未来も、全部一緒に背負いたいと思った。私の頭の中には、風を切ってバスを運転するあなたの姿が鮮やかに浮かんでいた。

 あなたと結婚してすぐに私は娘を身籠った。あなたは迷うことなく夢を胸の奥に仕舞った。「バスの運転手はいつかなれるかもしれないけど、今は家族を養うのが先だ」と、商業組合の仕事を続けた。あなたからは不満の声を一度も聞いたことがなかった。数年後には息子も生まれて、私たちは四人家族になった。
 あなたは子供たちに、いつも優しかった。息子が小学生の頃、サッカーの練習に遅くまで付き合っていた。あなた自身はサッカーなんてやったことないくせに、ボールを追いかける息子をいつも見守ってくれた。試合で得点して喜ぶ息子に、あなたが大袈裟なガッツポーズをみせたこともあった。
 娘が結婚を決めた時も、あなたは「幸せになれよ」と一言だけ呟いた。派手な言葉はなかったけど、その寂しそうな背中には、娘への深い愛が溢れていた。私はその姿を見て、改めてあなたを愛おしく思った。
 あなたの大きな愛に包まれて私たち家族は本当に幸せだった。だけど、私は知っていた。あなたの心の奥に、大きなバスのハンドルを握る夢が、ずっと息づいていたことを。

 あなたが「仕事を辞めたい」と言ったのは、就職した息子が家を出た日の夜だった。静かなリビングであなたと二人、食卓に向かい合っていた。息子の部屋が空っぽになった寂しさで、私は少しぼんやりしていた。すると、おもむろにあなたが「相談があるんだ」と切り出した。あなたの顔は、どこか言い出しにくそうな、困ったような表情だった。でも、その目の奥はキラキラと輝いていて、まるで夢を語ってくれたあの頃のあなたみたいだった。
 「実は会社を辞めようと思ってるんだ……」あなたはか細い声で不安げに言う。だけど、私にはなぜか不安はなかった。あなたが次に言う言葉を、私は分かっていた気がした。「バスの運転手になろうと思って」と、あなたは少し照れながら続けた。私は静かに頷いて「そう、いいんじゃない?」と答えた。一言も反対しない私に「え、いいの?」とあなたは目を丸くして驚いていた。「だって、ずっとあなたの夢だったでしょ」そう言う私に、あなたは少年のようにはにかんだ笑顔をみせた。私も目も細めて笑った。

 「父さんな、仕事をやめようと思っている」あなたの突然の告白に子供たちが言葉も失うほど驚いたのはその数日後のことだった。淡々と言うあなたに唖然とする子供たち。私は笑みを浮かべながら黙ってその様子を見ていた。「バスの運転手だなんて、今さら何?」と娘は声を荒げていたけど、あなたの瞳があんなに輝いているのを見たら、反対なんてできるはずがなかった。家族のために頑張ってくれたあなたを、今度は私たちが応援する番だった。渋々了承する娘とは対照的に、息子は誇らしい顔をしていたように思えた。

 その後すぐにあなたは会社に辞表を出して、自動車学校に通い始めた。大型二種免許を取ると、市の交通局や大手バス会社など、次々と面接を受けた。なかなか採用されることがなかったが、あなたは諦めなかった。むしろあなたはそれも楽しんでいるようだった。
 ある日の午後だった。その日も面接試験に出かけていたあなたの帰りを私は家で待っていた。庭先から車のエンジン音が聴こえる。キッチンの窓からあなたを眺めた。あなたは私に気が付くと少年のような笑顔になって、ピースサインをこちらに向けた。「やった!!」キッチンから叫んだ私の声が家中に響いた。
 スクールバスの運転手として採用されたあなたは、帰宅するたびに鏡に写る自分の制服姿を眺めてはニヤニヤとしていた。私は「子供みたい」と笑ったけど、心の中では、制服姿のあなたを素敵だと思っていた。あなたの夢……いや私たちの夢が叶った瞬間だった。

 それからのあなたは、第二の青春を謳歌するように自分のやりたいことを叶えていった。50代半ばで大型バイクを買って、私を後ろに乗せてツーリングに連れ出してくれた。少し怖かったけど、風を切るたびに、あなたの背中の温もりを感じた。60歳を過ぎると、今度は外国車に夢中になった。中古のベンツを購入したあなたは、まるで宝物のように大切にした。「どうだ、カッコいいだろ」と息子に自慢するあなた。息子から「俺の趣味じゃないかな」と遠慮なく言われて、少し悲しそうな顔をするあなたも私は好きだった。
 70歳を超えた頃、あなたはそれまで大切に乗っていたベンツから小さなオープンカーに買い替えた。「あいつは、こういうスポーツカーが好きなんだってさ」あなたは車を磨きながら私に言った。きっとあなたは息子の喜ぶ顔が見たかったのだろう。「気に入るといいわね」私は心からそう思った。喜んでいる息子に、またガッツポーズをするあなたの姿を見たかった。けれど、それが叶うことはなかった。


 あなたが死んだのは、それからわずか1か月後のことだった。


 だんだんと気候が暑くなってきた5月の終わりごろ、私は友人たちと日帰り旅行に出かけていた。夕方にあなたが駅まで迎えに来てくれる約束だった。あと15分ほどで駅に着く頃にあなたにメールを送った。けれどあなたからの返信はない。駅に着いたが、あなたの姿はなかった。携帯に電話をしても繋がらず、家の電話にかけてもベルの音が鳴り続けるだけだった。言いようのない不安が胸を締め付ける。ただこの時には、まさかそんなことになるなんて、思ってもみなかった。
 結局あなたと連絡を取れないまま、友人の娘さんに家まで送ってもらった。玄関を開け、リビングに入った瞬間、時間が止まった。私の目に床に倒れているあなたが映った。叫びそうになるのを必死で堪えて、震える手であなたの頬に触れた。これまでに感じたことがないほど、冷たかった。友人の娘さんがすぐに救急車を呼んでくれた。駆けつけた救急隊員が、あなたに処置を施す。だけどすぐにその手を止めると、静かに私に言った。「警察に連絡してください」と。
 その後のことは、まるで夢の中にいるようだった。警察が家中を調べ上げ、子供たちが駆けつけてきた。私はただぼんやりと、目の前の光景を見つめていた。日付が変わる頃、ようやく警察から説明があった。「ご主人は脳出血だと思います。事件性はなく、おそらく突然死でしょう」警察から淡々とそう告げられるが、私は現実を受け入れることができなかった。私が旅行になんて行かなければ、あなたは助かったのかもしれない。私は、繰り返し自分を責めた。娘や息子が「大丈夫だから」と言ってくれたが、何が大丈夫なのか、私にはわからなかった。

 あなたの葬儀の日、家の小さな応接間は人で溢れていた。遠方から来てくれたあなたの友人たちは「お前、早すぎるぞ」と涙を滲ませ呟いた。商業組合時代の同僚たちも、静かに眠るあなたに手を合わせてくれた。バス会社の人たちは「優しくて子供たちから人気の運転手さんでした」と話してくれた。私はただ頷くしかできなかった。あなたがどれだけ多くの人に愛されていたのか、改めて知った瞬間だった。ただ、やっぱり私はまだ実感が持てなかった。娘が私の手を握り、息子がそばにいてくれたけど、頭の中は霧がかったままだった。
 葬儀が終わる頃、わたしは喪主として挨拶をするためにマイクの前に立った。あなたのために集まってくれた人たちに感謝を伝えようとしたが、言葉が全く出てこない。胸にはたくさんの気持ちが溢れているのに、なぜか言葉に出来ずにいた。少しの沈黙が流れると、息子が静かに立ち上がった。息子は私の隣りまで進むと、マイクに近づいて「母の代わりに、私がご挨拶させていただきます」と言った。息子は深く息を吸い、落ち着いた声で話し始めた。

 本日はお忙しい中、父のためにご参列くださいまして誠にありがとうございます。突然の出来事で皆様も驚いていると思います。私たち家族も未だ実感がございません。
 晩年の父は、皆さまご存知の通り第二の青春を謳歌するように車やバイクなど、自身の趣味を大変楽しんでおりました。一見、自由気ままに生きているように見える父ですが、姉や私が成人するまでは商業組合で長年勤務し、私たちを育ててくれました。
 そんな父は私が社会人になり間もない頃、突然長年勤めた会社を退職しました。小さい頃からの夢であるバスの運転手になるためでした。父は私たち子供がちゃんと巣立つまで自分の夢を我慢して働いてくれていたのです。もしかすると母にとっては大変迷惑な話だったのかもしれませんが、私はそんな父をとても誇らしく思います。
 家族のために夢を我慢できる父は、そして年齢を重ねても自分の夢に踏み出せる父は、私のヒーローです。
 こうして父との思い出話をさせていただいてもやはりまだ実感は沸いてきません。ただ、こうやってたくさんの方々に見送られ、きっと父も喜んでいると思います。父に代わり一言お礼を申し上げ、ご挨拶に代えさせていただきます。
 本日は誠にありがとうございました。

 息子の声は、時折震えながらも、力強く響いた。参列者の中には、涙を拭う人、静かに頷く人がいた。あなたの友人の一人が「いい息子だな」と呟くのが聞こえた。
 私は、息子の言葉に胸が締め付けられるような、でもどこか温かい気持ちになった。あなたが家族のために尽くしたこと、夢を追いかけた姿を、息子がこんなにも誇りに思ってくれていたなんて。あなたの人生が、息子の心に深く刻まれていることが嬉しくて、喜びが涙と共に溢れ出した。私はやっと、静かに泣くことができた。

 葬儀から10日ほど経ったある日、銀行での相続手続きを終えて、子供たちと実家で一息ついていた。庭の駐車場にあるカバーがかけっぱなしの車に息子が気が付いた。「あれ、父さんが言ってた車?」と尋ねる息子に、私は「うん。あなたが気に入るって言ってたわよ」と答えた。息子は庭に出て車のカバーを外した。そこには小さなスポーツカーがあった。あなたが前に乗っていたベンツとは違う、愛らしい車。「へえ、カッコいいじゃん」目を輝かせて嬉しそうに言う息子を見て、ガッツポーズするあなたの姿が浮かんだ。思わず「ふふっ」と声が出た。「あの人、あなたに喜んでもらうために毎日ピカピカに磨いていたのよ」私は笑いながら言う。娘と息子もつられるように笑った。
 「父さんらしいなぁ」そう息子が呟いた瞬間、あなたの照れたような、はにかんだ笑顔を思い出した。その途端、涙が溢れてきた。あなたと過ごした日々が、堰を切ったように次々と頭の中に流れてくる。「ちょっとお母さんどうしたの?」と、驚く娘の目からも大粒の涙が流れていた。これまで涙を見せていなかった息子も、目を潤ませ泣いている。さっきまで笑っていた私たちだったが、今度は三人で嗚咽して泣いた。
 ひとしきり泣いた後、息子が口を開いた。「この車、俺が乗ってもいいかな」息子の言葉に、私は一瞬驚いた。でも、すぐに頷いた。あなたも、きっとそれを望んだはずだから。ピカピカに磨かれたスポーツカーはどこか嬉しそうに見えた。


 あなたがいなくなって、何度目の春だろうか。私はあなたが遺した車の助手席に乗って揺られていた。すぐ横には息子がハンドルを握っている。真剣な表情で運転する息子の横顔に、あなたの面影が重なる。私は静かに目を閉じると、またあなたと過ごした日々に思いを巡らせた。


おしまい


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父の日という事で、3年前に亡くなった父親との思い出を母親目線で小説にしました。
最後まで読んでいただきありがとうございます。

#創作大賞2025
#オールカテゴリ部門
#父の日

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