【創作】頭からっぽねこにゃーにゃ―
私が働く介護施設「のぞみの家」の三階には陽当たりのいい角部屋がある。その部屋に、ハナさんが入居してきたのは三年前の春だった。窓から差し込む柔らかな光が、床に淡い影を落とす。あの部屋にはいつも、春の匂いが残っているような気がした。
ハナさんは穏やかな人だった。目尻に小さな皺を寄せて笑うハナさんは、春がとても似合っていた。
入居して間もない頃、よく飼っていた猫のクロちゃんの話をしてくれた。
「うちのクロちゃんはね、真っ黒で、瞳だけが琥珀色だったの。朝、私が目を覚ますと、必ず横で丸くなって寝てたわ。『おはよう』と声をかけると、ゴロゴロって喉を鳴らして……」
その声は優しく、遠い記憶を撫でるように響いた。まるで今もクロちゃんが膝の上に乗っているかのようにハナさんは語った。
けれど、クロちゃんはもうこの世にはいなかった。
ハナさんが施設に入って数週間後のことだった。娘の由美子さんに引き取られたクロちゃんは、まるでハナさんとの別離を待っていたかのように、老衰で静かに亡くなったのだった。
由美子さんから知らせを受けたとき、ハナさんはしばらく電話を握りしめたままで、そっと涙を流した。
それでもハナさんは、クロちゃんとの想い出を、懐かしむように私たちに語ってくれた。
野良猫だったクロちゃんを初めて抱いた時の温もり。
話しかけると返事をするように「にゃーにゃー」と鳴く声。
ハナさんの膝の上で丸くなり安心して眠る黒い姿。
その話を聞くたびに、私は思った。クロちゃんはハナさんの記憶の中で確かに生きているのだと。
だが、時が経つにつれ、ハナさんの世界は少しずつ歪み始めた。
「クロちゃん、ご飯よ」
夕食の時間、ハナさんが突然漏らした言葉に私たちは息をのんだ。スタッフの一人が「ハナさん、クロちゃんはもう……」と言うと、ハッとしたようにハナさんは目を丸くした。
「ああ、そうだったわね。うっかりしてたわ」
そう言ってハナさんは苦笑いする。しかし、ハナさんは次の日も、また次の日も同じ言葉を繰り返した。その度にハナさんは「嫌だわ、ボケちゃったのかしら」とおどけてみせたが、瞳の奥には困惑の色が見えていた。
ある朝、廊下で出会ったハナさんが、私の手をそっと握り心配そうに尋ねた。
「ねえ、クロちゃん見なかった? 今朝から姿が見えなくて……」
私はなんと答えるべきかを躊躇した。たとえ真実を伝えたとして、はたしてハナさんは信じてくれるのだろうか。
そう疑問を抱くほど、ハナさんは真剣な眼差しを私に向けた。
その頃から、ハナさんは毎日クロちゃんを探すようになった。
部屋の中、テーブルの下、フロアの隅々まで。時には夜中に起きて、薄暗い廊下を歩き回る。そして、クロちゃんの名を呼んだ。
「クロちゃんどこ? にゃーにゃー」
最初は小さな声だった。だが、次第に廊下中に響き渡るように叫んだ。
「にゃーにゃー! にゃーにゃー! クロちゃん! どこにいるの!?」
その悲痛な声は、他の入居者たちがざわつくほどだった。
「この施設に猫がいるの?」
「夜中に鳴き声が聞こえるわ」
「黒猫が歩いてるのを見たって、佐藤さんが」
徐々に騒ぎは大きくなっていった。このまま放っておくことは出来なかった。
娘の由美子さんが懸命にハナさんを説得する。
「お母さん。クロは私の家で天国に行ったのよ。もうクロはいないのよ」
するとハナさんは「そう……だったわね」と目を伏せたまま頷いた。しかし、それも長くは続かなかった。ハナさんは翌日から、またクロちゃんを探し続けた。
「ハナさん、クロちゃんはいませんよ」
もう何度、この言葉を繰り返しただろう。私は慣れた口調で、その日もハナさんに告げた。ハナさんは私の言葉に静かに頷く。しかし、次の瞬間おもむろに私の袖を掴んだ。
「私の頭……だんだんと、からっぽになっていくの」
その声は怯えていた。
「過去と今がぐちゃぐちゃになって、大事なことをどんどん忘れていく……。きっと由美子のことやクロのことだって、いつか全部なくなっちゃうのよ……」
ハナさんの頬に一筋の涙が伝った。私は何も言えなかった。ただ、ハナさんの手を強く握り返すことしかできなかった。
次の日の朝。ハナさんは再びクロちゃんを探した。
「クロちゃん、どこいるの? にゃーにゃー!」
廊下を歩きながら呼び続ける。由美子さんの言葉も、昨日の怯えも、そして私たちの声掛けも。全て記憶から滑り落ちて、ハナさんはただひたすらにクロちゃんの名を呼び続ける。その姿は、まるでクロちゃんを忘れてしまうことへの、必死の抵抗のように見えた。
きっとハナさんの中で、クロちゃんはまだ生きている。側にいたはずのクロちゃんがいなくなって、必死で探している。それがハナさんの真実なのだ。
私は静かに息を吸い込んだ。ハナさんの否定できない真実を、否定し続けることに一体何の意味があるのだろうか。
私は否定することをやめようと思った。クロちゃんはいる、そう決めた。
「ハナさん。クロちゃんどこに行ったんですかね? 私も一緒に探しますよ」
ハナさんは、顔を上げて私を見つめた。その目は、迷いを断ち切った私を歓迎するように澄んでいた。私は笑顔で頷き、一緒に廊下を歩きながら呼びかけた。
「クロちゃーん! 出ておいでー!」
「クロちゃん。どこにいるの? にゃーにゃー」
しばらくして、ハナさんが廊下の一角を指差した。
「ほら、あそこ見て。クロちゃんが……」
私はハナさんが指した先を、じっと見つめる。窓から差し込む朝の光に薄く照らされるその一角には、何もいなかった。
辺りを見渡すも、私の目にはいつもの景色があるだけで、クロちゃんらしき影は見当たらなかった。
ハナさんは、ゆっくりとそこに向かって歩き始めた。その足取りは確かで、迷いなく進んでいく。
ハナさんは一角で立ち止まると、大粒の涙をぽろぽろとこぼした。
「クロ……」
震える声で囁いた後、彼女の顔は張り詰めていた糸が切れたようにふわりと緩んだ。
「ああ、やっぱりクロちゃん。ここにいたのね」
ハナさんはその場でゆっくりと膝をついた。そして、まるで重みを確かめるように両手を広げ、何もない空間を抱きかかえる。その抱擁は優しく、深く、そして長い年月が詰まっているように見えた。
「待たせてごめんね……でも、もう大丈夫よ」
ハナさんは両手で抱いた”何か”をそっと撫でて、優しく呟いた。
「クロ、今までありがとうね。天国で見守っていて」
ハナさんはそう言うと、抱えていた両手をゆっくりと解いた。私の目には、ハナさんが大切に抱いていた”クロちゃん”をそっと降ろしたように映った。
ハナさんは優しく微笑みながら、しばらく廊下の一角を見つめていたが、満たされた表情で部屋に戻っていった。
その日から、ハナさんがクロちゃんを探しに行くことは二度となかった。
きっとハナさんの中で、クロちゃんの死を受け入れることができたのだろう。
ハナさんの頭は、からっぽなんかじゃない。彼女の心の中には、あの日、永遠の別れを交わした大切なクロちゃんがいて、今日も「にゃーにゃー」と鳴いているに違いない。
また春が来る。
暖かな光が差し込み、ふわりとした春の匂いがハナさんの角部屋を包み込むだろう。
__クロちゃんの温もりと一緒に。
おしまい
😸😸😸
こんにちは、末端工員のコッシーです。
本日もまたこちらの企画に参加させていただきました!
今回は『頭からっぽねこにゃーにゃ―』を再生させていただいたニャー。思いのほか長文になってしまったニャー。読んでくれると嬉しいニャー。
コッシー
#下書き再生工場
#本田すのうさん
#頭からっぽねこにゃーにゃ ―
