【三十一歩目】節分と道教。
本日は節分、ということで、節分と道教について。あらかじめ言っておきますが、今回は宗教としての「道教」がメインです。老子や荘子の哲学上の「道家」とは違うものとして取り扱います。あしからず。
1.疫鬼と五穀。
まずは、後漢の文人・蔡邕(さいよう)の「独断」から。三国志の時代の女流詩人・蔡琰(蔡文姫)のお父さんと言った方が通りがいいかな。

❝疫神:帝顓頊有三子、生而亡去為鬼、其一者居江水、是為于是命方相氏黃金四目。其一者居若水、是為魍魎。其一者居人宮室樞隅處、善驚小兒。于是命方相氏黃金四目、蒙以熊皮、玄衣朱裳、執戈揚楯、常以歲竟十二月從百隸及童兒、而時儺以索宮中、敺疫鬼也。桃弧棘矢土鼓鼓、旦射之以赤丸、五穀播灑之以除疫殃、已而立桃人葦索、儋牙虎神荼、鬱壘以執之、儋牙虎神荼、鬱壘二神:海中有度朔之山、上有桃木蟠屈三千里卑枝、東北有鬼門、萬鬼所出入也。神荼與鬱壘二神居其門、主閱領諸鬼、其惡害之鬼、執以葦索食虎、故十二月歲竟、常以先臘之夜逐除之也、乃畫荼壘并懸葦索于門戸以禦凶也。❞
→疫病の神:帝顓頊(せんぎょく)には三人の子供がいたが、この世を去ってから鬼となった。一人は江水にいて瘟鬼(おんき)となり、一人は若水にて魍魎となり、また一人は宮室の隅に巣食っていて子供を驚かすのを楽しみにしている。そこで、十二月の一年の境に、黄金の四つの目の面と熊の毛皮を被り、黒と朱の衣をまとい、矛と盾を持ち、百人の下僕と子供達を引き連れて、宮中の追儺の際に疫鬼を追い立てるように方相氏に命じた。桃の弓に棘の矢を番えて土鼓を打ち鳴らし、赤玉を投げ、五穀を撒いて疫病の元を除く。桃の枝を結んだ葦索(いさく)を神荼(しんと)、鬱壘(うつるい)の神として立たせる。
神荼(しんと)と鬱壘(うつるい)の二神:東海の度朔山には、三千里も曲がりくねった枝を茂らせた桃の巨木があり、その枝の東北に「鬼門」があり、よろずの鬼がそこから出入りするという。神荼と鬱壘の二神はその門に立ちはだかり、もろもろの鬼を検閲して、害をなす鬼は葦縄で縛り上げて虎に食わせるのだそうで、毎年、一年の境目の十二月の大晦日の夜中に、これらの悪鬼を追い払い、神荼と鬱壘の葦索(いさく)を門前にかけて凶事から家を守ろうとするようになった。
今から1800年くらい前の大晦日の記録ですが、ここに節分と似たような風習があります。一つが「鬼」という単語。疫鬼という言い方もしていますが、途中に陰陽道でおなじみの鬼が出入りする方角「鬼門」もでてきますし、中華圏の廟の入り口に、仁王像のように描かれる門神、神荼(しんと)、鬱壘(うつるい)の事も書いてあります。

さらに、その鬼を追い払うために、五穀を撒いたり、桃の弓で棘の矢を放ったり、桃で作った縄を使ったりする記録もあります。

桃は古代中国において聖なる植物、生命の象徴として大切に扱われてきました。この『独断』でも、鬼を払う役割を持っています。陰陽師・安倍晴明を祀る晴明神社でも厄除桃がありますが、これは陰陽道の源流である道教の影響です。日本の神話でも、イザナギノミコトが黄泉平坂から逃げ帰るとき、黄泉の国の追手を払うために桃の実を3つ投げますが、これも同じ意味です。

ちなみに、鬼を封じる桃のお話は、のちに日本で最も有名な童話のモチーフとなっていきます。これもルーツをたどると道教と深い結びつきがあります。
2.追儺(ついな)と方相氏(ほうそうし)。
追儺(ついな)というのは、古くは論語にも登場する非常に古い儀式です。

❝鄉人飲酒、杖者出、斯出矣。鄉人儺、朝服而立於阼階。❞
➙ 村の飲み会では、杖を持った老人が退席してから席を立ち、村の追儺の時は、正装をして階段の前に立って出迎える。
日本では、宮中行事として追儺は行われていました。この年末年始の様子は鎌倉時代に神祇官であった兼好法師の徒然草にも記録があります。

❝追儺(ついな)より四方拜につゞくこそ、面白ろけれ。晦日(つごもり)の夜、いたう暗きに、松どもともして、夜半すぐるまで、人の門叩き走りありきて、何事にかあらん、ことことしくのゝしりて、足を空にまどふが、曉がたより、さすがに音なくなりぬるこそ、年のなごりも心細けれ。亡き人のくる夜とて魂まつるわざは、このごろ都には無きを、東の方には、猶することにてありしこそ、あはれなりしか。❞
➙ 追儺から四方拝に移り変わる様は、興味深いものだ。大晦日の夜、真っ暗な中で松明をかかげ、夜半過ぎまで他人の門を叩いては、何事かと思わせるほどそこかしこを騒いで回っているが、夜明け間近になって、静けさを取り戻すようになる頃、過ぎ去り行く年の名残に、心細さを感じるものだ。この世を去った魂が戻ってくる夜を祀る儀式は、昨今の京の都では廃れたが、東国にはまだその儀式があるという、趣深いものだ。
「節分」と言う、わざわざ二十四節気の立春の前の日を、まるで特別な日であるかのように仕立て上げて鬼を追うという行事は、もともとが大晦日の行事を移したものです。京都の節分で有名な吉田神社で行われている「追儺式」は、方相氏が出てきたり弓もちゃんと使っていて、文献に近い内容になっています。

この方相氏というのは、東アジアの古代のシャーマンで、追儺では鬼を追い払う大事な役割があるのですが、黄金の四つの目の面と熊の毛皮を被っていたり、矛や盾を持っていてけっこう怖いいでたちをしておりまして、現在の鬼の元型はこの「いいもん」であるはずの方相氏であるというのが有力です。
3.荊楚歳時記の記録。
以前紹介した六世紀に書かれた長江流域の風俗に詳しい『荊楚歳時記』には、こんな記述があります。

❝按:莊周云︰「有掛雞于戶,懸葦索於其上,插桃符於旁,百鬼畏之。」又魏時,人問議郎董員力云︰「今正、臘旦,門前作烟火,桃神,絞索松柏,殺雞著門戶,逐疫,禮歟。」員力答曰︰「禮。十二月索室逐疫,釁門戶,磔鷄。漢火行,故作助行氣。桃,鬼所惡,畫作人首,可以有所收縛,不死之祥。」又桃者五行之精,能制百怪,謂之仙木。《括地圖》曰︰「桃都山有大桃樹,盤屈三千里,上有金雞,日照則鳴。下有二神,一名鬱,一名壘,并執葦索,以伺不祥之鬼,得則殺之。」即無神荼之名。應劭《風俗通》曰︰「《黃帝書》稱︰『上古之時,有神荼、壘鬱兄弟二人,住度朔山上桃樹下,簡百鬼。鬼妄搰人,援以葦索,執以食虎。』于是縣官以臘除夕飾桃人,垂葦索,畫虎于門,效前事也。」❞
➙ 莊周にいう「戸口に鳥を掲げる家があり、その上に葦をかけ、傍らに桃符を挿すと百鬼はこれを畏れる」と。また、魏の時に議郎の董員力に人が問いて「今、年明けの朝、門前に烟火を焚き,桃神を祀り,葦縄で松柏を絞め、鶏を殺して門戸に置くのは疫を逐うのは禮によるのでしょうか?」というに、員力が答えて曰く「禮では十二月索室にて疫を逐うには,門戸を血塗り、鶏を磔にし、漢火を行うことで行氣を助ける。桃は鬼の悪むところ。人首を絵に描いて鬼を收縛する所もあるという。これは不死の祥なのだそうだ。また桃は五行の精であり、百怪を制するという仙木である。」『括地図』によると、「桃都山に大桃樹があり三千里の枝を伸ばしているという,上には金雞がおり、日に向かって鳴く。下には二神がおり、一方を鬱、一方を壘という。葦の縄を持ち、不祥の鬼をうかがい捕まえて鬼を殺す。」ともある。まだこの頃には神荼の名はない。應劭の『風俗通』には「『黃帝書』によると「上古の時、神荼、壘鬱の兄弟二人の兄弟がおり、度朔山の上の桃樹の下にて百鬼を観察している。鬼が人に悪事を働くようであれば葦の縄で捕らえて虎に食わせる。」そこで、こういった風習に倣って縣官は年の暮れに桃人を飾り、葦索を垂らし、虎を描いた画を飾る。」とある。

最初に『荘子』の記録として、「戸口に鳥を掲げる家があり、その上に葦をかけ、傍らに桃符を挿すと百鬼はこれを畏れる」とあります。これ、「鬼は外」をするために桃のお札をかける風習があったという最古級の記録ですが、現在流通している『荘子』のテキストには載っていない逸文です。
ちなみに、『荊楚歳時記』には、お正月の風習としてこんなことが書いてあります。

❝熬麻子、大豆,兼糖散之。按《煉化篇》云「正月旦,吞雞子、赤豆各七枚,辟瘟氣。」又《肘後方》云「旦及七日,吞麻子、小豆各十七枚,消疾疫。」張仲景《方》云︰「歲有惡氣中人,不幸便死,取大豆十七枚、雞子、白麻子并酒吞之。」然麻豆之設,當起於此。今則熬之,未知所據也。❞
➙ 麻子仁(麻の実)と大豆を糖とからめて之を撒く。註釈:『煉化篇』によると「元旦に卵と赤豆七枚を飲めば、瘟氣を退ける。」また『肘後方』には「元旦と七日には麻子仁と小豆を各十七枚飲めば、疫病は消える。」また張仲景の『方』は「毎年惡氣に当たり、運に恵まれないとすぐに死んでしまう。大豆を十七枚と卵、白い麻子と酒を合わせてこれを飲む。」とあり、麻や豆の説はまさにここから始まったのだろう。ただし、現在、なぜこれを「煎る」のかは分からない。
身体の疫(病気)の予防のために豆をまいたり、食べたりする。魔(ま)を滅(め)するから豆みたいな恥ずかしいダジャレより、六世紀の書物の方に説得力を感じてしまいます。
というわけで今日はここまで。続きは三十一歩目でお会いしましょう。それでは、¡Chao!(チャオ!)
