パン屋の親父に流れる「最後の武人」の血 柳北探求記 vol.1
茨城県下妻市で33年、パンを焼き続けてきた一人の男。 長年、胸の奥に秘めてきた自らのルーツ。 それは、幕末から明治という激動の時代を、刀とペンで駆け抜けた「最後の武人」成島柳北でした。 なぜ今、私は先祖の足跡を辿り、その名を明かすのか。 療養中の静寂の中で見つけた、私の中に流れる「熱き血潮」の正体。 現代社会へ問う、あるパン屋の親父の「魂の建白書」をここに記します。

1. 私のルーツを旅して
私事となり恐縮ですが、皆様に一つだけ、私のルーツについてお話しさせていただきます。私は、幕末から明治にかけて「文人」として、「武人」として、その後は「ジャーナリスト」として生きた、成島柳北(なるしま りゅうほく)の玄孫(やしゃご)にあたります。
かつて地元の広報誌で「成島柳北の孫娘」として、私の祖母と私が紹介されたことはございましたが、私は長年、この血縁をあえて公言することなく生きてまいりました。しかし、昨年、大怪我による長期療養の最中、自分自身の内面と深く向き合う中で、先祖である成島柳北を探求する機会をいただき、一つの答えに辿り着きました。
なぜ、私の血潮はときに熱く燃え上がるのか。
私を突き動かす衝動の正体は何なのか。
なぜ、私はあえて、「火中の栗を拾う」ような生き方を選ぶのか。
その長年の謎が解けた今、私の中に流れる「熱き血潮」について、皆様にお伝えすべき時が来たと感じ、ペンを執りました。
2. 最後の武人として

私のひいひいじいちゃんの成島柳北は、激動の時代を「文人」として、そして「武人」として駆け抜けた男です。幕末には将軍家の奥儒者として、徳川家定・家茂二代の将軍の侍講(教育係)を務めました。家茂公の死後、最後の将軍・徳川慶喜公を守るべく、会計副総裁や外国奉行、そして騎兵頭(洋式騎兵隊のトップ)といった要職を歴任しました。
幕府の崩壊が決定的となった時でさえ、柳北は決して逃げませんでした。彼は世界最強と謳われたフランス・ナポレオン軍の戦術を取り入れ、ナポレオン3世派遣によるフランス軍事顧問団の指導を受けた精鋭騎馬隊を率いる指揮官として、自ら馬上の人となりました。

腰には慣れ親しんだ日本刀に代え、実戦重視の「フランス式サーベル」を帯び、鞍(くら)には最新鋭の「シャスポー銃」を携え、最前線で泥にまみれて戦う準備を完璧に整えていたのです。
盟友・小栗忠順らと共に「徹底抗戦」を主張し、徳川武士としての矜持(プライド)を最後まで守り抜こうとしたのです。しかし、その想いはトップの「恭順」と「敵前逃亡」によって踏みにじられました。彼が鍛え上げた最強の騎馬隊は、一度も戦うことを許されず、「戦わずして負けること」を誰よりも嫌った武人・柳北の幕末は、無念のうちに幕を閉じました。

さらには、自らが育て上げた最新最強の兵器の数々が新政府軍の手に渡り、あろうことか、かつての同志を殺める凶器として使われてしまう。その光景を目の当たりにすることは、彼にとって――あまりに耐え難く、残酷な幕末の結末でした。
3. ペンという武器へ
明治に入り、彼は権力を捨て、刀をペンに持ち替えました。現在の銀座和光の場所に「朝野新聞(ちょうやしんぶん)」社を構え、ジャーナリズムの世界へ身を投じたのです。また、当時、旧幕府側の人間としては異例ともいえる東本願寺の欧米世界一周視察に随行し、岩倉使節団一行と皮肉にも共にパリを視察し、広い世界を見聞しています。

彼は、薩長が中心の明治新政府において、盟友・小栗忠順をはじめとした多くのかけがえのない仲間たちが誇りの死を選んだのに対して――特に小栗は、近代国家を目指したはずの新政府によって、何の取り調べもなく斬首されるという理不尽な最期を遂げました――柳北は、あくまで幕府出身のひとりの人間として、生きて最後まで戦う道を選びました。
パリでは、新時代へ向け、武人としての過去と完全に決別し、かつてのフランス軍事顧問団の隊長であったシャルル・シャノワーヌと再会した際に、「武士の魂」である自分の愛刀をシャノワーヌに贈った上で、新時代を「ペン」という新たな武器で生き抜くという強烈な覚悟を決めたと言われています。新政府から文部省の要職への就任を木戸孝允より求められながらもこれを固辞し、あくまで「野にある幕臣」としての生き様を貫きました。

彼の武器は、「遊び」という武器と『柳橋新誌』。鋭い批判精神とユーモア溢れる巧みな文章でした。『柳橋新誌』は、花街の風俗や芸妓たちの生態を描いた漢文の戯作ですが、そこには、権威主義的で野暮な明治の世相を、江戸の洗練された美意識(「粋」や「通」)の側から笑い飛ばす、批評精神が満ちていました。虚と実が入り混じった筆致で、彼は「まじめ腐った顔で嘘をつく」新政府の欺瞞を、花街という「嘘の世界」の真実を通して暴こうとしたのです。
「朝野新聞」では、「柳北の文章が載っていない新聞は新聞ではない」と言われるほどの熱狂的な支持を集め、そのペンは藩閥政治の専制を鋭く突き、言論の自由を叫び続けました。それを恐れた政府が定めた弾圧法「讒謗律(ざんぼうりつ)」により、彼は見せしめとしての投獄第一号となります。

言論弾圧による過酷な投獄を経験しながらも、彼は決して屈しませんでした。それどころか、獄中での体験をユーモアたっぷりに綴った『獄内の記』を著し、不自由な牢獄を「静かで読書に最適な場所」と皮肉ったり、看守とのやり取りを面白おかしく描写したりして、不自由な境遇さえも「笑い」という武器で跳ね返したのです。その圧倒的な反骨精神は、後の自由民権運動、ひいては日本の民主化に大きな勇気を与えました。

明治17年(1884年)、成島柳北は48歳の若さでこの世を去ります。その早すぎる死は多くの人に惜しまれましたが、時代の流れの中で、彼の名は次第に忘れ去られていきました。しかし、近年の歴史家たちによる再発掘や、大学機関による多角的な研究によって、権力に抗い、ペン一本で時代と渡り合ったその高潔な生き様が、現代にこそ必要な精神として、鮮やかに蘇りつつあります。
4. 祖母からの教え
「組織を愛するがゆえに、組織の過ちを正す」
「長いものには巻かれず、自らの信じる正義と美学を貫く」
「最後の最後まで、徳川の名誉を守った人間」
この柳北の精神こそが、私の行動の原点です。 ひいひいじいちゃんの柳北は、二代の将軍に仕えた「侍講(じこう)」、つまり最高峰の教育係を務めたほどの、深い教養を持つ「文の人」でもありました。その知性と高潔な精神があったからこそ、武士としての矜持がより一層研ぎ澄まされていたのだと、今にして思います。

かつて私は小学4年生まで、柳北の孫娘である祖母と同じ布団で寝ていました。祖母は毎晩、養命酒をちびりとやりながら、幼い私に柳北の物語を語って聞かせました。
「誠には、人ができないような困難でもやり抜ける力が宿っている。周りの目など気にせず、自らの信じる『正しき道』を進みなさい」
天井の木目を眺めながら聞いたその言葉は、学問と武士道の両面を重んじた柳北の魂そのものであり、今も私の血肉となっています。
5. 今、社会に問う
今、私は現代の社会や組織の現状に、かつて柳北が危惧した「幕末の姿」を重ねて見ています。建前や、かけ声だけの改革。そして何より、かつて巨大な幕府を内部から腐らせたのと同じ「形式主義」や「事なかれ主義」の蔓延。
このままでは、私たちが暮らす地域社会や組織、日本という国は、魂を失った抜け殻となり、魅力の欠如から衰退の一途を辿ってしまうのではないか。そう強く危惧するからこそ、私はご先祖様と同様、最後の最後まで諦めず、「あえて火中の栗を拾う」覚悟を決めたのです。
本日、私が申し上げたいことは、
柳北がかつて幕府に捧げた「最後の建白書」と同じ、
愛する郷土と未来への祈りです。
このnoteを読んでくださっている皆様におかれましては、どうか周囲の雑音や古い因習にとらわれることなく、「それぞれの場所でのリーダー」として、強く、そして楽しい未来づくりに邁進していただきたいのです。この国の灯りを未来へつなぐために。
地域社会や組織の中で、
たった一人でも「諦めない人間」がいる限り、
私はかつての騎兵頭・柳北のごとく先陣を切り、
泥臭く行動し続ける所存です。
6. 墓前の誓い

先日、私は生まれて初めて、柳北が眠る「都立雑司ヶ谷霊園」を訪ねてまいりました。夏目漱石やジョン万次郎ら、(小栗忠順の子孫のお墓もありました)多くの偉人たちが静かに眠るその場所で、私は高祖父の墓石と対面しました。墓石をひとつひとつ、水とタオルで丁寧に洗い清め、石に刻まれたその名を指先でなぞり確かめた時、時を超えて私の中に流れる血の温もりを、確かに感じました。
私は墓前で静かに手を合わせ、こう誓いを立ててまいりました。
「ひいひいじいちゃん、私はあなたの生き方に恥じぬよう、
『稀有』であることを恐れない」
「信じる正義のために、
火中の栗を拾うことを恐れない生き方をしていく」
この誓いを胸に、私はこれからも、
パンを焼き上げ、地域への貢献を続け、
時折ペンを執り、ときに戦うことも辞さない覚悟で、
行動してまいります。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
