用語解説 @「瞑想する人」note
「瞑想する人」note における重要な用語の解説です。またこのnote全体の要約や大体の方向性を示すものでもあります。
瞑想
様々な文化・伝統・目的において、様々な瞑想法があり、様々な人々が様々な過程を経て瞑想に惹かれ実践するようになるため「瞑想とはこういうものだ」と定義するのは、なかなか難しいことであると思います。
「何かを求めてするものじゃないんだ。瞑想する姿それ自体が悟り、仏の姿をあらわしているのだ」と文字通り禅問答のような説明がなされることもあります。
他所はいざ知らず、この「瞑想する人」note においては、瞑想を自らの内にある「内なる意識」との接触・交流に関する実践であるとしています。
内なる意識との接触のために活発な身体活動を休め、心を静め、意識において自らの内に向かう、もしくは内なる意識の影響力を心身に及ぼす、という実践をもって瞑想であるとしています。
今日 瞑想には うつ不安の改善の効果や、他にも心身両面にわたる健康効果があるといわれていますが、これらの効果効能の源は内なる意識との接触によるものであるというのが、この「瞑想する人」での主張です。
また瞑想の起源は宗教ではないとしています。ヒトの生物学的基盤の中にこそ起源があると考えています。
関連するものとしては、中国(の気功など)においては静功、性功、内功、静座、心斎、坐忘などがあります。
なかでも「内丹」と呼ばれる奥深い流れにおいては、その実践において返観、内視、内照といった用語が使われることもあります。
内なる意識
瞑想によって生じる意識を内なる意識と呼んでいます。主観的には瞑想によって発見される、もしくは内から現れてくる意識と瞑想者によって感じられることもあります。
内なる意識は、ある程度安定した瞑想状態(瞑想態)で現れてくるとしています。
用語「瞑想」にあるように、瞑想の効果効能の源は瞑想態での 内なる意識にあるとしています。
この 内なる意識 の探究こそが、私自身の瞑想実践の主眼であり、ひょっとするとライフワークに関することかもしれません。
瞑想態
ある程度 安定した瞑想状態のことを瞑想態と呼んでいます。
内なる意識が現れる状態であり、瞑想の効果効能の源であるとしています(内なる意識の状態 = 瞑想態)。
入門・初心者の場合、瞑想態を得るためにはサマタの瞑想が最適であるとしています。
瞑想したとしても瞑想態がなければ、それは瞑想ではないとしています。
例えば、目を瞑って自分の感情を冷静に観察したとしても、肝心の瞑想態がなければ、それは認知訓練であって瞑想ではないとしています。
霊性(スピリチュアリティ、スピリチュアルなど)
瞑想や密教に関する実践や体験、思索などの文脈において、内なる意識に関するものを表現するのに「霊性、霊性的、霊的、スピリチュアリティ、スピリチュアル」などの言葉を用いることがあります。
「霊」といっても、必ずしも超常的な、神秘的、宗教的なことをさしているわけではありません。
「智慧」「慈悲」が霊性に深く関わるだろうと考えています。
文殊菩薩
この瞑想する人noteの「大切な象徴」という意味での「本尊」。
文殊菩薩なる霊的存在が実在しているとして信仰の対象としているわけではありません。
あくまで大切な象徴。
智慧、慈悲、霊性、金剛大乗(金剛荘厳)をあらわす象徴としています。
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【密教の用語】
以下は密教の用語です。これらに関しては今後 加筆・修正・削除していくことが多いかもしれません。
密教(タントラ)
瞑想を「内なる意識」との接触・交流であるとしています。
この瞑想の実践の内で、人間の意識-脳・神経生理システムにおける「生命エネルギー(の現象・活動)」を利用するのを、この「瞑想する人」note では密教(タントラ)と呼んでいます。
密教の別名をタントラとしており(密教=タントラ)、タントラという用語で密教とは別の何かを意味することはしていません。
これは仏教における定義とは違っています。この「瞑想する人」 における用い方です。
日本仏教においては密教は前期密教(雑密)、中期密教(日本密教 純密)、後期密教(チベット密教)に分けられることがあります。
この中では「瞑想する人」における密教は後期密教(チベット密教)の特にゾクリム(究竟次第)に相当します。
チベット密教においては、生命エネルギーのことをルン(風)などと呼び、その実践がありますが、このようなものは中期密教(日本密教)の段階では、わずかに前準備的な思想や観想法くらいが伝わるだけで、ほとんど発達しませんでした。
気功においては小周天などで有名な「内丹」系、ヨガではクンダリニー(クンダリーニ)、シャクティといったものを扱うものに相当します。
実践においては、特殊な瞑想のやり方や呼吸法が用いられることがあります。
たとえばヴィム・ホフ・メソッドの呼吸法のようなものが用いられることがあります。
密教には何かと異様さが目につきます。
例えば、このことは密教に関心を持つ誰にも大きな問題を投げかけるものであり、闇く不気味な衝撃を与えるものですが、かの未曾有の宗教テロを引き起こしたオウム真理教は、密教の実践団体、それも日本史上初の密教の集中的な実践団体であったと私は確信している、ということを述べるだけでも、その異様さが少しは感じ取れるかも知れません。
オウム以前で目立つものとしては1980年近くから高藤聡一郎氏によって紹介された仙道があります。
・密教の起源
密教的な体験、つまり人体の生命エネルギーの現象・活動それ自体は、特別な瞑想、観想法、呼吸法などを用いなくても、深い瞑想などによって自然発生的に生じることがあります。
現代でも禅やヴィパッサナー瞑想などによる偶発的な生命エネルギーの体験者の体験談を目にすることがあります。
偶発的な体験の場合には個人の素質や体質も関わっているように感じます。
これが密教の起源を示しています。
大昔に 瞑想や瞑想的な実践で意図せずに体験した人達による研究が、密教の起源だと考えています。
・密教と性
このことは正しく理解しないと物騒な問題につながったりするのですが、密教においては「性」との関連が指摘されています。
その理由については、用語「生命エネルギー」で触れますが、この「瞑想する人」においては、それは密教的な現象に関わる人体の脳・神経生理システムがあるからだとしています。
そしてこの「瞑想する人」においては密教という場合には、特に断りがなければ、(観想法を含めて)性的な技法を用いる密教(左密)は含まれません。
私は左密に関しては明確に批判的です。私は左密を、正しい道から外れているという文字通りの意味において、外道、もしくは外道的であり、外法であると考えています。
左密・純密
性的な方法を用いる密教(左道密教、性的密教、性的ヨーガ、性タントラ、房中術など)を左密と呼んでいます。
この「瞑想する人」での密教という用語には、左密を含めませんが、それを強調する場合には、また、左密に対して用いる場合には「純密」という語を用います。
仏教では純密という言葉には、これまた別の意味があるのですが、このnoteでは性的な方法を用いない密教を純密とします。
純密という言葉には純正な密教という意味あいや、左密に対する批判もあります。
さらに私は左密は純密から生じたと考えていて、そのような意味合いも純密という言葉に込めました。
大昔に純密によって生命エネルギーの活動を経験した瞑想者の中に、人体の性との関連に気づいた人がいて、そうやって始められたのが左密であると私は考えています。
様々な意見があるのは承知していますが、私はその逆ではないと考えています。
大昔に 瞑想によって偶発的に生命エネルギーの体験をした人達がいた。
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その現象が研究されて密教(純密)が実践されるようになる。
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純密の実践者の中に性との関連に気づいた人達が左密の方法を見いだす。
私は左密を外道、外法であるとして批判的に考えており、ある種の伝統、様式に関しては強烈な嫌悪感を抱いています。
しかし一方で、交際、夫婦関係といった正式なパートナー同士なら、必ずしも嫌悪を抱かせるものばかりではないとは思っています。
左密の実践は何ら偉大で貴重なことでは決して無くて 「お好きにどうぞ」と言えば済むような程度のことだと考えているのですが。
ただ実践はなかなか難しいと思います。純密によってある程度の段階に到っておらず、いきなり左密から始めて成果を上げるのは大部分の人にとっては非常に困難なことだと思います。
あと、特に「タントラ」という語句で検索すると、いろいろと変なモノが出てきますが、ああいったものを私は密教(タントラ)とは呼んでいません。
ああいったものは恐らくはヒッピーなどカウンターカルチャーの影響を受けたスピリチュアルやサブカルだと思います。
まぁ、性に関する戯れや懇親会のようなもので、密教(タントラ)では決してないし、外道ですらもありません。
生命エネルギー(の現象・活動)
気功やヨガ、チベット密教における気、ルン(風)、プラーナ、シャクティ、クンダリニーに相当するものを「生命エネルギー」と呼んでいます。そしてこの生命エネルギーを活用するのが密教であるとしています。
しかし混乱するかもしれませんが現時点では、このnoteでは神秘的な「生命エネルギー」なるものが実在していると主張してはいません。
しかし小周天であれ、クンダリニーの上昇であれ「生命エネルギーの現象・活動」として、人体において主観的に感じられる現象はあるとしています。
「生命エネルギー」は いわば説明的概念のようなものとして用いています。
この現象・活動は人間の意識-脳・神経生理システムによるものであるとしています。
そして人体における、この現象の起源の内で重要なものの一つが、恐らくは性・生殖に関係する神経生理システムであると考えています。
そして左密のような方法が見いだされる神経科学的な根拠が、ここにあると考えています。
内丹、ヨガ、チベット密教などの実践により、生命エネルギーを体験した人はしばしば「下腹部(下丹田)、脊椎基底部付近からのエネルギーの上昇を経験した」といった内容の証言をします。
下腹部内、生殖器付近には、重要な神経や神経叢が密集しているわけですが、どれか特定の神経や器官のみが、生命エネルギーの現象に関わっているわけではないと考えています。
生命エネルギーの現象は性・生殖に関わる神経生理を重要なものとして、人間の意識-脳・神経生理システムによる創発現象であると考えています。
どうしたわけだか、偶然の副産物なのか、それとも生存にとって特別な意義があったことなのかは分かりませんが、進化の過程でヒトにはこのような神経生理的な、生物学的なシステムが存在するようになったと考えています。
・生命エネルギー と 内なる意識
瞑想を内なる意識との交流であるとし、その実践において生命エネルギーを扱うものを密教と呼んでいます。
では生命エネルギーと内なる意識にはどのような関係があるのでしょうか?
私は、生命エネルギーの活動が作用することによって、人体の神経生理が、内なる意識へと向かう瞑想に、より適したものになると考えています。内なる意識に没入しやすくなると考えています。
夢を見ている時に、現実の身体の脚が痒いとか、鼻がムズムズするとかを気にせずに、夢の世界に没入するのは、そのような脳・神経生理システムの作用によるものです。
生命エネルギーの活動が作用することによって、内なる意識への交流・没入に より適した状態になると考えています。
・生命エネルギーの神秘的な解釈について
ここでは完全に無視しようかな、と思っていたのですが、ざっと触れておきます。
生命エネルギーなどの神秘的なものが実際に存在するという解釈です。
関連note:生命エネルギーのサイキックな現象!?
このような解釈を支持する人にとっては、この「瞑想する人」の解釈は唯物的であり不十分であると感じられるでしょう。きっと。
こういった人達の中には量子論―― スピ系、精神世界系の人達が現代物理を少しでも理解できているとは到底思えないのですが ――を持ち出してくる人もいます。
そのような大げさなものを持ち出さなくても「幽体」「霊体」「アストラル体」「微細体」――ここでは一括りに「幽体」とします――や「チャクラ」という人体のエネルギー・センターなどはよく主張されています。
もちろん幽体やチャクラは科学的には検証されていません。もちろん科学的に検証されてないからといって、絶対に存在しないとはできないでしょう。
ひょっとしたら幽体などは存在するかもしれません。
しかし今後 私は考えを改めるかもしれませんが、現時点では この「瞑想する人」においては、神秘的な解釈は説明的概念として用いる以外には扱いません。
幽体、チャクラなるものがあり、生命エネルギーはそのチャクラ―― 例えば第一チャクラで脊椎基底部にあるとされるムーラダーラ・チャクラ ――に蓄えられ発生するというのが事実であると考えてみましょう。
その場合でも、大昔から生命エネルギーの体験者によって報告されているように、物質的な人体によって認知されてきた現象であることには変わりはないです。
そうであれば、たとえチャクラなどの神秘的な器官による神秘的なエネルギーの現象であろうとも、それに対応する物質的人体の活動がなければなりません。
この「瞑想する人」note では、それを人間の意識-脳・神経生理システムによる創発現象としています。
人体の神経生理は物質的・物理的なものであり、科学の対象になります。
幽体、チャクラなどの神秘的な解釈は、科学的な検証に到っておらず、現時点では人体の生命エネルギーの現象・活動を考察する上では、無視するのが妥当であると考えます。
科学的検証の可能なものと、未だ可能でないものがあるのなら、とりあえずは可能になっているもののみに集中しておけば良いではないか、という方針です。
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【金剛大乗(金剛荘厳)の用語】
金剛大乗(金剛荘厳)の用語。
金剛大乗(金剛荘厳)
この瞑想する人noteで唯一スピリチュアルな実践としているもの。
「金剛智の荘厳による大乗の実践」(金剛荘厳、金剛大乗)。
顕教
非利己的なエゴの無い愛、慈悲、菩提心の実践およびその実践に役立つ思索や考察、教学。
霊性とは智慧、慈悲であるとしており、実践を通して自らの内に霊性を見つけだそうとすること。
