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「くっきり綺麗に写っていればいいわけじゃない」と気づいた話


はじめに

写真を始めたばかりの頃、僕にとって「良い写真」とは、くっきりとした鮮明な映像を意味していました。細部までシャープに写っているかどうか、色が鮮やかに表現されているかどうかが重要だと思っていたのです。そして、それを可能にする機材や技術が「写真の楽しさ」だと信じていました。

しかし、ある日ふと、「くっきり綺麗に写るだけが写真の魅力じゃない」と感じ始めました。

スマホで撮れる「十分すぎる綺麗さ」

今やiPhoneをはじめとするスマートフォンは、驚くほど高性能です。ポケットに収まる小さなデバイスで、誰でも簡単にプロ並みの写真が撮れる時代。明るさやコントラスト、シャープネスまですべてが自動で最適化され、どんなシーンでも「綺麗」に写ります。

その便利さに驚き、感動する反面、どこか「物足りなさ」を感じるようになりました。シャープで鮮明な写真ばかり撮っていると、まるで全てが同じように見えてしまうのです。写真に込めたかった「空気感」や「雰囲気」が、むしろ消えてしまったように感じることもありました。

曖昧さの魅力

そんなときにふと目にしたのは、ピントが甘かったり、光がふわっと回り込んでいたりする写真でした。一見すると技術的には「失敗」とされるような写真です。でも、その曖昧さこそが何か心に響くものを持っていると気づいたのです。

写真は、ただ被写体を正確に記録するだけではなく、撮った人の気持ちや見た景色の記憶を伝えるものでもあります。くっきり写っていないからこそ、そこに「余白」が生まれ、見る人が想像を膨らませられる。その曖昧さが、写真をより詩的で魅力的なものにしているのではないでしょうか。

中間の美しさ

こうした曖昧さの中に、僕は「中間の美しさ」に気づきました(個人的な表現です)。明暗のコントラストが強すぎず、全体的に柔らかくまとまった写真。ピントが完全に合っていなくても、全体のバランスで美しさを感じる瞬間。すべてがはっきりしている必要はない、むしろ少し曖昧な方が心地よいと感じるようになったのです。

たとえば、夕暮れ時の柔らかな光が差し込む写真や、ぼんやりとした背景に溶け込む被写体。こうした「くっきりしない美しさ」に気づいてから、私はカメラを持つのがさらに楽しくなりました。

写真を楽しむ心の変化

この気づきは、写真を撮ることそのものの意味を変えました。以前は「綺麗に撮る」ことを目標にしていた私が、今では「何を感じたか」を写真に込めるようになったのです。そのためには、くっきり写す必要はありません。むしろ、少し曖昧で不完全な写真の方が、見る人に感情を届けられるのかもしれないと感じています。

まとめ

スマホや最新カメラの技術がどれだけ進化しても、「曖昧さ」や「中間の美しさ」は永遠に残り続ける価値だと思います。それに気づいた今、写真を撮ることがますます楽しくなり、自由になったように感じています。

これからも、くっきり綺麗に写すだけでなく、曖昧さや中間の美しさを探しながら、カメラとの時間を楽しんでいきたいと思います。


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