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自由になる

私たちは、自分の意思で自分を動かしていると思っている。

手を伸ばす。歩き出す。
言葉を発する。誰かに返事をする。
怒る。黙る。逃げる。

どれも、自分が考え、自分が選び、自分が動かしているように感じている。

けれど、本当にそうなのだろうか。

私たちは、手を動かすときに「脳を動かしている」とは感じていない。
「神経に信号を送っている」とも感じていない。
「筋肉を収縮させている」とも感じていない。

ただ、手が動く。

そこには、脳から身体への信号がある。
神経があり、筋肉があり、感覚があり、予測と補正がある。
けれど、本人の感覚としては、それらを操作しているわけではない。

私たちは、自分の身体をコントローラーで動かしているわけではない。
それなのに、なんとなく動けてしまう。

ここに、「自分とは何か」という問いがある。


私は脳だけではない

もし身体が脳からの指示で動いているのなら、人間とは脳なのだろうか。

いや、そんな単純には言えない。

手足は、脳の命令を実行するだけの部品ではない。
手は物に触れ、硬さや温度や重さを感じる。
足は地面の傾きや身体の重心を感じる。
皮膚、関節、筋肉、内臓、呼吸、心拍。
それらすべてが、脳に情報を返し続けている。

脳が身体を動かしているだけではない。
身体もまた、脳を作っている。

だから人間は、脳だけではない。
脳と身体がつながり、感覚を返し合いながらできている存在だ。

私たちは「身体を操作している」のではなく、
脳と身体の循環そのものとして生きている。

手が自分なのは、単に動かせるからではない。
そこから感覚が返ってくるからだ。
動きと感覚がひとつの輪になっているからだ。

だから、自分とは皮膚の内側にあるなにかではなく、
動かし、感じ、補正し、また動くという循環の中にあるものだと言える。

私の意思が私を動かしていないかもしれない

私たちは、自分の意思で動いていると思っている。

しかし、脳科学の研究では、意識的に「動かそう」と思う前に、脳の中ではすでに動作の準備が始まっている可能性が示されている。

準備電位の話だ。

これは、「人間には自由な意志がない」という話ではない。
準備電位は、動作が確定した信号というより、動きに向かう準備が進んでいる状態に近い。
準備があっても、実際には動かない場合もある。

つまり、私たちの身体や脳の中では、意識よりも先に何かが始まっている。私たちは動こうと思って動いていると思っているが実際は動こうと思う前から動き出しているということだ。

怒りが湧く。
不安が生まれる。
言い返したくなる。
逃げたくなる。
スマホに手が伸びそうになる。
誰かに近づきたくなる。
何かを始めたくなる。

こうした動きは、意識がゼロから命令して生まれているというより、身体、記憶、習慣、環境、感情の中から自然に出てくる。

では、意思とは何なのか。

意思とは、すべての行動の最初にある司令官ではないのかもしれない。
むしろ、すでに動き出している自分に対して、

止める。
少し待つ。
方向を変える。
意味をつける。
別の反応を選ぶ。
次から違う反応が起きやすいように学ぶ。

そういう働きなのではないか。

車にたとえるなら、意思はエンジンそのものというより、ブレーキであり、ハンドルであり、ナビでもある。

身体や無意識は、すでに走り出そうとしている。
感情や衝動は、アクセルのように働く。
その中で意思は、速度を落とし、曲がる方向を変え、行き先を考える。

つまり意思とは、
自分を完全に支配する力ではなく、動き出している自分を扱う力なのだ。

動き出している自分とは、反応である

では、「動き出している自分」とは何か。

それは、反応だ。反射行動ではない。

熱いものに触れて手を引っ込めるのは、身体的な反射である。
けれど、誰かに強く言われてムッとすることも反応だ。
人前で緊張することも反応だ。
通知が鳴るとスマホを見たくなることも反応だ。
褒められて嬉しくなることも、否定されて傷つくことも、反応だ。

反応には、身体だけでなく、過去の経験、記憶、学習、習慣、価値観、恐怖、欲求、その場の雰囲気、人間関係、疲労や体調が含まれている。

同じ言葉をかけられても、人によって反応は違う。

「それ違うんじゃない?」と言われたとき、
攻撃されたと感じる人もいる。
ありがたい指摘だと受け取る人もいる。
恥ずかしくなって黙る人もいる。
もっと説明しようとする人もいる。
相手を敵だと感じる人もいる。

外から来た刺激は同じでも、内側で出てくる何かは違う。

なぜなら、反応とは、
これまでの自分が身体化したものだからだ。

過去に何を経験したか。
どんな言葉を浴びてきたか。
どんな場で安心できたか。
どんな場で傷ついたか。
何を学び、何を恐れ、何を大切にしてきたか。

それらが積み重なって、今この瞬間の反応として出てくる。

だから反応とは、過去の自分が先に動くことでもある。

意思は、反応を変えていく力である

ここで重要なのは、反応は決まったものではないということだ。

昔は強く言われると黙るしかなかった人が、
経験を重ねることで、少しずつ言葉を返せるようになることがある。

昔は怒るしかなかった人が、
自分の怒りを受け止め、言葉にし、別の伝え方を覚えることがある。

昔は不安になると逃げるしかなかった人が、
不安を抱えながらも、誰かに相談したり、少しだけ進んだりできるようになることがある。

これは、意思が毎回無理やり反応を押さえつけているのではない。

新しい反応の選択肢を増やしているのだ。

意思とは、反応を完全に支配するものではない。
反応の癖を少しずつ変えていく働きである。

最初は、いつもの反応が出る。
そこに気づく。
少し待つ。
別の言葉を試す。
失敗する。
また試す。
少しずつ身体に馴染んでいくような感覚。

そうして、かつては一つしかなかった反応が、二つ、三つと増えていく。

だから意思とは、
これまでの自分に気づき、これからの自分を少しずつ作る力なのだと思う。

自由とは、好き勝手に動くことではない

ここから、自由の意味が変わってくる。

自由というと、普通は「好きなことができること」だと思われている。

誰にも邪魔されないこと。
制限されないこと。
命令されないこと。
自分の思い通りにできること。

もちろん、それも自由の一部ではある。ただしあくまで一部なのだ。

人は外から制限されていなくても、不自由なことがある。

怒らなくていい場面で怒ってしまう。
断ればいいのに引き受けてしまう。
聞けばいいのに黙ってしまう。
休めばいいのに働いてしまう。
見なくていいスマホを見てしまう。
言わなくていい言葉を言ってしまう。
やりたいことがあるのに、いつもの不安に引き戻される。

このとき、人は外から強制されていない。
それでも自由ではない。

なぜなら、自分の反応の癖に縛られているからだ。

つまり、不自由とは、外側から縛られることだけではない。
自分の中にある反応の選択肢が少ないことでもある。

だとすれば、自由とは何か。

自由とは、何でも好き勝手にできることではない。
自由とは、反応を選び直せることだ。

怒りが出たときに、怒鳴る以外の反応を持っていること。
不安が出たときに、逃げる以外の反応を持っていること。
傷ついたときに、黙る以外の反応を持っていること。
怖いときに、止まる以外の反応を持っていること。
迷ったときに、誰かに委ねる以外の反応を持っていること。

反応の仕方が増えるほど、人は自由になる。

学ぶとは、反応の選択肢を増やすこと

では、反応の仕方はどう増えるのか。

それは、学びと経験によって増える。

本を読むことで、言葉が増える。
人と話すことで、別の見方を知る。
旅をすることで、常識が一つではないと知る。
失敗することで、次の対応を覚える。
仕事をすることで、立場ごとの事情を知る。
文章を書くことで、自分の反応を観察できるようになる。
身体を動かすことで、感情の逃がし方を知る。
安心できる人との対話によって、違う反応を試せるようになる。

学びとは、単に知識を増やすことではない。
正解を覚えることでもない。

学ぶとは、
自分が世界に反応する方法を増やすことだ。

そして経験とは、ただ思い出を増やすことではない。
次に同じような場面に出会ったとき、違う反応ができる身体を作ることだ。

ここで大事なのは、知っているだけでは足りないということだ。

「怒ったときは一呼吸置くといい」と知っていても、実際に怒った瞬間にできるとは限らない。
「断ってもいい」と知っていても、相手を前にすると断れないことがある。

だから反応の選択肢は、

知る。
試す。
失敗する。
また試す。
少しずつ身体に馴染んでいく。

この流れで増えていく。

学びは、選択肢を頭の中に増やす。
経験は、選択肢を身体の中に増やす。

そして、その選択肢が身体に馴染んだとき、人は少し自由になる。

自由になりたい人の行動は変わる

この自由の定義は、とても大きな意味を持つ。

もし自由を「好きなことができること」と考えるなら、人は制限をなくそうとする。

もっとお金がほしい。
もっと時間がほしい。
もっと権限がほしい。
もっと誰にも邪魔されない環境がほしい。
もっと自由な場所に行きたい。

もちろん、それも大切だ。

けれど、それだけでは自由になれないことがある。

お金があっても、不安への反応が一つしかなければ不自由だ。
時間があっても、自分を責める反応しかなければ休めない。
権限があっても、人を信じる反応がなければ孤独になる。
環境を変えても、同じ反応を繰り返せば、同じ苦しさが続く。

だから、自由になりたい人が本当に取り組むべきことは、外側の制限を外すことだけではない。

自分の反応を知ること。
反応の由来を見つめること。
別の反応を学ぶこと。
小さく試すこと。
失敗しても戻れる場を持つこと。
自分の中にある反応の選択肢を増やすこと。

そう考えると、自由になるための行動は変わる。

ただ仕事を辞めることが自由なのではない。
ただ旅に出ることが自由なのではない。
ただ誰にも従わないことが自由なのではない。
ただ好きなことをすることが自由なのではない。

本当の自由は、
その場で自分の反応を選び直せる力を持つことにある。

私たちは、反応を選ぶことができる

私たちは、自分で自分を完全に作っているわけではない。

生まれた場所や育った環境。
出会った人や浴びてきた言葉。
傷ついた経験、褒められた記憶もある。
身体の状態や環境。

そうしたものによって、私たちの反応は作られている。

だから、人は完全に自由な存在ではない。

けれど、まったく自由がないわけでもない。

私たちは、自分の反応に気づくことができる。
その反応を言葉にすることができる。
別の反応を知ることができる。
新しい経験を通して、反応の選択肢を増やすことができる。

ここに、人間の自由がある。

自由とは、何にも影響されないことではない。
自由とは、自分が何に影響されているのかを知り、そのうえで、次の反応を少しずつ変えていけることだ。

私たちは、脳だけでできているのではない。
身体だけでできているのでもない。
意思だけで動いているのでもない。

私たちは、身体、脳、感情、記憶、環境、習慣、他者との関係の中で、常に反応しながら生きている。

そして、その反応の仕方を増やしていくことができる。

だから、自由とは遠くにある理想ではない。
自由とは、日々の反応の中にある。

怒りが出たときに、少し待てること。
不安が出たときに、言葉にできること。
怖さがあっても、小さく試せること。
傷ついたときに、自分を責める以外の道を持てること。
相手を敵にする前に、別の見方を持てること。

その一つひとつが、自由なのだと思う。

まとめ

私たちは、意思だけで動いているのではなく、これまでの経験によって作られた反応として動き出している。だからこそ、自由とは好き勝手に動くことではなく、学びと経験によって反応の仕方を増やし、自分を選び直せるようになることなのだ。

この記事を書いている私はこんな人。最後まで読んでくれてありがとうございます。

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