行き当たりばったりに計画的に生きる
40代に差しかかってから、ふと先々の自分について考えることが増えた。
仕事はそれなりに積み上がってきた。生活もほとんど問題ない。周りから見れば、たぶん困っていることのない生活だろう。けれど、「このままの延長でいいんだっけ?」という感覚がどこか残る。
この先の人生を考えたとき、私は何を手に入れたら幸せなんだろう。
年収なのか、肩書きなのか、安定なのか。そういう答えを探そうとすると、いったんはそれっぽい結論にたどり着ける。けれど、どうも気が乗らない。
私は最近、別の考えに切り替えた。
「何を達成したら幸せか」ではなく、「どんな状態でいられたら幸せか」。
そう考えたとき、私の中でひとつの答えが浮かんできた。
それは、行き当たりばったりに動けることだった。
予定を完璧に固めて、一直線に進むよりも、気になった方向へふらっと行けること。偶然の出会いや、その場の興味に身を預けられること。言い換えるなら、選び直せる余裕があること。
ただ、この「行き当たりばったり」は、長いあいだ私にとっての“欠点”だった。
落ち着きがない。続かない。飽きっぽい。やりきれない。
何かを生み出すのは好きなのに、それを売って、広めて、同じことを繰り返して、事業として育てていく。そういうゲームに乗り気になれない。最初は楽しんだけどなぁ。そんな自分を、ずっとどこかでダメだと思っていた。
でも今は、時代が変わってきた。
数年前は評価されたやり方が、今は通用しない。今までのやり方が、来年には変わっている。
しかも寿命が伸びている。きっと70代になっても働いているだろう。だからこそ、ひとつの会社、ひとつの仕事をやり続けるということが、かえって怖く感じる瞬間がある。同じ仕事を続けることが正しい、という価値観はこの先もそのままだろうか。
この文章は、40代に差しかかり、同じように人生を考え始めた人に向けて書きたい。
「このままでいいのかな」と思いながらも、明確な目標を立てて突き進むことに違和感がある人。
作ることはできるのに、売り続けること、広め続けること、やりきることがどうしてもしんどい人。
そして、それを“欠点”として抱えてきた人。
欠点だと思っていたその感覚は、もしかしたら“時代に合わなくなった採点基準”が作ったものかもしれない。
行き当たりばったりでいい。続かなくていい。
そう言えるようになること自体が、これからの人生を豊かにしてくれる気がしている。
なぜ「行き当たりばったり」は欠点になっていたのか
「行き当たりばったり」は、長いあいだ“ダメな生き方”として扱われてきた気がする。落ち着きがない。続かない。飽きっぽい。責任感がない。計画性がない。私自身も、そういうラベルを自分自身に貼っていた。
でも冷静に考えると、「行き当たりばったり」が欠点として成立していたのは、私たちが生きてきた社会の前提が、ある意味安定していたからだと思う。
変化が少ない時代は、「続ける」ほど評価された
たとえば、
ひとつの会社に長くいること。
ひとつの職種を深めること。
ひとつのやり方を繰り返すこと。
こうした生き方は、変化がゆるやかな時代には合理的だった。経験が蓄積し、同じ場所にいるほど人間関係も強くなり、仕事も早くなる。慣れれば慣れるほど成果が出る。続けることが、そのまま価値になる。
だから逆に言えば、続かない人は損をする。
成果が出る前に辞めてしまう。信頼が積み上がる前にいなくなる。スキルが形になる前に別のことを始めてしまう。そう見えてしまう。
この構造の中では、「続けられる人」こそが正しい。
そして続けられない人は、ダメな奴として評価されやすい。
「正解がある」世界では、寄り道はコストに見える
もうひとつ大きいのは、社会全体が「こうすればうまくいく」という成功モデルを持っていたことだと思う。
いい会社に入り、真面目に働き、昇進し、家庭を持ち、老後に備える。
商売なら、いい商品を作り、売り、広め、規模を大きくしていく。
こういうモデルが、少なくとも“多くの人にとっての正解”として存在していた。
正解が見えている世界では、寄り道は遠回りに見える。探索よりも最短距離が評価される。だから「ふらふらする」「移り気」「行き当たりばったり」は、余計にダメに見える。
私は「何かを生み出すのは好きなのに、それを売って広め続けるのが苦手」だと感じてきた。作ったものを、同じ熱量のまま、同じ形で、ずっと押し出し続ける。最初は楽しいがだんだん飽きてくる。
“拡大のゲーム”を正解の前提にすると、そこに乗れない人は自動的に劣等感を持つことになる。
でもそれって、本当に能力の問題なんだろうか。
私はむしろ、ゲームのルールが先にあって、そこに合わない人が「ダメな奴」と呼ばれていただけなんじゃないかと思う。
欠点に見えたのは、「旧ルールの採点」だった
「行き当たりばったり」は、性格の欠陥というより、環境との相性の問題だった。
安定した世界では、続けることが評価される。だから続かない人はダメな奴。ただそれだけの話だったのかもしれない。
つまり、欠点というのは「自分の中の努力不足」ではなく、その時代が採用していた採点基準の中でそう見えていただけということだ。
この章で言いたいのは、自己肯定の話ではない。
「どんな自分でもOK」と言いたいわけでもない。
ただ、私たちは知らないうちに、古いルールで自分を採点してしまう。
そして、その採点結果を「自分の本質」だと勘違いしてしまう。
もしそうだとしたら、まずやるべきことは努力の量を増やすことではなく、採点基準を疑うことなのかもしれない。
なぜ今、「続けられない」は欠点じゃなくなってきたのか
前項では、「行き当たりばったり」が欠点に見えていたのは、安定した前提の中で“続けること”が合理的だったからだ、と書いた。
では今、その前提はどうなっているのか。私の感覚では、前提そのものがかなり崩れてきている。
人生は長くなったのに、仕事の寿命は短くなった
まず、働く期間が長くなった。これは感覚ではなく、多くの人が体感していることだと思う。
60歳から老後という感覚は薄れてきたし、健康であれば働ける時間はもっと長くなる。80歳まで働くということも普通になるだろう。
一方で、仕事のやり方や職業の形は、昔より短いサイクルで変わるようになった。
技術も制度も市場も、アップデートの速度が上がっている。数年前まで「それが正解だ」と言われていたことが、急に通用しなくなる。勝ち筋が入れ替わったり評価軸が変わることもざらだ。
人生が長いのに、仕事の型は短命。
このズレが大きくなるほど、「ひとつを続ける」という生き方は、当然ながら難易度が上がっていく。
ひとつに賭けることが、昔より“優秀”とは言えない
ひとつの会社にずっといる前提が壊れた、という話はよく聞く。
でも、ここで大事なのは「終身雇用がなくなった」みたいな話よりも、もっと生活感のある変化だと思う。
たとえば、突然の事業撤退や方針転換。
部署の統廃合。評価制度の変更。市場環境の悪化。AIや自動化による業務の置き換え。会社側が悪いとか、個人が悪いとかではなく、外部要因で前提が変わることが増えている。
そうなると、ひとつの会社、ひとつの職種、ひとつのやり方に自分を固めすぎることが、昔より“安全”とは言い切れなくなる。
むしろ、一つのことだけを続けるほど、前提が崩れたときの衝撃が大きくなる。
「正解」が増えて、ひとつではなくなった
もうひとつ、昔と大きく違うのは、価値観が見えるようになったことだと思う。
情報がつながり、他の生き方や働き方が可視化された。これまでは見えなかった選択肢が、日常的に目に入ってくる。
すると、「これが正しい」という一本の道筋だけではなくなる。
「何を大事にするか」が人によって変わっていく。
安定を最優先する人もいれば、自由を優先する人もいる。
成長を求める人もいれば、心の余裕を求める人もいる。
家族との時間を大事にする人もいれば、仕事の熱量を大事にする人もいる。
つまり、正解が増え、ひとつではなくなった。
そして正解がひとつではない世界では、「続けること」もまた、絶対的な美徳ではいられない。
「続ける」より「選び直せる」ほうが価値になる
こうして見ていくと、現代は“続ける力”が不要になった、という話ではない。
続ける力は今も強い。むしろ続けられる人はどの時代でも強い。
ただ、それだけでは足りない時代になった、ということだと思う。
前提が変わるなら、選び直す必要がある。
価値観が分かれるなら、自分の基準で選び直す必要がある。
人生が長いなら、途中で配分を変える必要がある。
だからこれから求められるのは、「ひとつを続ける才能」だけじゃなくて、“選び直せる状態”をつくる才能なのかもしれない。
行き当たりばったり、続かない、飽きっぽい。
そういった言葉が、昔ほど致命的にならないのは、たぶんここに理由がある。それらは“欠点”ではなく、環境変化に対する柔軟性に見えることがある。
ただし、それは開き直りとは違う。
選び直せることが価値になる時代ほど、「ただ流される」ことと「探索する」ことの差は大きくなる。
では、行き当たりばったりを、ただの衝動ではなく、人生を幸せにする力として扱うにはどうしたらいいのか。
「行き当たりばったり」を幸せにする条件
ここまで書いてきたように、今は「続けられること」だけが唯一の美徳でいられなくなってきた。だから、「行き当たりばったり」や「続かない」は、昔ほど致命的な欠点ではない。むしろ時代に合った特性として働くことがある。
ただし、ここで一つだけはっきりさせておきたい。
行き当たりばったりを肯定することは、無計画を肯定することではない。
私が言いたいのは、「成り行きで流される人生でいい」という話ではない。私が欲しいのは、行き当たりばったりに動ける自由であり、それが自分にとっての幸福だ、という話だ。
自由というのは、実は“準備”がないと成立しない。
行き当たりばったりを幸せにするためには、計画そのものよりも、状態を整える必要がある。
プランではなく「状態」を整える
変化の時代に強いのは、「未来を当てにいく計画」ではなく、「何が起きても壊れにくい状態」だ。
一本道の地図ではなく、分岐しても選び直せる足腰をつくる。というような感覚。私はそういうイメージを持っている。
その状態をつくるために、私が大事だと思う条件は大きく3つある。
条件1:判断基準を持つ
行き当たりばったりが不幸に転ぶとき、多くの場合は「基準がない」。
目の前の刺激や不安に反応して選び続けると、あとから自分が何をしたかったのか分からなくなる。疲れる。自己嫌悪になる。
逆に、基準があると、行き当たりばったりは“探索”になる。迷うことはあっても、自分の中の正しさに沿って動けるからだ。
基準というと立派な理念みたいに聞こえるけど、もっと簡単なものでいい。たとえば、
体調が崩れる働き方はしない
人との関係が壊れるような選び方はしない
面白いと思える時間を週に少しでも残す
「これをやると楽しい!」を優先する
逆に「これをやると心が重くなる」を避ける
こういう基準があるだけで、選び直しが“ブレ”ではなく“調整”になる。
条件2:小さく試す
行き当たりばったりの人にとって一番危険なのは、大きな賭けだと思う。
環境が変わる時代に、大きく固めるような感じ。これが一番元に戻れない。
だから私は、行き当たりばったりを幸せにするには、「小さく試す」が必須だと思う。小さく試せば、外しても致命傷にならない。合っていれば育てればいい。合わなければやめればいい。
いきなり転職ではなく、副業で試す
いきなり起業ではなく、小さな受注や発信で試す
いきなり移住ではなく、短期滞在で試す
いきなり大きな投資ではなく、今持っている道具で試す
こうやって人生を“実験”として扱えると、行き当たりばったりは恐怖ではなくなる。むしろ、好奇心を守るための技術になる。
条件3:振り返って「編集する」
行き当たりばったりが誤解されやすいのは、「点」に見えるからだ。
あれもやった、これもやった。でも結局何者なの?というふうに見えてしまう。
でも実際には、点は編集すれば線になる。
経験の中には共通するテーマがある。繰り返し出てくる関心がある。得意な動き方がある。
行き当たりばったりの人が強くなるのは、ここからだと思う。
「やったこと」を増やすより、「やったことの意味」を言葉にする。
そうすると、自分の過去は散らかった履歴ではなく、次の選択の材料になる。最近noteを更新し続けて感じていることだ。
私はこれを、自分の取扱説明書を更新する感覚だと思っている。
どういう場だと元気が出るか
どういう仕事だとつまらないか
どういう人間関係が自分を壊すか
どういう作り方なら続くか、どこで止まるか
どんな“答えのない問い”なら熱量が続くか
こういうことを理解していくほど、行き当たりばったりは洗練されていく。
衝動ではなく、探求になる。
自分に合う幸せを選ぶ
私は昔から、何かを突き詰めて最後までやり遂げるのが苦手だった。
答えが見えた瞬間に興味が薄れてしまう。ゲームでも、ラスボスを倒せば終わりだと分かった時点で、倒す前にやる気がなくなってしまう。
以前はそれを欠点だと思っていた。
でも今は、少し違う見方をしている。
私は「終わらせること」に燃えないだけで、「探すこと」「動くこと」「見つけること」に燃える人間なのかもしれない。
そして変化の時代は、終わらせる人だけで回る時代ではない。探す人が必要な時代だ。
だから私は、行き当たりばったりを“直す”のではなく、設計するほうを選びたい。
プランで未来を縛るのではなく、状態を整えて自由に動けるようにする。
そのほうが、私にとっての幸せに近い気がする。
行き当たりばったりでいい。続かなくていい。
ただし、それを幸せにする条件がある。
基準を持つ。小さく試す。振り返って編集する。
この3つが揃うと、「欠点」だったはずのものが、人生をより良くしてくれる。
そして同じように、「自分ってダメだな」と思ってきた人がいるなら、伝えたい。
それは本当に欠点だろうか。
もしかしたら、古いルールの採点で“減点”されていただけなのかもしれない。
いまは、自分の生き方を選び直していい時代だ。
私はそう思っている。
この記事を書いている私はこんな人。最後まで読んでくれてありがとうございます。
