見出し画像

【二十六歩目】足るを知る。

 本日は老子を。けっこうなメジャーどころ「足るを知る」です。「足るを知る(知足)」という言葉は『老子道徳経』においては二回出てきます。なぜか二つともぞろ目の第三十三章と第四十四章です。


1.足るを知る者は富む。

❝知人者智、自知者明。勝人者有力、自勝者強。知足者富、強行者有志。不失其所者久。死而不亡者壽。❞
➙他人を知る者は智者であり、自らを知る者は本当の意味で聡明な者である。他人に勝つ者は力があり、自らに勝つ者は本当の意味で強い。足るを知る者は本当の意味で富貴な者であり、強いて道を行う者は本当の意味での志を有している。自らの拠り所を失わないものは永続し、道に到達した者は死してもなお生き続ける。

『老子道徳経』第三十三章

 「足るを知るものは富む」。人間の欲というのは、キリがありませんが、その欲に対して老子は「足るを知る」ことを示します。

2.足るを知れば辱しめられず。

❝名與身孰親。身與貨孰多。得與亡孰病。是故甚愛必大費。多藏必厚亡。知足不辱、知止不殆、可以長久。❞
➙名誉と身体ならばどちらと親しむべきか。身体とと財貨ではどちらが大切であろうか。得ることと失うこととではどちらが苦しいことであろうか。名誉や財産に執着をすると必ず大きな代償を支払うこととなる。名誉や財貨を独り占めにしておくと、必ず自らの身を亡ぼすこととなる。足るを知れば辱めを受けることはなく、立ち止まることを知れば危険にさらされることもなく、この世界で生きながらえることもできる。

『老子道徳経』第四十四章

 もう一つが第四十四章の「足るを知れば辱(はずか)しめられず」。処世術っぽい言い方ですね。こちらでは「知足」だけでなく「知止(止まるを知る)」という言葉もあります。お酒やギャンブルなんかが典型ですが、調子のいいときに止められればいいのに、ずるずると続けで痛い目にあうというのは、まさに「知足」や「知止」の教えが活かされるべきところでしょう。

3.少私寡欲。


❝絶聖棄智、民利百倍。絶仁棄義、民復孝慈。絶巧棄利、盗賊無有。此三者、以爲文不足、故令有所屬。見素抱樸、少私寡欲。
➙聖人ぶることをやめ、小賢しい知恵を捨ててしまえば、民の利益は百倍になるだろう。 「仁(思いやり)」を掲げるのをやめ、「義(正義)」を振りかざすのを捨てれば、民は自然と親を敬い、子を慈しむ心を取り戻すだろう。 巧妙な技術を捨て、目先の利益を追うのをやめれば、泥棒などいなくなるだろう。この三つ(聖・仁・巧)は教えとしては不十分なものだ。 だからこそ、人々が立ち戻るべき拠り所をこう定めよう。ありのままの自分を見つめて、飾り気のない素朴さを保ち、私を小さくして、欲を少なくすることだ。

『老子道徳経』第十九章

 似たような言葉として「少私寡欲」があります。私を少なくして、欲も寡(すくなく)する。これも『老子』を代表する言葉です。

 「知足」もそうなんですが、老子は禁欲や無欲をうたっているわけではないことが重要です。老子は欲を否定しているわけではありません。人間は往々にして自分の欲に気づかなかったり、止められなくなったり、際限なく欲を増やして自分自身をも苦しめたりすることがあります。言い方を変えると、欲があることは自然なこととして、それに執着することが問題だと言っているわけで、欲をゼロにしなさいというようなことは言っていません。

4.「足るを知る」と仏教。

 ここで、「足るを知る(知足)」というと、これは道教(道家)じゃなくて、仏教用語なのでは?と考える人もいるかもしれません。実は昔の私がそうでして、老子の中に「足るを知る」という言葉があって、これは仏教じゃなかったのかと驚いた記憶があります。
 例えば、お釈迦様の最後の言葉とも言われる『仏遺教経(ぶつゆいきょうぎょう)』というお経にはこういう箇所があります。

❝汝等比丘。若欲脱諸苦悩。当観知足。知足之法即是富楽安隠之処。知足之人雖臥地上猶為安楽。不知足者雖処天堂亦不称意。不知足者雖富而貧。知足之人雖貧而富。不知足者常為五欲所牽。為知足者之所憐愍。是名知足。❞
➙汝ら比丘(びく)たちよ。 もし諸々の苦しみや悩みから逃れたいと思うならば、まさに「知足(ちそく)」を観じるべきである。 足るを知るという教えこそが、まさに豊かで楽しく、安らかな境地なのである。
 足るを知る者は、たとえ地べたに寝るような生活であっても、なお安らかで楽しいと感じる。 足るを知らない者は、たとえ天上の豪華な場所にいたとしても、満足することはない。
 足るを知らない者は、どれほど裕福であってもその心は貧しい。 足るを知る者は、たとえ貧しく見えてもその心は富んでいるのである。
 足るを知らない者は、常に五欲(財欲・色欲・名誉欲・食欲・睡眠欲)に振り回され、 足るを知る者から見れば、憐憫の対象でしかない。 このようなことを「知足」と名付けるのである。

『佛垂般涅槃略說教誡經』

 ほぼほぼ『老子』ですね。

5.仏教の仲立ちとしての老荘思想。

 仏教は中国では紀元前後くらいに一度伝来したと言われていますが、すぐには広まりませんでした。これはもともとインドと中国では往来は頻繁ではなく、積極的な布教活動がなされなかったこともありますが、一番の原因は、仏教用語の中国語訳の困難さにありました。
 インドと中国では現在も言語学的な区分は異なりますし、サンスクリット文字と漢字では全くの別物です。そこで当時の中国の僧侶たちは、『老子』や『荘子』の書物にある言葉や概念を使って仏教を説明しようと試みました。これを格義仏教(かくぎぶっきょう)と言います。

 いわば、当時の中国文化に根差していた老荘思想(道家思想)に、仏教の思想を接ぎ木したようなものです。最初は一時しのぎの弥縫策であったのかもしれませんが、この接ぎ木の一部は完全に同質化して判別不能になっているものもあります。「知足」はその一例であろうと思います。
 このようなことが起きるのは、お釈迦様の思想と老子や荘子の思想に、表現が違うだけで本質的に同じものという部分があるからです。この仏教との親和性の高さは老荘思想を見るうえで重要なことだと思います。

 もうちょっと書きたいですが足るを知って今日はここまで。続きは二十七歩目でお会いしましょう。それではAte breve. Obrigado.(アテブレーベオブリガード)。


いいなと思ったら応援しよう!