普通が暴走する
「おもしろい」とは、どういう感情なのだろう。
そんなことを考えていた。
一昔前のおもしろさには、人を傷つけるものも含まれていたように思う。誰かの見た目、失敗、弱さ、属性、普通から外れているように見える部分を笑う。そういうことにおもしろさを感じていたと思う。
でも今は、多様性を大事にする感覚が芽生え、何を笑ってよいのか、何を笑ってはいけないのかが変わってきている。
これは、笑いの技術だけが変わったという話ではないと思う。
おもしろいと感じるものが変わるのは、私たちの中にある「普通」が変わるからだ。
人は、まったく予想通りのものにはあまりおもしろさを感じない。逆に、まったく理解できないものにも反応しにくい。
「わかる。でも少し違う」
「知っている。でも見方が違う」
「普通ならそうならない。でも、そう言われると確かにそうだ」
そのような、自分の中の当たり前が少し揺れたときに、人はおもしろいと感じるのではないか。だとすれば、おもしろさは、その人がどんな「普通」を持っているかによって変わる。
時代が変われば普通が変わる。
地域が変われば普通が変わる。
育った環境が変われば普通が変わる。
だから、おもしろいも変わる。
けれど、ここで考えたいのは、普通が作用するのは笑いだけではないということだ。
普通は、私たちの感情や判断の奥に入り込んでいる。
何を恥ずかしいと思うのか。
何を立派だと思うのか。
何に怒るべきだと思うのか。
何を許してはいけないと思うのか。
何を選ぶべきだと思うのか。
私たちは、自分で考えて選んでいるつもりでいる。
でも、その前にすでに、何を選択肢として見てよいのか、何を選ぶと恥ずかしいのか、何を選ぶと正しいとされるのかを、普通によって形づくられている。
普通とは、社会の空気のようなものだと思う。
誰かが明確に定義しているわけではない。
法律のように書かれているわけでもない。
それなのに、そこから外れると不安になる。
恥ずかしくなる。
申し訳なくなる。
裏切っているような気持ちになる。
見えないのに、人を動かしている。
そして、この見えない普通は、人為的に作られることもある。
特に人の感情に火をつけるのは簡単だ。
「あの集団は残酷だ」
「あの国は危険だ」
「こちらがやらなければ、こちらがやられる」
「黙っている人も同罪だ」
「怒らない人は冷たい」
こうした言葉や映像によって、恐怖や怒りや嫌悪が生み出される。
最初は、ただの情報だったものが、感情を通じて社会の空気になる。
空気になると、それは普通や当たり前になる。
普通になると、人はそれに従って動き始める。
ここに怖さがある。
戦争は、まさにこの怖さを持っている。
私たちは、戦争は起こらないと思っている。
でも、もし自分の大事な人が殺されたらどうだろう。
それは十分に戦う理由になってしまう。
たとえ最初の対立が作られたものだったとしても、そこから本当に誰かが傷つけば、本物の怒りが生まれる。本物の怒りが生まれれば、報復が生まれる。報復が生まれれば、相手にもまた本物の怒りが生まれる。
そうして、最初にはなかったはずの戦う理由が、あとから現実になる。
戦う理由は、最初からあるとは限らない。
戦う理由は、作られることがある。
そして一度作られた理由は、人が傷つくことによって、さらに強くなっていく。
これは戦争に限らない。
SNSでも、地域でも、会社でも、学校でも、似たようなことは起こる。
「あの人はおかしい」
「あの人たちは許してはいけない」
「あの意見を持つ人は敵だ」
「あの人を批判することは正義だ」
そうした空気ができると、人はそれに反応する。
そして一人の反応では終わらない。
多くの人が同じ情報を取り込み、同じ方向に動き始める。
普通の怖いところは、影響されるのが一人ではないことだ。
一つの情報が、多くの人の感情を動かす。
多くの人の感情が、現実の行動を生む。
現実の行動が、誰かを傷つける。
傷ついた事実が、さらに多くの怒りを生む。
こうして、実体のなかった普通が、現実を作ってしまう。
だからこそ、真面目な人や正義感の強い人ほど先に犠牲になることがあるのだと思う。
真面目な人は、見て見ぬふりができない。
正義感の強い人は、苦しんでいる人を放っておけない。
責任感のある人は、「自分だけ何もしないわけにはいかない」と思ってしまう。
それは本来、とても大切な感情だ。
けれど、その大切な感情こそ、動く理由になる。
「あなたはこれを見ても怒らないのか」
「黙っているのは加害者側だ」
「戦わないのは裏切りだ」
「大事な人を守るために立ち上がれ」
そう言われたとき、まともな人ほど苦しくなる。
悪意は、まだ警戒できる。
でも、正義感や真面目さは、常に正しい顔をして自分の心の中に迫ってくる。
だから疑いにくい。
自分はいま正しいことをしている。
自分はいま守るべきものを守っている。
自分はいま怒るべきことに怒っている。
そう思ったとき、人は自分の行動にブレーキをかけにくくなる。
正義感は大切だ。
でも、正義感は攻撃的な要素もある。
真面目さは大切だ。
でも、真面目さは人を追い込むこともある。
私は正義感とか真面目さを否定したいわけではない。
SNSがすべて悪いわけではない。
正義感が悪いわけでもない。
怒りが不要なわけでもない。
普通がすべて人を傷つけるわけでもない。
普通があるから、社会は成り立つ。
正義感があるから、救われる人もいる。
怒りがあるから、止められる暴力もある。
真面目さがあるから、支えられている場所もある。
だから、この話を簡単にしてはいけないのだと思う。
「だからこれが悪い」と一つの結論にしてしまうと、私たちはまた反射的に何かを糾弾してしまう。
そして、その糾弾がまた新しい普通になり、誰かを傷つけるかもしれない。
複雑なものを、複雑なまま持っておくこと。
それは、何もしないことではない。
むしろ、簡単な結論に飛びつかないための態度だと思う。
私たちは、自分が何に動かされているのかを完全には知ることができない。
自分の怒りがどこから来たのか。
自分の正義感が何に接続されようとしているのか。
自分の普通が誰を守り、誰を傷つけているのか。
それを完全に見抜くことは難しい。
だからこそ、自分は動かされているかもしれない、という感覚を持っておきたい。
おもしろいと思うことすら、時代や地域や普通に影響されている。
だとすれば、怒りや正義や恥や責任感が、社会の空気に影響されないはずがない。
私たちは、自由に考えているようで、いつも何かに動かされている。
そのことを認識しておくこと。
そして、正しそうなものほど、簡単に正しいと決めつけないこと。
複雑なまま持つというのは、たぶんそのために必要なのだと思う。
簡単にしないことが、冷静に考えるきっかけを生む。
普通も、正義も、怒りも、真面目さも、人を守ることがある。
けれど同じものが、人を傷つける流れを作ることもある。
その複雑さを、簡単な答えに変えずに持っておく。
それが、暴走しないために私たちができることかもしれない。
社会は簡単に暴走してしまう構造を持っている。
この記事を書いている私はこんな人。最後まで読んでくれてありがとうございます。
