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【一歩目】千里の道も一歩から

あけましておめでとうございます。ではまず老子で一歩目。


1.千里の行も足下に始まる。

❝合抱之木、生於毫末、九層之臺、起於累土、千里之行、始於足下。爲者敗之、執者失之。是以聖人、無爲故無敗、無執故無失。民之從事、常於幾成而敗之。愼終如始、則無敗事。❞
 ➙ 一抱えもあるような大木も毛先のように小さな芽から育ったものである。九階建ての高楼もちっぽけな盛り土から積み上げられたものである。千里の道のりも足下の一歩から始まったものである。作為を以て事を為そうとすると敗れ、執着にとらわれると成果を失ってしまう。聖人と呼ばれる人は、作為や執着がなく、敗れることも、失うこともない。世の人が何かを成すとき、成功する寸前で失敗をしてしまうことが多い。これは最後の最後で作為や執着にとらわれてしまうからだ。最初の心持を保てていれば、失敗することなどなかったのだ。

『老子道徳経』第六十四章 

 現在も日常的に使われることわざ「千里の道も一歩から」は、『老子』の第六十四章に由来します。現代中国でも「千里之行始于足下(千里の行も足下に始まる)」と老子の言葉をそのまま使ったことわざを使用しているそうです。意味は日本とほぼ同じ。「どんな大事業でも、はじめはまず手近なところから始まる」というような意味が辞書には書いてあります。こういったことわざとしての意味と、『老子』の原文ではニュアンスがちょっと違いますね。まぁ細かいことについてはいずれ。

2.跂(つまだ)つ者は立たず、跨(また)ぐ者は行かず。

 せっかく千里の道の話があるのでもう一つ書いておきたい老子の言葉がこちら。

跂者不立、跨者不行。自見者不明、自是者不彰。自伐者無功、自矜者不長。其於道也、曰餘食贅行。物或惡之。故有道者不處。❞ 
 ➙  つま先で立って背伸びをしたところで、長くは立っていられない。大股で急いで歩いたところで遠くまでは歩いていられない。自分には見識があると思い込んでいるうちは真実に到達することはなく、自分が正しいと思い込んでいるうちは他の誰からも認められない。自分の功績を自慢しているうちは、他人からの本当に称賛は得られない。「道」からすれば、このようなふるまいはただただ余計なものである。「道」を会得した者はこのようなふるまいはしない。

『老子道徳経』第二十四章 

「跂(つまだ)つ者は立たず、跨(また)ぐ者は行かず」。我々は自分を大きく見せようと背伸びをしたり、誰かを出し抜こうと早足で移動したりします。本人は意識しなくとも、知らず知らずのうちにそうなってしまう。競争の激しい現代社会ではありがちなことではあるんでしょうが、老子の生きた紀元前の人々の中に、背伸びをしたり、人より先へ行こうと焦ったりする人がすでにいたのでしょう。老子はこのような行為を「道から離れた」人のありようであると指摘しています。

3.足下から、しっかりと。

 六十四章の「千里の行も足下に始まる」も二十四章の「跂(つまだ)つ者は立たず、跨(また)ぐ者は行かず」も、われわれが日常的に行っている「歩く」という行為について書いてある部分です。どうも私たちは歩くとき、目標ばかりを見て足下がおろそかになることがあります。また、何かにせき立てられるように、せかせかと歩いてしまうこともあります。そのような姿を老子は「無為自然(むいしぜん)」の道から離れているふるまいだとし、それをもう一度見直してみることをうながしているように読めます。

 もう一度足下から見直す。それからしっかりと歩みを進めてみる。私は老子のこういう考えが好きです。もちろん、一歩を踏み出さずに止まってみてもいいと思います。「歩く」という字は、「歩」という字は「止」と「少」から成り立っていますし。

というわけで、一歩目はここまで。続きは二歩目でお会いしましょう。再見!

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