【思考】「サンキューハザード」に覚える「違和感3選」
【すっかり普及したサンキューハザード】
⭕️この記事の目的
・サンキューハザードについての考察により
新しい視点を提供すること
みなさんこんにちは。発信者です。
今回は「サンキューハザードについて思うこと」についてのお話です。
私が子供だったころ、いわゆる昭和の終わりから平成はじめのころですが、親の車に乗っていて、不思議に思うことがありました。
👋サッ。
運転している親が手を上げるのです。
🧒「何をしているんだろう?」
👋しばらくすると、またサッ。
私は聞きました。
🧒「なんで手を上げるの?」
🧑「道を譲ってくれたからお礼の合図をしてるんだよ」
なるほど。ああやって「ありがとう」って伝えてるんだな、と納得したのを覚えています。
私も車を運転するようになり、しばらく経ったころ、いつのころからか、他の車を前に入れてあげた時にハザードランプを付けてくる車が増えてきました。
車線変更で道を譲ってもらった際などに、ハザードランプを2、3回点滅させる「サンキューハザード」。
初めのころは、「あぁ、あんなことする車がいるんだな」ぐらいの感覚。
そのうちに、「サンキューハザード」をする車がだんだんと増えていき、ついに今では「サンキューハザード」をしない車の方が少数派になったのではないでしょうか(あくまでも私の個人的な印象です)。
さて、「サンキューハザード」って、本来は感謝を伝える自発的なアクションだったはずですよね?
でもいつの間にか「やらなければならない」という感じになっていませんか?
「お礼をされて当然」という感覚、持っていませんか?
ここからはあまり大きな声では言えない私の本音です。
1. 「お礼」の制度化と罪悪感のスイッチ

かつてはパッシングや手上げが主流だったお礼の合図ですが、なぜこれほどまでにハザードランプが幅を利かせるようになったのでしょうか。
・「顔が見えない」不安の代替
濃いスモークガラスや車の大型化により、ドライバー同士の肉眼によるコミュニケーションが困難になったことが一つの原因として考えられます。
要は「相手が見えない」ので、その代替手段として、最も相手から見えやすいハザードが道路上の「標準語」として採用された可能性は高いと思います。
・「やらない」ことへの罪悪感
一度「マナー」として普及すると、お礼を忘れた時に「失礼な奴だと思われたのではないか」という不安が生まれます。
要は自分で自分を責めてしまう。この考え方が、善意を「義務」へと変えてしまいます。
2. 同調圧力と違和感
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?

