【小説】モノクロの本質
あらすじ
この世界では、季節によって色の見え方が変わる。春はパステル、夏は鮮やか、秋はセピア、冬にはすべてがモノクロになるーーそれが当たり前の世界だった。
人気アイドルグループで埋もれる本條巽は、冬の夜に不思議な花屋「桜屋」と出会う。店主は花に宿る花言葉の力を引き出し、人々の願いを後押しする“おまじない”を花へ宿し、目の見えない老女・蛍は、その人に本当に必要な花を選ぶことができた。
花に導かれた人々の人生が少しずつ動き出す一方、巽は桜屋に入り浸るように。
しかしある日、桜屋は跡形もなく姿を消してしまう。冬になると世界から色が失われる理由とは何だったのか。店主と蛍は一体何者だったのか。
ひとつの出会いが、世界の見え方を静かに変えていく幻想譚。
1
暗く灰色の夜空の下を、肩を落として歩いていた。夏だったら、この空は何色に見えるのだろうか。
「アイドル、向いてないのかな」
本條は今日のライブの反省をぐるぐると頭の中で反芻した。本條の所属するアイドルグループは、デビューから徐々に人気になりつつあり、今やチケットを取るのも難しくなってきている。にも関わらず、本條のモチーフをしたペンライトを持っている客は片手で数える程度だった。歌もダンスも飛び抜けて秀でたところがないことは自他ともに認めていたが、それでも努力を怠ったことはなかったし、顔もそれなりにいい方だと思う。しかし、握手会で自分の列だけ人が並んでいないのを目の当たりにするたび、本條の心はすり減っていった。
寝静まったモノクロの街をとぼとぼ歩いていると、ふと頼りない明かりが道路に漏れているのが見えた。こんな夜中に店が開いているとは珍しい。気がつくと、本條は明かりの灯った店の前に立っていた。店の看板には、桜屋と書かれている。店に扉はなく吹きさらしのため、店内の様子がはっきり見えた。店内にはモノクロの花が並んでいる。
「なんだ、花屋か」
なぜこんな季節に花屋が開いているのだろう。冬に色とりどりの花を売ったところで、せいぜい黒か白か濃度の違う灰色にしか見えないはずだ。冬の花ほど魅力のないものはない。しかし、なぜか本條の足は店内に向いていた。
「おや、いらっしゃいませ」店内で花の選別をしていた店主が本條に向き直った。「男性のお客さんだなんて、珍しい」
ワンルームほどの広さの店内には、様々な形の生花が並んでいる。天井や壁にはドライフラワーが吊られており、木製のシックなテーブルには小ぶりな花で作られたブーケやリースが並んでいる。しかし、どの花もすべてモノクロだ。
店主は手を止め、本條に微笑んでいる。線の細い体軀は女性のようだが、骨格からして男性なのだろう。白く長い髪は高い位置でポニーテールにしている。濃い灰色の生地に大きな花の紋様が描かれた和服は花屋の店主には似合わない格好だ。なにかのコスプレだろうか。
「なんで冬なのに、花なんて売ってるんですか」本條は聞いた。
店主はきょとんとしてから、「ああ」と納得いった顔でつぶやいた。「そうか、冬には色がないんだものね」
冬はすべてのものがモノクロになる。黒か白か灰色。物寂しい気持ちが一層高まる季節だ。そして春になれば少しずつ世界は色づいてくる。モノクロの世界は次第にパステルに染まっていき、夏になれば、目に映るものすべてが色鮮やかになる。こんなに世界は色で溢れていたのかと毎年驚くほどだ。
冬に撮影された映画が夏に上映されると、俳優の衣装や小道具の色がちぐはぐになっているのがわかる。冬に描かれた絵を夏に見ると、あまりに奇抜な色使いで描かれていたことが判明する。でもそれがいい味を出すのだと、クリエイターたちはこぞって冬に創作活動に励んだ。
「そりゃあ、冬でもお客さんは来るよ。君みたいにね」
本條はもう一度店内を見まわした。「モノクロなのに?」
「んー、花はずっと色づいているんだけどなあ」
「え?」
ドライフラワーを見上げていた本條が店主に向き直った瞬間、すぐ目の前に、小柄な人影の姿が立っていた。「うわ!」
本條が驚いてのけぞると、店主はけらけら笑いながら愉快そうに老婆に声をかけた。「ほら蛍さん、お客さんがびっくりしてるでしょ」
老婆は優しい顔でじっと本條を見つめていた。性格の良さがここまで皺に刻まれるのかといったほどに顔はくしゃくしゃで、少しぽってりとした頬がまた人の良さを増幅させている。白髪はお団子にまとめられており、清潔感が漂っている。昔ながらのもんぺを履いているのもまた彼女の素朴さを表しているようだった。
「あ、あの……?」
老婆はしばらくじっと本條の顔を見つめたあと、にこりと笑ってゆっくりと生花の方へ歩いていった。蛍と呼ばれたその老婆は、様々な種類の生花の中から適当に何本か花を抜き取っている。なにを基準にしているのかはわからないが、花を抜き取る手には迷いがない。常連客なのだろうか。
「あの、どうして冬に花を買うんですか?」
本條がおずおずと蛍に声をかけると、蛍は花を抜き取る手を止めずに楽しそうに答えた。
「買っているわけではありませんよ。これから、この花たちを求めている人に配るんですよ」
なおさらわけがわからない。冬に花を求める人なんて聞いたことがない。本條が眉間に皺を寄せていると、店主が楽しそうに口を開いた。
「彼女はお客さんじゃなくて、僕の手伝いをしてくれている蛍さん。目は見えてないけど、とてもよく働いてくれている」
目が見えないだって? そんなはずはない。確かに彼女と目が合った。それに今、蛍は楽しそうに生花を丁寧に抜き取っている。適当に抜いているわけではなさそうだ。
「お手伝いさんってことは、家事とかするんですか?」
店主は春の日差しのような目を蛍に向けながら言った。「いや、蛍さんはそういうんじゃないよ。わかりやすく言うと、この店の営業活動をしてもらってるって感じかな」
「営業活動?」
蛍は両手に抱えた花を見て満足そうに頷くと、カウンターに回ってなにやら作業を始めた。新聞紙とティッシュを広げ、茎から花を切り取ってそこに並べている。
「押し花ですか」本條はカウンターに近づいた。花屋の花で押し花を作るとは、なんだか贅沢だ。
「そう。彼女はこの店の花を使って押し花の栞を作る。そしてそれを配り歩いてもらってるんだよ」
「配るって、つまり……」
「タダってことだね」
「タダ!? そんなの……」商売になってないじゃないかと、本條は思った。
すると店主はけらけらと楽しそうに声を上げて笑い出した。「まあ、今に見てなよ」
「すみません」
本條の背後から女性の声が聞こえた。そこには白いニットのトップスに濃いグレーのタイトなロングスカート、黒のハイヒールを履いた女性が凛と立っていた。本條に愛想よく微笑んでから、彼女はカウンターで楽しそうに作業をしている蛍に目を向けた。蛍を見つけたその目はたちどころに大きく見開かれた。「見つけた!」
蛍さんの知り合いだろうかと本條が首をかしげていると、女性はうれしそうに蛍に駆け寄った。一方の蛍はそれを意に介していない様子だ。
「おばあさん、この前、駅前でこの栞くれたでしょ? これ、本当におまじないの効果があるみたい! ねえ、この花をもっと欲しいんだけど!」
そう言う女性の手には一枚の栞が握られていた。小さい花が押し花にされている。
「おまじないの効果?」本條は思わず店主に聞いた。
店主はにやりと笑って女性に近づくと「こんにちは。ああ、こんばんは、か」とおどけた調子で話しかけた。女性は、コスプレ然とした格好の店主に話しかけられて眉間に皺を寄せたものの、すぐに愛想のいい笑顔で挨拶した。「こんばんは」
「あなたが持っている栞の花はね、プリムラっていうんです。花言葉は青春の恋」
店主は、本條に顔を向けた。「言霊ってあるだろう? 僕は花に宿された花言葉の力を引き出すことができるんだよ」
店主は、薄いグレーの小ぶりな花がいけられた鉢を一つ持ち上げた。そして、それを女性に差し出した。
「あなたはこの花に選ばれた。僕がしっかりその思いをあなたに届けよう」
店主は目を閉じて、胸の前で右手のひらを上に向けた。その瞬間、理屈より先に、嫌な感じが本條の背を撫でた。見てはいけない気がした。しかし、見ずにはいられない。本條は薄目で店主の様子を伺った。すると、店主の右手から小さな光の玉がふわっと生まれていた。店主は左手に持っていた小ぶりの花に、ゆっくりと光を落とした。花はほんのり光ったかと思うと、再びなんの変哲もないモノクロの花に戻っていた。
「今のは?」本條は呆然と店主に聞いた。
「おまじないだよ」店主は手に持っていた花を女性に渡した。「永遠に効果があるわけではないけれど、それでもあなたの望みを叶える程度には力を発揮してくれる」
女性は呆気に取られたまま、差し出された鉢を受け取った。「あ、ありがとうございます」
店主はにこりと笑ってレジを打ち始めた。花屋で買う花の相場はあまりよくわからなかったが、それでも少し値が張っているように感じた。
「ふふ、なんだか本当に力が湧いてきたかも」
女性が楽しそうに言うのを横目に、本條はプラシーボ効果という言葉をぐっと飲み込んだ。
「わたしね、あんまり男性にご縁がなくて」
女性は花に目を落とした。本條も釣られて女性の手元の花を見た。その花に少しだけ色を見た気がした。
2
本條は目の前で起きた光景に戸惑っていた。
「さっきのマジック、いったいなんだったんですか?」
「マジック?」店主は目を丸くして本條を見た。そして、思わず吹き出して答えた。「はは、あれはタネも仕掛けもないよ」
店主の手のひらから光が生まれた。そしてそれを花がまとった。手品でないならなんだというのか。
「さっきも言ったけど、僕は花に宿された花言葉の力を引き出すことができる」店主はまるで出来の悪い生徒を目の前にしているかのように、ゆっくりと言った。
そもそも花言葉とは、人間が勝手に作ったものだろう。それを引き出すことなんて可能なのだろうか?
「巽くんは、花言葉がお嫌いみたいだね」本條が納得いっていない表情を見て、店主は苦笑いした。「顔に書いてあるよ」
「そんなことないですけど、でも花言葉なんて匙加減じゃないですか。なんというか、占いみたい」
店主は感嘆した。「ふむ。その心は?」
本條は顔をしかめた。まるで馬鹿にされているようにも思えた。「つまり、信じるかどうかはその人次第だし、花言葉の解釈だって人によるじゃないですか」
店主は店の中で、枝がたくさん入れられた花瓶から、小ぶりな枝を取り出した。まだ花は咲いておらず、ぷくぷくに丸くなった蕾がたくさんついている。
「これは桜。巽くんは、桜にどんな印象を持っているかな?」店主は桜の枝を本條に渡した。
「そうですねえ」本條は、まだ咲く気配のない桜の蕾をまじまじと見た。「きれい、ですかね」
店主は快活に高らかに声を出して笑った。「確かにそうだね。それだけかい?」
本條は腕を組んで考えた。「あとは、春に咲くとか、あっという間に散っちゃうとか、でも散り際がきれいとかですかね」
店主は納得いったように何度も頷いた。「いいね。じゃあ、桜の花言葉はわかるかな?」
本條は肩をすくめた。「そんなの知るわけないじゃないですか」
「桜はね、精神の美って言われることが多いんだ」店主が本條の手から桜の枝を引き取った。「どう?」
「どう、とは?」本條は困惑して言った。
「桜のイメージの本質を具現化したのが花言葉なんだよ。だから言葉自体が大事なんじゃなくて、本質が大事なんだ」
本條は頷いた。難しい話ではあるが、理解できない話ではない。「だけど、いい意味しか汲み取らないのは都合が良すぎませんか? あっという間に散っちゃう儚さとかは見ない振りってことですか?」
店主は切なそうに微笑んだ。「そういう花言葉ももちろんあるさ。私を忘れないで。桜の儚さから作られた花言葉だよ」
悲しい意味の花言葉もあるのか。公平であるようにも思えたが、人間の融通の利かなさに本條は呆れた。
「言葉は重要じゃない。本質が大事なんだ」
「じゃあさっきのプリムラ、でしたっけ、それも花の本質を引き出したってことですか?」
本條は先ほどの光景を思い出した。まるで見てはいけない儀式のような光景。再び背筋が凍りついた。それは店主が言うような美しい話ではない気がした。なにかもっと、世界の理に触れるような、重大なことのように思えた。
「そうだよ。彼女には青春の恋とか、信頼とかいったプリムラの花言葉がぴったりだった。パズルのピースが合うように、プリムラが彼女を引き寄せたんだろうね」
本條は急いで視線を店内の花に移した。これ以上この話題を続けるのが怖かった。「ここにある花の花言葉、全部覚えてるんですか?」
「覚えてるよ」店主は困ったように笑った。「全部蛍さんに教えてもらったんだけどね。あの人は僕以上に花のことを知っているから」
「蛍さんって、店長の指示で花を選んでたんじゃないんですか?」本條は思わず声を上げた。
店主は愉快そうに腹を抱えて笑った。「違うよ。あの人は自分で選んでるんだ。どの花が誰に必要なのかも」
「ということは、杏さんにあげたという花の栞も?」
「そうだよ。お客さんがどんな求めているのか、いや、どの花が求められているのか、蛍さんは見極めることができる。僕はただ、その花におまじないをかけるだけさ」
「へえ。なんだか変な話だなあ」本條は、テーブルの上にあった栞をまじまじと見た。
店主は目尻を下げて微笑んだ。そして、低い声で言った。
「ちなみに巽くんに聞きたいことがあるんだ。僕のおまじないの力と、花の持つ力、どちらの方が強力だと思う?」
3
深夜に開いているカフェがあるなんて知らなかった。
葉栗杏は湯気の立つココアを両手で包みながら、前に座る本條に目を向けた。桜屋を出たあと、杏は勢いのまま本條を駅前のカフェに誘った。
「ごめんね、無理やり連れてきちゃって」
「え、あ、いえ……」本條は子犬のように肩をすくませたままコーヒーを啜った。
「ところで、無理やり連れてきておいてなんなんだけど、あなた、高校生じゃないわよね……?」
深夜に出歩いていることを考えると未成年ではないだろうとは思っていたが、本條があまりにも童顔だったため心配だった。この時間に未成年をつれているとなると大問題だ。
「一応、三十路です」
「え!? 年上だったの!? 全然見えない!!」よしんば大学生くらいかと思っていた。杏は取り繕うようにチーズケーキを口に運んだ。「あなたもあの花屋さんに用があったの?」
「仕事終わりにたまたま見つけて、なんか、入ってみた、って感じっすかね」
杏は感心したように言った。「へえー、なんの仕事をしてるんですか?」
「あー……」本條の表情が曇った。「アイドルっす」
「アイドル!?」杏は目を輝かせた。「どうりでイケメンなわけだ」
「アイドルといっても、俺は全然人気ないんですけどね」本條は自嘲気味に笑って目を伏せた。
「いやいや、すごいですよ! だってアイドルって、歌って踊ってみんなに笑顔振りまいてるんでしょ? みんなができるわけじゃないわ」
本條は居心地が悪そうにコーヒーを啜った。そのあどけない様子はどう見ても高校生にしか見えない。
「ていうか」本條が杏のココアを見ながら顔をしかめた。「ココア、おいしいですか?」
「うん、おいしいよ」
「冬のココアって灰色じゃないですか。なんか、おいしくなさそうに見えるというか」
今度は杏が首をかしげた。「でも冬ってそういうものでしょ?」
杏の手元の濃い灰色のココアはまだ湯気が立っている。一方、本條の手元の漆黒のコーヒーも湯気を上げていた。確かにコーヒーは季節関係なくいつもモノクロだ。
「まあいいや、ちょっとだけ、小娘の話を聞いてくださいよ」杏はダークグレーのココアを両手で包みながら、ゆっくり話し始めた。
「今まで、てんで恋愛なんてうまくいかなかった。それは多分、学生時代に好きになった人のことを忘れられないからだと思うんです」
ある日の仕事終わり、珍しく電車が大幅に遅れた。後輩のミスで残業し、客に罵倒され、上司に怒鳴られた挙句の電車の遅延に、杏は目眩がした。
満身創痍でとぼとぼ歩いているところに、突然蛍が現れた。あまりにもぬるっと現れた蛍を、初めは妖怪かなにかだと思った。しかし優しそうな弓形の目に、杏はどこか懐かしさすら覚えた。
「あの、なにか?」
思い切って杏が蛍に声をかけると、蛍は静かに杏に手を差し伸べた。そのしわくちゃな手には、小さな紙が握られていた。よく見ると、小さな花がラミネートされている。
「これはプリムラ。あなたにぴったりの花だわね」
冬に片足を突っ込んで色彩を失いつつある世界で、蛍の声はまるで春に咲く小さな花のように、あたたかく、そして柔らかかった。杏は無意識に蛍が差し出すその栞を手に取っていた。手にした途端、手のひらがほんのり熱く感じられた。そしてプリムラの花を見ていると、なぜだか力がみなぎってくるかのようだった。
はっとして杏が顔をあげると、蛍の姿はなかった。その代わり、長身で少し細身の男が目の前を通り過ぎた。一瞬見えた横顔に、杏は思わず声を上げていた。
「重慶くん?」
長身の男は振り返り、驚いた目で杏を見た。その顔を見て、杏の心臓は激しく鼓動を打ち始めた。高校時代に杏が憧れていた重慶優希だったからだ。ゆるくウェーブした癖っ毛は、あの頃と同じように耳にかけられている。薄いグレーのトレンチコートは風になびき、かつて彼を目で追っていた放課後を思い出した。あの頃と同じ笑顔を浮かべる重慶を見た瞬間、色がなくなりつつある季節にもかかわらず、重慶の周りは春が来たかのようにパステルに輝いて見えた。
「葉栗さん、久しぶり」
覚えていてくれた。芋臭くて野暮ったい面影なんて、残さないようにしているのに。憧れの人を前に、頬が緩みそうになる。それを悟られないように唇を硬く結んでも、口角は激しく反発してくる。
杏がもじもじしていると、重慶が心配そうに杏の顔を覗き込んできた。「こんなところで、なにしてるの?」
それはこちらのセリフだった。高校を卒業してから杏は地元を離れ、知り合いのいない都心の大学に進学して、そのまま就職した。まさかこんな雑踏の中で憧れの人に再会できるなんて思わなかった。
このままさよならなんてもったいない。だけど、「ずっと憧れてました」の一言が出てこない。目の前の重慶は困ったように首をかしげている。なにか言わなきゃ。
「あの、今、おばあさんがいて、この栞をもらった、です……」
必死に言葉を絞り出したせいで、日本語が不自然になってしまった。途端に顔が熱くなる。目の前の重慶はきょとんとしている。そして杏の持っていた栞に目を移すと、納得したように笑顔で頷いた。
「確かに、さっき葉栗さん、優しそうなおばあさんと話していたよね。そうか、これをもらっていたんだね」
重慶が栞に手を伸ばした。そのとき、杏の手に彼の指が、少し触れた。「プリムラ、かな」
心臓の鼓動が頭の中で響く。指先に残るほんの少しの彼のぬくもりが、高校時代の重慶の姿を鮮明に思い出させては、目の前の彼に溶けていく。
「あ、ごめん。俺、もう行かなくちゃ。今日は葉栗さんと会えて嬉しかったよ。またどこかで」
重慶は栞をそっと杏に返し、手を振って去っていった。気のせいか、顔を逸らした瞬間の重慶の顔からすっと表情が消えた気がした。
杏は、ふっと息を吐いた。そして重慶から受け取った栞を夜空に掲げた。「もしかして、重慶くんと会えたのは、これのおかげ?」
占いの類は依存するほど信じていた時期もあったが、占い師の放つスピリチュアルな発言には懐疑的だった。「波動が……」とか「チャクラによる……」とかいったアドバイスは信用していなかった。でも、蛍が渡してきた栞には、不思議な力が宿っていないと思う理由が、見つからなかった。栞をカバンにしまうことができない。今手を離したら、なにかが終わってしまうような気がした。
「でも、連絡先を聞きそびれちゃったの。どうしてもまた彼に会いたかったから、なんとかしてあのお婆さんに会って、もっとプリムラの花をもらおうと思ってたら、あの桜屋にたどり着いていたってわけ」本條がぽかんとしていることに気づき、杏は慌てて先日の出来事の話を終えた。
「それで、その重慶とかいう人のことが、まだ好きなんですか?」本條は曖昧に何度か頷いて言った。
「好きとは?」
杏がきょとんとして尋ねると、本條は怪訝な顔で聞き返した。「つまり、恋愛感情を抱いているんですか?」
恋愛感情という言葉自体、久々に聞いた気がした。高校時代の重慶に対する気持ちは、憧れなのだとずっと思っていた。「憧れと恋愛感情って、なにが違うんだろうね」
「そんな中学生みたいなこと言わないでくださいよ」本條は苦笑いした。
重慶を前にして言葉が出なかったのは、恋愛感情があったからだろうか。それとも、憧れの人に思いがけず出会えたからだろうか。
「でもさ、さっきおまじないをかけてもらったこの花を見てるとさ」さっき花屋で買ったプリムラの鉢を手に取った。色はないけれど、なんだか心が癒されるような気がした。「また会える気がするんだよね、彼と」
そう信じていないと、杏は息ができなかった。
4
プリムラの花言葉は青春の恋だと花屋の店主は言っていた。
「ってことは、杏さんの重慶さんに対する気持ちは恋だったってことですかね」
カウンターで仕事をしている店主に本條は声をかけた。
「どうだろうね」花束を作りながら店主は呟いた。「そんなことより、君がまた来てくれて嬉しいよ」
「杏さんの話は本当なんですか? 蛍さんからもらった栞のおかげで、かつての憧れの人に会えたって」
今日も深夜だからか、店内に客の姿はない。相変わらずモノクロの店内は、店主と本條しかいない。蛍はきっと営業に出ているのだろう。
「さあね」今し方作り終わった花束の持ち手にリボンを巻いて、店主は次の花束の制作に取り掛かった。「おまじないなんて、人の捉え方次第だよ。その人が栞のおかげだと言うならそうだし、たまたまだって言うならそうなんだろう。ほら、暇ならそこに生けてある花を色とか大きさのバランスとかみて持ってきて」
こき使わないでくださいよと不貞腐れながら、本條はモノクロの花を二、三本ずつ手に取って店主に渡した。
「こんばんは」
明朗な声が店内に響いた。本條が振り向くと、そこには満面の笑みを浮かべた杏が立っていた。「あれ、本條さんも来てたんだ。この前は話を聞いてくれてありがとうございました」
そう言うと杏は嬉しそうにカウンターに駆け寄り、店主に詰め寄った。
「先日ここで買ったお花のおまじない、すっごい効き目ですね!」
興奮を隠そうともしない杏の言葉に、本條は手に持っていた花を落としそうになった。「あれからまた重慶さんに会えたんですか?」
杏は首を何度も縦に振った。店主はなにも言わず、相変わらずせっせと花束を作っている。
「本條さんに話を聞いてもらった次の日、出勤したら重慶くんが職場に来たの!」
聞くと、杏は駅前のクリニックで医療事務をしていて、そこに患者として重慶が来院したらしい。
「彼、最近この街に引っ越してきたんだって。だからってわたしが働いてるクリニックに来るなんて、こんなの運命としか思えないでしょ?」そのときのことを思い出しているのか、うっとりとした表情で杏は言った。
「それで」本條は抱えていた花を一旦カウンターに置いた。「なにか進展があったんですか?」
その言葉に杏は目を輝かせて本條に迫った。「それがね、その日退勤したら重慶くんがクリニックの前で待っててくれたの! そのあと一緒にご飯を食べに行ったのよ」
「待ってた?」本條は思わず聞き返した。
重慶は杏の退勤時間などわからなかったはずだ。それなのに職場の前で待つのはなかなか覚悟のいることだろう。それに、高校時代の知り合いとはいえ、あまり親交があったわけでもない人を待つことなどできるのだろうか。待つとしても、それはなんのためだったのだろう。
杏は構わず話し続けた。「それでね、おしゃれなお店を調べておいてくれたみたいで、すごく大人っぽい雰囲気のフレンチレストランに連れて行ってもらったんだよ」
「おしゃれなお店を事前に調べた?」再び本條は聞き返した。高校時代にろくに話したこともないような同級生のためにおしゃれなフレンチレストランを事前に調べるなんてこと、するだろうか。
「仕事終わりにそのまま行ったから、服もカジュアルだったしメイクもだいぶ崩れてたんだけど、彼、文句も言わずに楽しそうに食事をしてくれたの。上品な料理を食べてる彼、とっても素敵で見惚れちゃった」
会ったこともない男を頭に思い描いて、本條は尊敬とも嫉妬ともつかない感情を抱いた。そんな男になりたかった。重慶のような男だったら、自分も三十路とはいえアイドルとして人気になっていただろうに。
「それから大衆居酒屋に行ってお酒も飲んだのよ。そこで昔の話に花が咲いて、また会おうってなったの。これってやっぱりこのお店のおまじないのおかげじゃない?」
「おまじないの力を引き出すのは、あなた次第なんですよ」店主がぶっきらぼうに口を開いた。「おまじないも、しょせん花言葉の力を引き出しただけにすぎません。花言葉は、花言葉として認識されなければそもそも意味をなさないのですから」
本條は店主を見た。ファンタジーな魔法を使っておきながら、急に現実的なことを言い出す店主に違和感を覚えた。杏も同様だったらしい。不思議そうに店主を見ている。
「その気持ちをどう扱うかは、あなた次第ですよ。花言葉はね、その人が信じた分だけ効く。でも、効く方向は、その人にしか決められない」
「は、はあ……」杏は神妙に頷いたが、いまいち店主の言っていることを理解しかねているようだ。
店主は気にも留めず、せっせとまた新たな花束を作り始めた。
「わたし、ずっと彼のこと忘れられなかったんです。だから恋愛もまともにしてこなかった」ぽつぽつと杏が呟き始めた。「重慶くんと会ったとき、胸がぎゅってなったの。また会えたからこそ、もう彼の背中を見ているだけなのは嫌なの。彼と対等に話したい」
「そうですか。まあ、僕はなにも言いません。すべてあなた次第なんですから。その代わりといってはなんですが、これ、プレゼントです」店主は作ったばかりの小ぶりな花束の一つを杏に手渡した。「この子たちにはおまじないはかけていませんが、あなたの前途を祝して」
白や黒、様々な濃淡のグレーの混じった花が小さくまとめられている。
「わあ、ありがとうございます」
また来ますと言って、杏は満面の笑みを残したまま店を後にした。その足取りは誰が見てもごきげんそのものだった。
「俺にもくださいよ、おまじないのかかった花」杏の軽快な後ろ姿を見送りつつ、本條は店主にぼやいた。「俺もアイドルとして成功したいっす」
「巽くんさあ」店主はあからさまに大きくため息をついた。「そういうのは自分で努力しないと」
それはそうだ。そんなことはずいぶん前からわかっていた。成功した人はたいてい努力家だ。ランプの魔神の魔法のおかげで王子になれたとしても、それは仮初めにすぎない。いずれぼろが出る。そんなことはわかっている。しかし、努力を続けるのには体力が必要だ。精神力が必要だ。そしてなにより、続ける覚悟が必要だ。そんなもの、持ち合わせていない。
「君が本当にアイドルとして成功したいと思っているなら、考えてあげないこともないけどね」
「なりたいですよ、そりゃ」本條は食い気味に答えた。
「果たしてそれは、本当かな?」
店主の言葉は、その後の本條の頭の中を堂々巡りさせた。深夜練習から帰るたび、その店のぼんやりとした明かりが目に入る。それが目に入るたび、その煌びやかな店内に足を踏み入れずにはいられなかった。疲れた心が、桜屋に近づくにつれて暖かくなるように思われた。
「いらっしゃい。今日も来てくれたんだね」
いつもなにも買わないのに、店主は歓迎してくれる。彼の心の中はいざ知らず、それでも追い出そうとする素振りがないのはありがたかった。
「今日も蛍さんはいないんですね」
「蛍さんは忙しいからねえ」
店主は白い花と黒い花を何輪か携えてうろうろしている。毎日のように入り浸っているせいか、カウンター内には本條用の椅子も用意されていた。本條はそこに座って吹きさらしの店の外を眺めていた。「今日もお客さん来ないですね」
本條はコートの襟をぎゅっと締め、肩をすぼめた。
「余計なお世話だよ。むしろこんな時間に花屋に来る人の方が珍しいさ」ちらっと本條の方を見ながら店主は呟いた。「それに、冬に花屋に入り浸るんだったら使い捨てカイロを持ってくるべきだね」
そんなくだらないやりとりをしていると、女性のヒールの音が聞こえてきた。
「もしかして、今日も本條さんがいるのね」
「もしかして、今日も来たんですね」本條は椅子に座ったまま杏に苦笑いした。
「いらっしゃいませ」店主は花を手にしたまま言った。
「店長さんも、こんばんは」杏は上機嫌に店主に挨拶をしたあと、本條に向いた。「アイドル活動は順調かしら?」
「順調だからここにいるんすよ」本條は肩をすくめた。
「それならよかった」杏は楽しそうにカウンターに近づいた。「実はね、わたしも順調なんだ」
順調。それはきっと重慶とのことを表しているのだろう。杏は口元のにやつきを隠そうともしない。浮かれているのが目に見えてわかるのが鼻についた。
「あれから彼ね、わたしが勤務している日はいつも職場の前で待っていてくれるようになったの」
「いつも?」
本條が首をかしげているのも気にせず、杏は続けた。
「彼、わたしのことを特別に思ってくれているみたいなの」
「ちょっと待ってくださいよ」本條は椅子から立ち上がった。「お二人は付き合ってるんですか?」
「まだよ。だけどね」杏はまんざらでもないように照れた表情になった。「彼、すごくわたしに気を遣ってくれるの。だって、高校のときにほとんど話したこともないわたしに、いまさら気を遣うなんて、普通じゃないでしょ?」
重慶という男の行動は本條の持つ常識を超えていた。「そりゃあ普通ではないと思うし、むしろ怪しくないっすか? ……ね、店長?」店主は相変わらず聞いているのか聞いていないのか、鼻歌を歌いながらダークグレーの花を手に取っている。本條は店主に共感を求めることを諦めた。
「だけど、せっかく憧れの人に再会できたわけだし、こんなにわたしのことを必要としてくれる人なんて他にいないから、だからね」杏は切ない顔を本條に向けた。「わたしは重慶くんに嫌われたくないの」
「巽くん、無理しちゃだめだよ」杏が帰ったあと、店主は本條に温かいお茶を出してくれた。その声は少し遠く聞こえた気がした。
5
春になった。冬の厳しい寒さが和らぎ、世界がほんのりパステル調に色づき始めた。
本條は丸一日の休日に戸惑っていた。本来なら他のメンバーと差をつけるべく、休日も歌やダンスの練習をすべきなのだろうが、そんな気は起こらなかった。なんとなく桜屋に足を向けると、まだ日は高い位置にあるのに店は開いていた。
「夜しか開店してないのかと思ってました」
店主は相変わらずきれいに着物を着こなして、楽しそうに花の世話をしている。今日は珍しく蛍もいた。彼女はせっせと花を選りすぐっている。
「このお店って定休日とかあるんですか?」本條は何の気なしに聞いた。
「んー、今のところ、ないかな」店主がにこにこしながら答えた。
本條は驚いて聞いた。「じゃあ店長も蛍さんも、いつ休んでるんですか?」
店主も蛍も、変わらず微笑みを浮かべたまま、なにも言わなかった。
小さい子どもを抱えた女性がゆっくりと店内に入ってきた。その後ろには中学生くらいの少年もいる。女性に抱えられた女の子は色とりどりの花を見回しながら目を輝かせている。
「おかあさん、あかって、どれー?」
「いらっしゃいませ」店主が女の子に声をかけた。「赤いお花が見たいの?」
店主に話しかけられ、女の子は急いで母親の胸に顔を埋めた。店主は少し困った様子で本條に助けを求めた。「怖がられちゃったかな」
「そりゃあ、そんな着物着て、白い長髪をなびかせてたら、大人の僕でも驚きますよ」
本條がおどけて笑うと、二人の様子を見ていた少年が楽しそうに笑いながら女の子を覗き込んだ。「朱里、大丈夫だよ。この人は怖くない。ここのお花のこと、なんでも知ってる人なんだよ」
その言葉を聞いて、朱里は恐る恐る顔を上げて上目遣いで店主を見上げた。「なんでも、しってる?」
店主はゆっくりと朱里の前にピンクのバラを差し出した。「これが、赤だよ」
店内が一瞬静まり返った。少年が困った顔を本條に向けた。少年の言わんとしていることはわかる。
「店長、それ、赤じゃなくてピンクですよ」
店主が数度目を瞬かせた。そして納得したように笑った。「ああ、そうだね」
店主はもう一度バラを朱里に差し出した。「これは、今はピンクだけど、夏になると赤く見えるんだ」
そう言って、店主はなにも言わずにそのバラを蛍に渡した。蛍は受け取るなり、いそいそとそのバラの茎を切り落とし、あっという間に栞にして店主に渡した。店主がその栞を朱里に渡した。「夏が楽しみになるおまじないをかけておいたからね」
朱里はうれしそうに栞を受け取った。「ありがとー!」
「ありがとうございます。おいくらですか……?」母親が慌てて尋ねた。
「いりませんよ。朱里ちゃんが花を好きになってくれたら、それでいいんです」
母親は申し訳なさそうに頭を下げたが、なにか思いついたように口を開いた。
「実は、もうすぐ朱里の誕生日なんです。それで、息子といろいろ考えたのですが、いろんな色の花で部屋をいっぱいにしようってことになって……ね?」
母親から目を向けられ、少年は照れたように口を開いた。「朱里はまだ色をあんまり知らないから」
店主は少年に向き直った。「君、名前は?」
「翔、です」翔は照れながら答えた。
「そうか、じゃあ、翔くんの好きな色は何色?」
虚をつかれたように、翔が目を丸くした。「え、いや、俺じゃなくて朱里の誕生日なんですけど」
店主は頷いた。「お兄ちゃんの好きな色、朱里ちゃんも気になると思うよ」
翔は少しはにかみながら答えた。「青、です」
「青い花かー」店主は楽しそうに店内の花に目を向けた。
花と言われたら暖色系しか思い浮かばない。青い花なんて聞いたこともない。そんな本條の心配とは裏腹に店主は続々と花を選び抜いていく。水色や薄紫と、店主の腕の中にどんどん花が溢れていく。それ以外にも、黄色やピンク、白といった色とりどりの花が追加された。
「はい、巽くん、これ持って。あとこれも。あとはー……これとかもどうかな」
最終的には翔や本條の腕に花を抱えることになった。その様子を見て、母親は目を丸くし、朱里は目を輝かせていた。
結局その花をすべて購入した母親の後ろを、本條と翔は大量の花を両腕に抱えてついていった。母親に抱えられた朱里は無邪気に二人の抱えた花を指して「これはなにいろ?」「そっちはなにいろ?」と楽しそうに聞いている。そのたびに翔も声を弾ませながら「これはオレンジ」「こっちは水色」と答えた。
途中の河原の土手で四人は休憩することにした。淡いオレンジ色の太陽はまもなく地平線に沈もうとしている。朱里はしゃがんで、地面に置かれた大量の花をまじまじと見ている。その様子を母親は目を細めて眺めていた。本條は翔の隣に腰を下ろした。河原から吹く風が本條の頬を撫でる。
「翔は何年生なの?」
「中二です」翔が淡々と答える。
中学二年生となにを話せばいいのだろう。「部活とか入ってないの?」
「陸上部に入ってます」
「へえ。ということは足が速いんだ?」
「陸上部は全員足速いって、それ偏見ですよ」翔が苦笑いした。「でも俺は短距離専門なので一応足は速い方ですけど」
気恥ずかしそうに翔が俯くのを見て、本條は微笑んだ。思春期とはいえ、素直な反応には好感が持てた。
「あれ? 本條さん?」
頭上から聞き覚えのある女性の声が聞こえた。本條が顔を向けると、そこには杏が控えめに土手の上から手を振っている。
「杏さん! こんなところでなにしてるんすか?」
杏は本條の隣にいる翔に軽く会釈をしたあと、その傍らに広がっている大量の花束を見つけ、目を丸くした。「なに、この大量の花」
「じゅりの、おたんじょうびの、おはななんだよー」朱里が無邪気に言った。
「へえ。じゅりちゃんのお花、きれいだね」杏は朱里を見て言った。「じゃあ、お姉ちゃんもこのお花運ぶの手伝っちゃおうかな」
日が暮れると、さすがに肌寒く感じる。本條と杏は両手いっぱいに花を抱えた。朱里は翔と母親の手を握って楽しそうに歩いている。
「杏さんは、なんでこんなところにいたんですか?」本條は視界を遮る大量の花の隙間から必死に自分の足元を確認しようとした。
杏も顔を覆う大量の花に苦戦していて、本條の質問どころではなさそうだった。
「ここ、じゅりのおうち!」
足元ばかり見ていたから、いつの間にか目的地に着いていたことに本條は驚いた。顔をあげると、今どきのクリーム色の漆喰壁のおしゃれな家がひっそりと建っていた。前が見えずともすいすい歩いてこられたのは、裏路地とはいえ、人も車もあまり通らない広々とした道路を歩いてきたからだと気がついた。住宅が密集しているわけでもなく、適度にそれぞれの住宅スペースが確保されていて、息の詰まる感覚がない。塀があるわけでもないから、開放感もある。道路に面した中庭に向かって小さな縁側が張り出していた。
本條と杏は運んできた花をそっと縁側に置いた。サッシ窓からリビングが見えた。誕生日当日はここを飾りつけるのだと、朱里は自慢げに話してくれた。
「あんなにいっぱいお花に囲まれて誕生日を過ごせるなんて、じゅりちゃんって子、幸せだね」
帰り道、杏は言った。その言葉は、すでに日のくれた路地に吸い込まれた。本條は朱里たちの家を振り返った。誕生日まで、あと何日なんだろう。
6
春だというのに、誰も花を買いに来ない。
本條は店のカウンターに頬杖をつきながら、店の外を行き交う人々をぼんやり見ていた。
「今日はお休みかい?」店主が花の世話をしながら本條に声をかけた。
「今日は貴重な休日です」
「みんなが休んでいる間も練習した方がいいんじゃない?」
普段忙しいことを強調したが、店主には通じなかったようだ。あまりにも耳が痛い話に、本條は顔をしかめた。そうすべきことは本條にもわかっているが、毎日、なんならライブ終わりにも練習している身からすると、一日ゆったり体を休める日も必要だろうと言い訳を重ねている。罪悪感がないわけではない。
「まあ、君が今日休んでくれたのは、こちらとしても都合がいいんだけどね」
店主が本條に向いて意地悪な笑みを浮かべた。そうかと思えば、迷いなく数本の花を抜き出し、それぞれを花束にまとめ出した。
「暇そうな本條くんにお願いがあるんだ。営業活動中の蛍さんにこの花を渡してきてほしい」いくつかの花束を抱えた店主が本條に言った。
「蛍さんは今どこにいるんですか?」やる気のない声で本條は聞いた。
「南町二丁目あたりかな」店主が花束をよこしてきた。「よろしく頼んだよ」
「そんなざっくりな……。蛍さんってスマホ持ってるんですか?」
「そんなもの持ってるわけないでしょ」店主は声に出して笑った。「大丈夫。適当に歩いていれば、蛍さんの方から君を見つけてくれるから。だからほら、行った行った」
半ば強引に本條は外に追いやられた。せっかくの休日なのに働かされるなんて。しかし、暇であることには違いない。ぶつぶつ言いながら店主から花束を受け取り、本條は南町二丁目に向かった。
店主から預かった花束をそっとのぞくと、小さい紫色の花が包装紙全体に広がっていた。ふわっとほのかに甘いフローラルの香りが鼻をくすぐった。店主にこき使われていることは気に食わないが、なんだか少し癒された気分になった。
適当にふらふらと街を彷徨う。時折そよぐ風が手元の花束を揺らす。そのたびに甘く上品な香りがふわりと舞った。足の向くまま歩いていると、いつの間にか目の前に蛍が立っていた。
「わ!」本條は思わず声を上げた。「驚かさないでくださいよ」
蛍はなにも言わずに微笑みを浮かべたまま本條の前に立っている。本條はあからさまに大きくため息を吐いて花束を蛍に差し出した。
「これ、店長からお使いを頼まれた品です」
蛍はそれを受け取り、ゆっくり頷いた。
「ありがとう。お礼にこれを」
蛍は、受け取った花束の中から一本抜き取って本條に手渡した。
「この花は、タイム。花言葉は、勇気」
それだけ言って、蛍はどこかへ行ってしまった。白杖を持っていないのに力強く歩く様は、目が見えないのが嘘なのではないかと思ってしまうほどだ。
本條は渡されたタイムの花に目を向けた。「勇気、か」
店に戻ろうと踵を返した瞬間、甘く上品な香りが強く鼻を刺激した。この香りは、タイムの香りだ。だが、本條が持つたった一本のタイムからこんな強い香りがするとは思えない。本條は立ち止まって周囲を見回した。
見覚えがある家があった。つい数日前に来たばかりだから覚えている。翔の家は、サッシが開け放たれている。室内は花いっぱいに飾り付けられていた。そうか、今日が朱里の誕生日なのか。たくさん花が飾られているのに、タイムの香りだけを感じられたのは、きっと直前まで嗅いでいたタイムの香りに鼻が慣れていたからだろう。その中に、わずかに鉄臭さが混じっている気がした。
ふと、本條は違和感を覚えた。サッシが開いているわりに、室内はしんと静まり返っている。誕生日であれば、朱里が大喜びして部屋を駆け回っていそうなものだ。
本條は部屋の中をよく見た。色とりどりの花の中に、一人の男がこちらに背を向けて立っているのが見えた。ベージュのトレンチコートを着ている。癖のある髪はおしゃれにも見えた。男の左手には花束が握られていた。その中で、パステルカラーの花々が見事に咲き誇っている。床には、不自然にピンク色の水たまりが広がっていた。それが血だと気づくまで、少し時間がかかった。その先に、見覚えのある服が見えた。翔と朱里の母だった。
「え」本條の思考が一瞬にして止まった。なにが起こっているのか、頭が回らない。倒れている彼女から視線が離れない。
はっとして本條は部屋中に目を向けた。翔と朱里はどこにいる? 目を凝らすと、二人とも男に対峙する形で、真っ青な顔で座り込んでいた。
7
翔の体は、まるで金縛りにでもあったかのように固まって動かない。呼吸さえできない。耳鳴りがする。春のはずなのに、周囲がモノクロに見える。傍らに倒れた母は、胸や腹からピンク色の血を流して、もう動かない。
今日は朱里の誕生日パーティーだった。みんなで部屋中に花を飾って、母が作ったケーキや料理を囲んで、楽しい時間を過ごすはずだった。朱里はお気に入りのピンクのワンピースを着て、うれしそうに部屋中を駆け回っていた。母はそれをたしなめていたが、どこかうれしそうだった。
そんなときだった。道路に面したサッシから荒々しく一人の男が入ってきた。整った顔つきは、色白というより青白く見え、切長な目はどこか虚ろだった。愛想よく笑う口元に似つかわしくなく、手元には包丁が握られていた。男は靴のまま部屋に踏み入ってきた。母はキッチンから飛び出してきて、翔と朱里を背中に隠した。男はなにかよくわからないことを口にしながら、突然母を刺した。刺し続けた。そのたびに、ピンク色のしずくが飛び散った。床についた左手に、母から流れ出る温かい液体が触れた。
翔ははっとした。朱里を守らなければ。隣にいる朱里に目を向けると、朱里は声を殺して震えている。妹を守りたいのに、恐怖で体が痺れている。血の気がどんどん引いて、今にも気が遠のきそうだった。男のくせに、なんでこんなに意気地がないんだと、翔は下唇を噛んだ。
そのとき、玄関の方からがちゃがちゃと乱暴な音が聞こえた。無理やりドアを開けようとしているのだろうか。この男の仲間か? 幸い玄関の鍵は閉まっている。しかし、庭に回れば、開いたサッシに気づくだろう。どうか気づかないでくれ!
翔の思いもむなしく、駆けてくる足音がどんどん近づいてくる。翔は朱里を思い切り抱きしめた。
「翔! 朱里!」
開け放たれたサッシから、本條が飛び込んできた。本條は、男に目もくれず翔の手を取り、朱里を脇に抱えた。突然の本條の乱入に、男は目を怒らせて、奇声を発しながら包丁を振り回し始めた。
「走れ!」
本條の声が聞こえたと同時に、翔の手がぐんと勢いよく引かれた。引かれるままに足が前に進む。本條の背中だけをぼんやり見ながら走るが、頭は依然として働かない。ずっと靄がかかったままだった。どうして、母や朱里や俺がこんな目に合わなきゃならないのだろう。考えても考えても、その問いは形が崩れて滲んでいく。
「翔!」
息を切らした本條の声が耳に届いた。
「しっかりしろ! お前、スマホ持ってんだろ! 救急車! 早く、呼べ!」
本條の言葉で、急に頭が回り始めた。ポケットのスマホを取り出そうとするが、走っているうえに、手に力が入らなくてなかなか取り出せない。やっとの思いでスマホを取り出すが、視界がぼやけて画面が見えない。翔は首を振って、涙と邪念を払おうとした。今は一刻も早く母を救わなければ。震える指で救急に電話をかけた。呼び出し音が鳴らないうちに、電話がつながった。その瞬間、一瞬だけ、息ができた気がした。
「消防ですか? 救急ですか?」
「あ……」助けを求めようとするが、喉が詰まって声が出ない。伝えたいことが濁流のように押し寄せてきて、なにを伝えるべきかわからない。「母が……母が刺されて……」
先ほどの光景が脳裏に蘇ってくる。虚ろな目の男。手に握られた包丁。ピンク色の鮮血。声を殺して震える妹。
「住所!」
翔は本條の声を聞いて、反射的に自分の家の住所を伝えた。思った以上に自分の声が掠れており、しかも震えていることに驚いた。再び涙で視界が滲み始めた。
「もういいから! 走れ! 陸上部なんだろ!」
本條がさらに強い力で翔の手を引いた。涙が後ろに流れていく。自分のしゃくり声が耳に届いた。お兄ちゃんなんだからしっかりしなさいと、母のやさしい声が頭に響いた。翔は鼻をすすって必死に本條に食らいついた。
河川敷に着いた。本條は芝生の上にそっと朱里をおろした。本條は翔の手を掴んだまま、振り返った。しかし、特に言葉を発することもなく、彼は朱里の前に腰をおろした。翔も続いて朱里の隣に座った。無意識にぽろぽろと涙が溢れる。不意に本條が二人を抱きしめた。本條の体温が伝わってくる。本條の心臓の音が聞こえてくる。少しだけ、心がほぐれた。そのとき、堰を切ったように朱里が声をあげて泣き出した。翔の目からも涙がとめどなく溢れ始めた。遠くの方で、救急車とパトカーのサイレンが響いていた。まもなくあの男は拘束されるだろう。心の端が少し安心した感覚を覚えた瞬間、後方を一台のパトカーが凄まじいスピードで通りすぎた。そしてすぐに停車したかと思うと、二人の警察官が飛び出してきた。
「君たち!」
向かってくる警察官たちは鋭い眼光を三人に向けていた。ひとりの警察官が本條の靴に目を向けた。翔も釣られて本條の靴を見ると、そこにはピンク色の血がべっとりと付着していた。もうひとりは泣きじゃくる朱里に目を向けた。
「通報が入ってね、少年と少女を誘拐した男がこの辺を逃げているとのことなんだが、君、ちょっと話を聞いてもいいかな」
本條に任意同行を求めているようだったが、その物言いは有無を言わさぬものだった。
8
「ねえ、これって一体……」
杏は震える声で言った。部屋の中の凄惨な様子に言葉を失う。
「これ? 杏と幸せに暮らすための最初の一歩だよ」
重慶はにこりと笑って、まるで汚いものでも払うかのように包丁を振ると、切先についていた血が飛び散った。
たくさんの花で飾り付けられた美しい部屋には、そこに似つかない女の死体が転がっていた。無惨にも複数の刺し跡がある。
この女のことを、杏は知っていた。この家だって知っている。そもそも、わたしはここに来たことがある。部屋中に飾られた花は、わたしが運んだ。杏は全身から血の気が引くように感じた。
「あの子たちのお母さん、死んでるの?」
「んー、まあ、これだけ刺されていたら死んでいるよねえ」他人事のように重慶はつぶやいた。「お金が欲しかっただけなんだけどなあ」
杏は目を剥いた。「お金が欲しかったからって……」
その言葉に重慶が声色を冷たくした。「だから、なに? 僕に意見するの? 君が?」
重慶のその射るような目つきに、杏は押し黙るしかなかった。
「僕が電話したら、飛んできてくれた。ねえ、杏ちゃん、僕は君が好きだよ」
異常な場面であるはずなのに、重慶のその言葉がやけに温かく杏の胸に響いた。世界中が敵でも、味方が一人いればいい。そんなありふれた言葉が、胸の奥にすっと落ちてきた。「ねえ、なにがあったのかはわからないし、多分これ以上聞かない方がいいんだよね」
杏は無理矢理笑顔を作った。重慶は杏の頭を優しく撫でた。
「物分かりのいい君は、もっと好きだ」
杏の中で、なにかの糸がぷつんと切れた音がした。この人のためだったら、わたしはなんでも喜んでする。わたしには、この人しかいない。
重慶はそっと杏を抱きしめた。そして、耳元で小さく囁く。「君にしか、僕を助けることはできないよ」
重慶のうれしそうな声が、また鼓膜を揺らした。そのたびに、背中にぞくぞくとした感覚が走る。杏は思わず重慶を思い切り抱きしめた。
「じゃあ、君にお願いしたいことがあるんだ」重慶は杏を引き離して言った。「警察に通報してほしい」
そんなことしたら重慶が捕まってしまう。そんなことにならないように、わたしはここにいるのに。杏の考えていることを見越したのか、重慶は杏の頭を再び撫でた。
「そうじゃない。さっき男の子がこの家から飛び出していったのを、君は見たかい?」
確かにこの家に到着する直前に、翔と朱里を連れて全力疾走している本條とすれ違った。まるでなにかから逃げているかのように見えた。「うん、知り合いがこの家の方からすごい勢いで走ってどこかに行くのを見たよ」
一瞬、重慶がほくそ笑んだように杏には見えた。
「そうか、彼は知り合いなんだね」重慶は再び杏を抱き寄せた。「そいつがさあ、この家のお母さんを刺したうえに、子ども二人を誘拐したみたいなんだ。僕はね、子どもたちを守ろうとしたんだけど、逃げられてしまったんだよ。ね? 警察に通報した方がいいだろう?」
本條さんが? そんなことをするほど肝が据わった男には見えなかった。しかし事実、彼は翔と朱里を連れ出していたように見えた。そうでなくても、重慶がそう言うのだから彼は二人を誘拐したのだろう。
「重慶くんは警察に連絡しなかったの?」杏は抱きしめられたまま、思ったことを口にした。
「うん。動揺してしまってね、君に連絡するのが精一杯だったんだ。さあ、早く。彼らに先を越される前に」
わたしは重慶にとって一番に頼れる存在なんだ。杏は再び重慶を強く抱きしめた。「わかった」
杏は重慶から離れると、スマホを取り出して一一〇を押した。すぐにオペレーターが電話に出て無機質に告げた。「事件ですか事故ですか」
「緊急なんです。子ども二人が誘拐されました」
杏は精一杯、重慶から言われたことをオペレーターに告げた。そして自分の行いが正しいと信じた。電話を切ると、重慶はうれしそうに杏を見つめていた。その視線が杏の心をぎゅっと掴んでくる。
「次はね、はい」
重慶が、持っていた刃物を杏に手渡してきた。杏は思わず受け取った。持ち手は重慶の温もりが残っている。なにか重大で、もう戻せないバトンを受け取ったようだった。
「僕はシャワーを浴びてくるから、少しの間それを預かっておいて。この女の血で体中ベトベトなんだ」そう言って重慶は女の死体を蹴飛ばして、土足のまま浴室の方に向かって行った。
その場に残された杏は、しばらく呆然としていた。急にいろいろなことが起こって、なにがなにやら頭が追いつかない。だけどわかったこともある。わたしは重慶に必要とされている。杏はにやける口元を手で押さえた。
シャワーの音が聞こえてくる。とてもなまめかしい状況はずなのに、目の前に転がる死体のせいで興がそがれる。
遠くでパトカーのサイレンが聞こえた。今頃警察は本條を探していることだろう。いや、むしろもう捕まっているかもしれない。
「ごめんね、本條さん」思ってもいないことをつぶやいて、杏は手元の包丁をじっと見つめた。
そのとき、数人の警察官が家の前を通りかかった。彼らは杏と目が合うなりぎょっとして、肩に着けていたトランシーバーに向かって大声で捲し立てていた。ああ、今はあまりいいタイミングとは言えない。凶器であろう包丁を握っているし、当事者である重慶もこの場にいない。自分に説明できることなど、先ほど重慶が話してくれた断片的なことしかない。
「そこを動くな」トランシーバーに捲し立てていた警察官が片手でこちらを制しながら、じりじりとにじり寄ってくる。「凶器をゆっくりと床に置きなさい」
杏は包丁を床に置いた。その瞬間、警察官たちが部屋に飛び込んできた。杏は飛びかかってきた警察官たちに思い切り床に押し倒された。全力で体をよじるも、まったく身動きが取れない。
「もう一人、男の仲間がいるだろう。そいつはどこにいる」一人の警察官が大声で怒鳴った。
男の仲間とは、重慶のことを指しているのか。本條か翔が通報したのだろう。シャワーを浴びている彼のことを守らなければ。
ふと、杏は浴室からシャワーの音がしていないことに気がついた。なにも知らない彼がリビングに来てしまったら間違いなく拘束されてしまう。そのとき、警察官の一人が、もう一人の警察官に指示を出すのが聞こえた。
「家の中を探せ。どこかに仲間が隠れているかもしれない」
杏の心臓が激しく鼓動を打ち始めた。心の中で重慶の名前を何度も叫んだ。彼に見つかってほしくない気持ちと、そばにいてほしい気持ちがないまぜだった。
家中を探し終わった警察官が報告した。「他には誰もいませんでした」
9
「まったく。事情聴取、大変だったんですから」
真っ青な空に蝉時雨が響いている。扉がないとはいえ、桜屋にも一応冷房はついていた。この炎天下、外を歩いているより店内にいる方がだいぶましだった。あれから、店内にはタイムの花が置かれなくなった。タイムの花の香りを嗅ぐと、あの凄惨な現場と血の匂いが頭をよぎってしまうため、本條にとっては救いだった。
警察に任意同行を求められた本條は、警察署に連行された。靴についた翔の母の血痕と、泣きじゃくる朱里の様子から、誘拐犯だと疑われていたらしい。しかし、翔が必死に証言してくれたことと杏の逮捕により、長く勾留されたわりにはあっけなく解放された。
結局、翔と朱里の母を殺害したのは杏だと知らされた。翔が目撃した男について、警察も捜査したはずだが、結局その男の行方はわからないままだった。
「翔たちのお母さんを殺したのって、重慶さんだと思うんですよね」
そもそもあの場にいなかった杏が逮捕されるのは不自然だ。杏についても、自分が無実なのであればそれを主張すべきなのに、あっさり罪を認めたらしい。それも恐ろしく素直に。
「彼女の方も大変そうだったよ」店主が興味もなさそうに言った。
「彼女って?」店主が反応してくれるとは思っていなかったので、本條は面食らった。
「杏さん」店主はこの猛暑にも関わらず、汗の一滴も流していない。しかしその顔色は悪く見えた。「警察に連行されるとき、すごい勢いで重慶の名前を叫んでいたらしい。『重慶くん、なんで』って」
本條は怪訝な顔で店主を見た。「なんでそんなこと知ってるんですか」
店主はにこにこ笑いながら言った。「なんでって、蛍さんが教えてくれたんだよ。巽くんだって、あの辺で蛍さんと落ち合ったでしょ?」
それはそうだが、蛍がそんなゴシップに興味があるとも思えない。本條が不思議に思っていると、女子高生がおずおずと店に入ってきた。制服からして地元の高校に通っているのだろう。
「いらっしゃいませ」店主は柔らかい笑顔で言った。
女子高生は気まずそうに小さく会釈してから店内を見回した。
「なにかお探しですか?」店主は女子高生の背後から、相変わらず愛想よく微笑んで言った。
女子高生の肩が跳ねた。そして怯えたように店主を見返した。「あ、えっと……」
そのとき本條は、店主の顔から一瞬表情が消えたのを見逃さなかった。しかし、店長はすぐにいつもの調子で「どれどれ」と言いながら花を選び始めた。
「君には、この花とこの花、それからこの花が必要なのかな」
店主の手には、赤黒いユリとマリーゴールド、そして花びらが丸く白い花が数本ずつ握られている。
「ユリとマリーゴールドは見たことあるんですけど、その白い花は初めて見たな」本條が呟くと、店長は低い声で言った。
「スノードロップ。本来は春の訪れを告げる花なんだよ。今はもう夏だけどね。花言葉は、希望」
女子高生は幽霊でも見たような顔で店主の持つ花々を凝視していた。「なんで……」
「なんで欲しい花がわかったかって? この花たちが、君を選んだんだよ」
女子高生はごくりと息を飲んだ。「その花、全部ください」
店主はゆっくりと口を開いた。「おまじないは必要かな?」
女子高生は、ためらいながら頷いた。すると、店主は悲しそうに微笑みながら、右手を広げた。小さな光が生まれ、そしてそれは花々に吸い込まれていった。美しいその儀式も、なぜか気味が悪く見えた。
両手いっぱいに花を抱えて女子高生は店を出た。その後ろ姿を、本條はしばらく眺めていた。なにか落ち着かない。「……希望、か」
「スノードロップには他の花言葉もあってね」店主が静かに口を開いた。「……もうひとつの意味は、口に出さない方がいい、かな」
「気になるなあ」本條は好奇心のままに自分のスマホでスノードロップの花言葉の意味を調べた。そこには、「あなたの死を望みます」という文字が淡々と並んでいた。
本條の背筋が一気に凍りついた。「は……ははは、まさか」
店主は一瞬、哀しく笑った。
「でも、ほら、花言葉ってたまに悪い意味もあったりしますからね。うん、あの子に必要だったのは希望の方だった。そうに違いない」
そう自分に言い聞かせないと、震えが止まらなくなりそうだった。しかし、店主は黙るどころか無機質な声色で続けた。
「彼女の望みは、黒黒としたものだよ」
「……なんでそんな花、彼女に渡したんですか」なぜだか、沸々と本條の腹に怒りが湧いてきていた。
「言っただろ。花が彼女を選んだんだ」
「くそ……なんでだよ。なんで見えるんですか。なんで、知ってるんですか!」
本條は店を飛び出した。彼女が向かった先に駆け出す。幸い、彼女はすぐに見つかった。本條は傍らの電柱に身を隠した。彼女がなにを企んでいるのか、知りたかった。
しばらく女子高生のあとを追っていくと、街で一番大きい大学病院の前についた。彼女はある病室の前に来ると、大きく深呼吸をした。そして、顔に作り笑顔を貼り付け、静かに病室に足を踏み入れた。
本條は病室の扉の前に静かに立った。中から怒鳴り声が聞こえた。
「病室に生花を持ってくるなんて……なんて非常識な子なの!」
「ごめんなさい。その、ひなのちゃんに、早く元気になってもらいたくて」あの女子高生の弱々しい声がかろうじて聞こえた。
「こんな常識のない子がひなののお友達だなんて! 早く帰ってちょうだい!」
「まあまあ、お母さん。雪子に悪気はなかったんだよ。せっかく買ってきてくれたんだもん、飾ろうよ。それに花があるだけでも気が紛れるし」
明るい声が聞こえてきた。どうやらあの女子高生雪子は、友人であるひなののお見舞いに訪れたのだろう。
「それにしても、『あなたの死を望みます』って……?」本條は人知れず呟いていた。
10
あの子のことが、心底嫌いだった。わたしの前からいなくなってほしいと、ずっと思っていた。
わたしに持っていないものを全部持っていて、誰からも好かれて、注目を全部奪っていく。天使のように周囲に笑顔を振りまく彼女を、許せなかった。
紙野雪子が葛樹ひなのと話すようになったのは、高校に入学してすぐだった。同じクラスで、出席番号も近かったことから、仲良くなるのに時間はかからなかった。初めは、こんなにかわいい子と仲良くできるなんてラッキーと思っていたが、一緒にいるうちにその気持ちはどんどん薄れていった。むしろ息苦しさすら覚えるほどだった。成績も優秀で運動もできて、いつも楽しそうに笑っている彼女が、クラスどころか学校中の人気者になるのは自明だった。
登下校も、昼休みも、移動教室も、いつもひなのと雪子は一緒だった。休みの日もよく二人で街に遊びに出かけた。一人でいるくらいなら、ひなのといた方がいいと思っていた。
しかしひなのの隣を歩いていると、彼女と比べられているのではないかと無意識に背筋が丸くなり、他人の目を気にしながら過ごしていた。しかし、一方のひなのはそんな雪子と一緒にいるときは無邪気に笑っている。雪子はそれが余計に気に食わなかった。
クラスメイトからは、ひなのといつも一緒にいてうらやましいと言われ続けた。ああ、この世界はひなのが中心なんだ。わたしは主人公にはなれない。そう思いつつ、「えへへ、ありがとう」と言うのが常だった。
ただ唯一、瀬名海斗だけは違った。
「紙野さん、いつもつらそうだけど大丈夫?」
その瞬間、雪子の心臓が大きく震えた。その一言で、雪子は救われた気がした。わたしを見てくれている人がいる。この人はひなのではなく、わたしを見てくれた。せめて彼だけにはわたしのことを知ってもらいたい。彼に誇れる自分でいたい。
雪子はそれから努力した。勉強も、運動も、見た目にだって気を遣った。
「最近紙野さん、なんだかイキイキしてるように見える。よかった」
その言葉に、雪子の恋心はさらに燃え上がった。彼のことは誰にも取られたくないと、強く願った。
日に日に変わる雪子を、ひなのもまるで自分のことのように喜んでくれた。でも、そんなのどうでもよかった。海斗に見てもらえたら、それでよかった。
「ねえ、雪子。好きな人できたんでしょ」ある日の昼休み、お弁当を食べながらひなのが言った。正直答えたくなかった。だけど、ひなのにだけは譲りたくない。
「実はね、瀬名くんのこと、好きになっちゃったんだ」雪子は小さく答えた。牽制の意味も込めて。「内緒だよ」
ひなのは大袈裟に両手で口を覆って、目を見開いた。「すっごくいいと思う! わたし、協力するよ! なんでも言って!」
じゃあ余計なことしないでと答える代わりに、小さく呟いた。「ありがとう」
もうすぐ一学期が終わる。パステルカラーの季節が過ぎ、季節をひとつ超えて色がパステル調になってくると、文化祭の季節になる。期末テストも終わり、二学期に実施される文化祭についての話し合いが行われた。委員長が教壇でクラスに呼びかけた。クラスの文化祭実行委員を決めまーす。
「雪子、一緒にクラスの文化祭実行委員やらない?」前の席のひなのが後ろを振り向いて言った。「それに、文化祭の係になれば瀬名くんと近づけるかもよ?」
ひなのと同じ係になるのは気が引けた。だけど、その提案は魅力的だった。雪子は二つ返事で頷いた。そうして、二人はクラスの文化祭実行委員になった。
クラスの出し物を決める場になり、二人は教壇に上った。ひなのが進行をして、雪子は書記を務めた。黒板にみんなの意見を書きながら、目線は自然と瀬名に向いてしまう。そのたびに、頬が熱くなるのを感じた。
出し物はすぐに決まった。ひなのが楽しそうにみんなに指示を出す。
「雪子、ごめんだけど、瀬名くんと買い出しに行ってくれるかな」ひなのがウィンクした。
「あ、うん、別にいいけど」雪子は瀬名をちらっと見ながら答えた。
「わかった。じゃあ行こう、紙野さん」
そうやって微笑んでこちらに目を向ける海斗がきらきらして見えたのは、きっと夏のせいだからだと雪子は思おうとした。夏休みなんて来なければいいのに。この季節が終わらなければいいのに。
「紙野さんって、葛樹さんといつも一緒にいるよね」買い出しの最中、海斗が言った。
「うん」ドキドキしながら雪子は頷いた。
「葛樹さんって、彼氏いるのかな。いるよね、あれだけみんなから人気なんだから。いや、ごめん、聞かなかったことにして」
心臓が止まったような気がした。体中から血の気が引く。隣を歩く海斗を見ると、ばつが悪そうに頭を掻いている。ああ。好きな人も、取られた。彼が見ていたのも、やっぱりわたしじゃなくて、あの子だった。二人ともわたしの前からいなくなってくれないかな。ひなのだけでもいい。あいつがいるから、全部取られる。勉強を頑張ったって、見た目をよくしたって、なにをしたって敵わない。だったら友達なんていらない。あいつなんて、大っ嫌いだ。
夏休み、雪子は文化祭の準備を一切手伝わなかった。学校に行きたくなかった。ひなのと海斗の顔を、見たくなかった。ひなのから毎日連絡が来ていたが、全部無視した。クラスメイトにどう思われても構わない。どうせひなの一人がいれば、わたしなんていなくてもみんな気にしない。
夏休みが明けて二学期が始まった。行きたくない。海斗はひなのに告白したのだろうか。もし成功していたら? 恋人同士の二人なんて見たくない。それに、どうせ文化祭の準備を手伝わない怠け者だと、みんなから白い目で見られるだけだ。重い足を引きずって、雪子は学校に向かった。教室に入ると、みんなが心配して駆け寄ってきてくれた。ひなのから聞いたよ、体調が悪かったんでしょ。もう大丈夫なの? 無理しないで。
ひなのがわたしを守ってくれただなんて思いたくなかった。でも、少しだけ安心した自分がいた。
始業のチャイムがなった。しかし、ひなのはまだ教室にいなかった。教室中がざわめく。瀬名も落ち着かない様子でキョロキョロしている。隣の席の子が雪子に聞いた。
「ひなの、今日休みなのかな?」
雪子は首を振った。「わかんない」
スマホをチェックする。ひなのから連絡が来ていた。
『ちょっと夏バテしちゃったかも笑 しばらく休むことになりそうだから、文化祭実行委員、頼んだよー!』
雪子はほっとした。しばらくひなのの顔を見なくて済む。少しだけ呼吸が楽になったような気がした。文化祭の準備は、すでに夏休みにほぼ終わっていたため、雪子の出番はなかった。
「あの、紙野さん」海斗が申し訳なさそうに近づいてきた。「葛樹さんのことなんだけど……」
「ごめん、担任に呼ばれてるから」雪子は無理やり笑顔を作った。
雪子は教室から駆け出した。話したくない。海斗の口からひなのの名前が発せられるのが許せなかった。それからというもの、雪子はあからさまに海斗を避けるしかなかった。
文化祭が無事終わっても、ひなのは学校に来なかった。クラスでは毎日ひなのを心配する声が充満していた。この場にひなのはいないのに、ひなのの圧倒的な存在感に雪子は息が苦しかった。
がらがらと教室の扉が開き、担任が顔を覗かせた。何人かの生徒は担任に詰め寄ってひなのの安否を聞こうとしていた。担任は言葉を濁しつつ、教室中を見まわし、雪子と目が合ったところで「お」と声を上げた。「紙野、ちょっと職員室に来い」
クラス中の視線が雪子に集中した。みんなが心配そうに雪子を見つめた。雪子は戸惑いながら担任に従い、職員室に向かった。
「葛樹のことなんだがな」担任が重々しく言った。
またひなのの話。もううんざりだった。
「あいつな、今入院してるらしい」
「え」口をついて言葉が漏れた。「夏バテじゃないんですか?」
担任は困ったように頭を搔いた。「んー……どうやら検査の結果があまりよくなかったらしい。今日お見舞いに行こうと思うんだが、お前も来るか?」
行きたくない。わざわざ嫌いな人に会いにいくなんて、バカみたいだ。でも、ここで行かないと言ったら、心のない人間だと思われてしまう。「……行きます」
放課後、担任の車に乗って、雪子はひなのが入院している病院に向かった。そこは、街で一番大きい大学病院だった。担任について病院の廊下を歩く。病院なんてじっとりした閉鎖空間だと思っていたが、思いの外、開放的で明るい空間だった。いくつもの角を曲がった先にあった病室の扉を、担任がノックした。中から女性の「はい」という声が聞こえた。
担任が静かに扉を開けると、そこは個室の病室だった。少し狭い空間に、狭いベッド。そのうえに、ひなのがいた。部屋着で横になっている以外は、いつもの明るいひなのだった。担任が、傍らにいたひなのの母と思しき女性に頭を下げた。
「雪子も来てくれたんだ」あっけらかんとした声でひなのは言った。「こんな姿、雪子には見せたくなかったなー」
「夏バテだったんじゃ……」雪子は気まずそうに言った。
「うーん、違ったみたい。でも、お医者さんはすぐに治るって言ってくれたから心配しないで。ところで、瀬名くんのことなんだけど……」
雪子は息を飲んだ。「ちょ、先生もいるんだから今はやめてよ……」
担任がきょとんとしてから、納得がいったように「はは、内密の話は俺がいないときにしてくれ」と言った。ひなのは、いつものように軽く笑った。
11
空は高く、白い雲がたなびいていた。まだまだ蝉の声は止まず、暑い日が続いている。教室の冷房は外の暑さを遠ざけ、夏服の制服が爽やかな風になびく。教室にいる誰もがひなのを心配する日々。ひなのがいない分、成績は雪子がトップに躍り出たのに、誰も褒めてくれない。海斗も、ひなのの心配をしている。こちらの気なんて知らないのだろう。
死ね。自然にそう願ってしまった。なにに対してなのかもわからない。ただ、心の奥でこの二文字がくすぶっている。存在ごと、いなくなれ。
『今日、お見舞いに行くね』
ある日の登校中、知らず知らずのうちに、雪子はひなのに連絡をしていた。
学校なんて行きたくなかった。どうせわたしはひなののおまけとしてしか見られていない。そう考えながら歩いていたら、いつの間にか知らない道を歩いていた。でも、なんとなく覚えている。ここはひなのが入院している病院の近くだったはずだ。
ふと、桜屋という花屋の前で足が止まっていた。どうせならお見舞いに花でも買っていこう。桜屋に足を踏み入れると、着物姿の男性に声をかけられた。「いらっしゃいませ」
なんでこんな暑い日に着物なんて着ているのだろう。そういうコンセプトのお店なのかな? 雪子は戸惑いながら店中にある花に目を向けた。かつて祖父のお見舞いに行くとき、母に教わった。
『ユリは、病気が根付くからっていう理由で、お見舞いに持っていっちゃダメなのよ』
「なにかお探しですか?」着物姿の男性が聞いてきた。なんてことない一言に、雪子の肩は大きく跳ねた。
ユリが欲しいと言うべきだろうか。理由を聞かれたら? 学校をサボってることを追求されたら? そもそもわたしは、なにを探しているの?「あ、えっと……」
すると、男性は雪子をしばらくじっと見つめてきた。男性の目の奥は、なにもないのに、ずっと見ていたら引きずり込まれそうで、怖いのに目が離せなかった。
男性はすぐに店中を見まわして、いくつかの花を選りすぐった。その中に、黒のユリがあるのが目に入った。「君には、この花とこの花、それからこの花が必要なのかな」
花にはあまり詳しくない。だけど、男性の手に握られた花々には、惹きつけられるものがあった。目が離せないというか、心が掴まれてしまったというか、その花々すべてを欲しくなった。
「ユリとマリーゴールドは見たことあるんですけど、その白い花は初めて見たな」カウンターに座った少年がぼそっと呟いた言葉は、雪子の耳を抜けていった。もはや花の名前なんてどうでもいい。
「スノードロップ。本来は春の訪れを告げる花なんだよ。花言葉は、希望」
希望。雪子の胸にその花言葉はしっくりこなかった。その代わり、違う言葉がぼんやり靄がかかったように雪子の脳裏に浮かんだ。誰かの死を願うような、そんな感覚。わたしが求めていた花。「なんで……」
「なんで欲しい花がわかったかって? この花たちが、君を選んだんだよ」
花が、わたしを選んだ? なるほど、これほど店内にはたくさん花がある中でも、男性の手の中にある花にしか魅力を感じない。
「その花、全部ください」
「おまじないは必要かな?」夏なのに、カラフルだった男性の目から色がなくなった気がした。
おまじないは、必要だ。そう直感的に思った。でも、本当にそれが正しい選択なのかもわからない。雪子は、ためらいながら頷いた。
色のなかった男性の目に、悲しそうな色が宿った。そして困ったように微笑んで、右手を広げた。すると、手のひらから小さな光がいくつも浮かんできた。冷たいようで、温かく、美しく、そして恐ろしい、まるで闇のような光だった。その光が、男性の握られた花々に吸い込まれていった。花々は薄い光の膜をまとっている。自然とその花に手が伸びた。膜を壊さないように、ゆっくりと花を両手で抱えた。そして、無我夢中で店を出た。急いでひなのの元に行きたかった。かけられたおまじないというのがどういったものなのかわからないが、おまじないの効果を確かめたかった。
この辺の土地勘はまったくないのに、まるでなにかに導かれているかのように不思議と病院までの道がわかる。
病院についてからは早かった。担任と歩いた廊下を通り、ひなのの病室の前につくと、急に緊張感が蘇ってきた。本当にこの花を渡してもいいのだろうか。いや、もしかしたらあの男性のかけたおまじないはひなのを元気にするものかもしれない。なにも今から罪悪感を覚える必要はないだろう。雪子はゆっくり深呼吸をして、扉をノックした。
「はい」
中からひなのの母の声が聞こえた。雪子は身構えた。「あ……」
扉を開けると、ひなのの母が怪訝そうに雪子を見た。その奥のベッドにひなのは寝ていた。
「まあ……病室に生花を持ってくるなんて、なんて非常識な子なの!」ひなのの母は怒髪天を衝く勢いで怒り出した。ひなのはぼんやり窓の外を眺めていた。
「ごめんなさい。その、ひなのちゃんに、早く元気になってもらいたくて」思わず思ってもいないことが口をついて出た。
「こんな常識のない子がひなののお友達だなんて! 早く帰ってちょうだい!」とんでもない剣幕に雪子は圧倒された。
ぼんやり外を見ていたひなのが、ようやく雪子の存在に気づいたようで、慌てて母親の袖を掴んだ。「まあまあ、お母さん。雪子に悪気はなかったんだよ。せっかく買ってきてくれたんだもん、飾ろうよ。それに花があるだけでも気が紛れるし」
ひなのが気まずそうに雪子に視線を送ってきた。その弱々しい笑顔は、以前見舞いに来たときよりもやつれて見えた。
「ひなの……元気?」雪子は無意識に口にした。
ひなのの母の肩がさらに怒った。「出ていってちょうだい!」
雪子はなにも言えず、花を抱えたまま立ち尽くしていた。
12
後日、担任から職員室に呼び出されて伝えられたのは、ひなのの死だった。夏バテではなく、難病だったらしい。そして、ホームルームでクラスメイトにもひなのの死が告げられた。クラス中が騒然となり、泣き出す者さえいた。
雪子は泣けなかった。そして、なにも考えられなかった。うれしいような、虚しいような、心にぽっかり穴が空くとはこういうことなのかと、いやに冷静に思った。
「紙野さん、今日の放課後、時間あるかな」休み時間、海斗が声をかけてきた。
「ああ、うん」間の抜けた声で雪子は答えた。もうどうでもよかった。
放課後になって、クラスメイトがいなくなり、教室に残ったのは雪子と海斗だけだった。雪子は気まずさを紛らすために窓の外の風景を眺めていた。空は青く、雲は白い。蝉の鳴き声はうるさく、むしろそのうるささが今の雪子の救いだった。遠くから吹奏楽部の練習の音や、運動部の掛け声が聞こえてくる。窓から吹き込む風は涼しげな色で雪子の顔をなぞった。
「俺、紙野さんのことが好きです」海斗の声は少し震えていた。彼の顔はすでに真っ赤で、今にも爆発しそうだ。
突然のことに、雪子は言葉を失った。海斗がなにを言っているのか、理解ができなかった。
「え、だって瀬名くんって、ひなののことが好きなんじゃないの?」言葉を絞り出した雪子の声も震えていた。
海斗は戸惑った表情で雪子を見た。「どうしてそう思ったの?」
「だって……ひなのに彼氏がいるかどうかを気にしていたじゃない?」
「ああ」海斗が申し訳なさそうにふにゃっと笑った。「葛樹さんのことが好きな友達がいてさ、そいつが紙野さんに聞いて欲しいってうるさかったから。勘違いさせてごめん」
「ひなの本人に聞けばよかったのに」雪子は、全身から力が抜けそうな思いだった。
「そうだよね。ごめん」海斗が控えめに頭を下げた。
「でも、なんで今なの?」雪子は混乱した頭で聞いた。ひなのが死んだと聞かされたばかりなのに、理解が追いつかない。
「紙野さんがつらそうだったから、そばにいたかった。葛樹さんの代わりとはいかないけど、隣にいたいと思ったから、告白しようと思って」
雪子と海斗は帰路についた。いまだになにが起こっているのか考えられなかった。でも、ひなのがいなくなった、その事実のすぐ隣に、この幸福がある気がしてしまった。そうであって欲しいとすら思った。そうでなければ、あのお見舞いの花に意味がなかったことになる。それだけはどうしても認めたくなかった。
隣を歩く海斗が雪子の手を握ってきた。その手は、優しくもあり、力強くもあった。目の前に広がる夕焼けは怖いくらいに鮮やかな朱色で、この光景が見れるのもこの季節だけなのだと思うと、雪子は寂しく感じた。今この瞬間だけは、ひなののことを忘れられた。
数日後、ひなのの告別式が行われた。クラス全員が参列する中で、ひなのの母が激しく音を立てて雪子に近づいてきた。
「あんたのせいよ!」
その声は、会場中に響き渡った。会場は重苦しい静寂に包まれた。誰もが雪子とひなのの母に注目している。ひなのの父と思われる男性がひなのの母の腕を掴んだが、それを振り払い、ひなのの母は雪子の両肩を掴んだ。「あんたが、あの子にあんな花を持ってくるからあ! あんな縁起でもない花を! あんたが持ってくるから! あんたのせいよ!」
雪子の両肩を掴んだまま、ひなのの母はその場に泣き崩れた。被害者になんてなれない。彼女の言っていることは、きっと本当のことだから。雪子はなにも言えず、ひなのの母の前にしゃがみ込んだ。
ひなのの母は、親族たちに連れられ会場の外に出て行った。参列者たちは気の毒そうな目で彼女の背を見送った。雪子の元に海斗とクラスメイトたちが駆け寄ってきた。お母さんもきっと気が動転してるんだよ。
「うちの妻がすまない」ひなのの父と思われる男性が、雪子に声をかけた。「立てるかい?」
ひなのの父の手を借り、ひなのは立ち上がった。
「君が雪子さんかな?」ひなのの父が言った。穏やかに微笑んだ顔がひなのにそっくりだった。
「はい」雪子は目を逸らしながら、細々と返事をした。
「そうか。じゃあ、これは君に持っていてもらおう」ひなのの父が差し出してきたのは、一冊の大学ノートだった。表紙に、『ひなのの日記』と書いてある。「中を少し読んだんだけどね、君のことばかり書いてあった」
雪子はそれを手に取り、ぱらぱらとページをめくった。
高校生活が不安だということ。
入学してすぐに雪子という友達ができたこと。
雪子は打算で私と友達になったわけではなさそうだということ。
興味なさそうに、でも飽きることなく雪子が話を聞いてくれるのが心地よかったこと。
いつもは自分のことをあまり話さない雪子が、好きな人がいると相談してくれたこと。
夏休みに入ってから雪子が連絡をくれなくなったこと。
なにかしちゃったんじゃないかって不安になったこと。
病気が見つかったこと。もう、先が長くないこと。
もっと、雪子と一緒にいたかったこと。
そこから先は、見るに耐えないほど文が荒れていた。いつの間にか、雪子の視界は滲んでいた。これほどまでにわたしのことを思ってくれていた。なのにわたしは、周りの目ばかり気にして、ひなの自身のことなど、なにも考えていなかった。
「君がお見舞いに来てくれたときだけ、ひなのは笑顔になったんだ。だからね、僕も妻も、君には感謝してたんだよ」
自分のしゃくり声が耳に響いた。うまく呼吸ができなかった。悔やんでも、なにもかももう手遅れだった。会場の外は、雲ひとつない青空が広がっていた。
13
秋になった。街頭の木々は赤や黄色に色を変えた。世界はセピア色に染まり、少しだけ切なさを含んでいる。
「君は一体いつ人気者になるんだい」店主がいたずらっぽく言った。
本條はうんざりして言った。「じゃあ、俺にも花くださいよ」
「前に蛍さんからもらっただろ?」店主は店の隅に置かれていたタイムを一輪取り出し、本條に差し出した。「もう一本いる?」
本條はあからさまにため息をついてカウンターに頬杖をついた。まだまだ暑い日は続いているというのに、外の世界が次第に色を失っていくのが、どうもちぐはぐに思えた。
「あ、あのう……」一人の男性が店内に顔を覗かせた。
いらっしゃいませと、店主はにこやかな笑顔を彼に向けた。「おや、あなたは……」
「知り合いですか? ……って、二宮潤!?」本條は目を丸くした。
ベストセラーをいくつも作り出してきた作家、二宮潤。今やアニメ化や映画化はもちろん、翻訳されたものが海外で話題になっている。知らない人はいないほどの超有名人だ。
「先日ここで花を購入したんです」男は眉根を寄せて不安そうな面持ちで言った。「あのときは本当にありがとうございました」
「確か作家になりたいとかで、おまじないをかけた憶えがあります」店主は楽しそうに言った。「それで、どうしたんですか?」
本條は目を瞬かせながら二宮から目を離せなかった。この超有名人もここの花を購入したことで大成したのか。そしてすぐに本條の胸の奥がざらっとした。それが羨望なのか嫌悪なのか、自分でもわからなかった。
「というか、店長はこの人がすごい人だって知らないんですか?」
店主はきょとんとして言った。「知らないよ。僕は花を売ってるだけだからね、花を買った人がその後どうなろうが、僕の知ったことではない」
そんなものかと本條は呆れた。「ていうか、俺もアイドルとして売れたいって言ってるじゃないですか。俺にも花売ってくださいよ」
本條の声が聞こえなかったのか、店主は二宮に言った。「お礼しに来たというわけではなさそうですね」
「そうなんです。また花を売って欲しくて」二宮が鬼気迫った様子で答えた。
「なにかあったんですか?」本條は二宮に言った。
二宮は本條を睨んだ。「頂点に到達すれば、あとは降りるだけだ」
「へ?」本條はきょとんとした。
二宮は店主に向き直った。その顔はまるでなにかを懇願するようだった。「どんどん新人が現れ、そして名作と呼ばれる作品も売り出されて、いずれ私の存在が忘れ去られるのが怖いんだ。この前書店に行ったら自分の本が平積みではなくなっていた。SNSで新人作家が話題になっていた。時代は私を置いていこうとするんだ。どうか、どうか私の栄光が永遠に続くように、私に似合う花を売ってくれ」
店主はしばらく微笑んだまま二宮を見つめていたが、ふうと息を一つ吐くと、店内の花を見まわした。そして、白く花弁の細い花を数本取り出した。
「なんですか、この白髪ネギみたいな花は」本條はしげしげと店主の持つ花を見た。
「この花はサンスベリア。和名は千歳蘭というそうだ。千歳は、千年の意味。つまり、『永久』を表す花言葉を持つ。二宮さんにはぴったりだろ」
そう言うと、店主はサンスベリアをカウンターに置いた。そして右手を広げるとふわっと白い光の玉が生まれた。その玉に、店主はふっと息を吹きかけた。そして、その玉を花におろすと、サンスベリアはふわっと光の膜をまとったかと思うと、また元のように戻った。
二宮は興奮した様子でその花を奪い取った。その目は大きく見開かれ、血走っている。「ありがとう。お代はいくらでも払おう」二宮は金額を聞く前に財布を取り出した。そして小さく「これで安心できる」と呟いた。その声はどこか掠れて聞こえた。
14
部屋に入る。真っ暗で、足の踏み場もないほど物が散らかっている。荒れていた毎日もこれで終わりだ。二宮は窓際に飾ってあった花瓶から枯れた花を乱暴に抜き取り、桜屋で購入したばかりの花を丁寧に差し入れた。
「きっとこれで私の名声は永遠のものになるのだ」
二宮はほっとしてカバーのずれたソファーにどかっと座った。
作家として世間に名が広まってからしばらくは心躍る日々が続いた。自分の作品が評価される喜び。自分の頭の中の妄想の世界が肯定された気がした。頭の中の物語が紙の上で自由に踊る。それが世間の目に触れ、しまいには世界中で注目されるようになった。最初は楽しかった。妄想がいきいきと物語に収まり始めるのが快感だった。
しかし、次第にそれが苦痛となっていった。どんどん新人が台頭してくるようになった。書店に並ぶ自分の本が少しずつ端に追いやられているような気もし出した。世界は自分に飽き始めているのかもしれないと、言い知れぬ不安が日常を蝕み始めた。
そして、たまらず再び桜屋に足を運んだ。花なんてなんでもよかった。ただ、あそこの店主のまじないが欲しかった。間違いなく、桜屋でまじないのかかった花を買ってから、作家として評価されるようになったのだから。
さっき桜屋で購入したばかりの花を見ていると、またデビューしたときの感覚が蘇ってきた。頭の中で、再び妄想が物語を作り始めた。こうしちゃいられない。二宮はソファーから立ち上がり、窓際のデスクに向かった。
ノートを広げる。頭に浮かんだ妄想を書き殴る。この時間が一番楽しい。殴り書きでページを埋めていく。登場人物たちが生き生きと動き出す。こうなると二宮には止められない。頭の中にはどんどん情景が浮かんでくる。手が追いつかない。
今執筆しているのは主人公のナツメが月から逃げるという話だ。月に見つからないように逃げながら、ナツメは親友のミナミと、夜にしか現れない宮殿の宝を手に入れる物語。ナツメが二宮の意識を乗っ取ってきた。ナツメが見ている景色を、そのまま二宮は書き起こす。ナツメの月に対する恐怖心が、二宮の心に広がっていく。二宮はごくりと唾を飲み込んだ。恐怖が全身へと広がる。指先がどんどん冷たくなっていくのがわかった。
はっとして時計を見ると、いつの間にか午後六時を過ぎていた。すでに部屋は薄暗い。そういえば飯を食っていない。二宮はカーディガンを羽織り、カバンを手に外に出た。世間では秋が来たと騒いでいるが、一向に涼しくならない。こんなことならカーディガンなどいらなかったか、と二宮は少し後悔した。空を見ると、煌々と輝く満月が雲の隙間から覗いていた。二宮は咄嗟に電信柱の後ろに隠れた。
「おっと」二宮は苦笑した。
電信柱から離れ、再び歩き出す。今日の夕飯はなににしよう。そんなことを考えているそばから、月の存在をどうしても頭から締め出すことができなかった。
平日の夕方だからか、駅前は仕事帰りの人で賑わっていた。二宮は割と空いているファミレスに入った。すぐに席に通され、水とおしぼりが二宮の前に置かれた。二宮はテーブルの上のメニューをぱらぱらとめくった。
「それでさあ、この前うちの彼氏がなんて言ったと思う? 『お前はかぐや姫かよ』ですって。別に誕生日にブランド物のバッグを欲しいって言っただけなのに」
隣の席の女子高生の声に意識を持っていかれた。かぐや姫。月から逃げているナツメと、月から追放されたかぐや姫。隣の席の女子高生が話している内容は、まるで私の物語の伏線だ。よくよく耳をすまして、一言も聞き漏らすまい、と二宮はカバンからメモ帳を取り出した。
「お客様、ご注文はお決まりでしょうか?」女性店員が二宮に声を掛けた。
二宮は慌ててメニューを広げたが、はたと女性店員の顔をまじまじと見つめた。彼女の顔は、二宮が妄想していたナツメの顔に似ている、一瞬そう錯覚した。
「私は……すでに私の物語の中に入り込んでいたというのか」二宮はまるで独り言のように呟いた。
女性店員は曖昧な笑みを浮かべて、「ご注文の際は、お呼びください」と口早に言って去っていった。
頭の中にあった物語が目の前に広がっている。やはり月は私を、ナツメを追いかけてきているのだ。きっと女性店員は、私が物語の中に入り込んでいることを気づかせるための装置だったのだ。きっとそうだ。これはどんどん筆が進むぞ。二宮はそのまま周囲の状況を詳細にメモ帳に書き出した。ペンは勢いを増していく。隣の女子高生の言葉にも耳を傾ける。彼氏はどうやら大学生らしく、アルバイトをやっているのにだいぶケチなのだそう。なるほど、これも月の使者の特性なのかも知れない。こうしてはいられない。二宮はテーブルに広げたメモ帳を急いでカバンにしまった。そして水を一気に飲み干し、なにも注文しないままに店を出た。月はさっきより高い位置にあった。二宮は建物の陰を通りながら、月に見つからないように家路についた。建物の隙間から漏れる月明かりに怯えつつ、二宮は路地を駆けた。
すれ違う人々の話す声も、店の看板も、通りすぎる車の色すらも、すべてが物語の伏線に見えてくる。「メモ……メモしなければ……」
家に着くと、二宮はすぐにカーテンを閉めてデスクのパソコンに向かった。メモ帳を広げて頭の中の物語を整理した。パソコンに物語を打ち込む。
桜屋のまじないはやはり効果があるのだと二宮は力強く感じた。どんな寺社仏閣のお守りよりも効果絶大だ。
どれくらいの時間が経ったのか、二宮は時計に目を向けた。九時。カーテンに目を向ける。隙間から日の光が漏れている。朝の九時か。二宮は大きく伸びをして、台所に向かった。冷蔵庫から水を取り出し、一気に飲み干した。思っていた以上に喉が渇いていたようだ。
「少し休憩するか」二宮はぼそっと呟いた。すると、二宮の頭に新たなストーリーが生まれ始めた。二宮は慌ててデスクの上に広げてあるメモ帳に走った。
ペンが走る。あっという間にプロットが出来上がる。これも面白い作品になると、二宮は確信した。
ふと、メモ帳の上を走るペンが止まる。「もしかして……」
自分の人生も、壮大な物語なのかもしれない。だとしたら、明確に、詳細にプロットを書かなくてはならない。そう考えた瞬間、胸が高鳴った。二宮は部屋から駆け出した。
15
冬になった。山の木々は葉を落とし、寒々しい。 白河は雪の積もった山頂から世界を見下ろしていた。人里は遠く、雲に近いその山に登る人間は一人としていなかった。
白河はいつも一人だった。むしろそれが心地いいとすら思っていた。しかしあるとき、ほんの気まぐれで白河は山をおり、人里に踏み入った。自分が妖怪であることを隠すため、若い人間の男に化けた。着物と呼ばれるこの服は、どうも足にまとわりついて歩きにくい。道を歩くと、その白河の美しさに、派手な着物で着飾ったすべての女たちが振り返り、蕩けた目で白河を見つめた。ここいらでは見ない顔だ。あたし、話しかけちゃおうかしら。だめよ、あたしが話しかけるのよ。そんな声がひっきりなしに白河の耳に入った。いつの間にか、歩く白河の後ろには女たちの長蛇の列が出来上がっており、なにかの行進かと里中の人間が不思議がった。
ある家の前で白河の足が止まった。縁側に年老いた女がじっと座っている。髪はきれいに整えられているが、着物はまるで布切れを継ぎ接ぎしたかのように粗末だ。女の目は閉じられているが、まるでなにかを見ているかのように楽しそうに微笑んでいた。その女の姿が妙に白河の興味をそそった。白河は一番近くにいた女に聞いた。「あれは?」
「ああ、あれでございますか? あれはただの盲目の女でございます。いつもあそこに座って、ぼーんやりしているのです。そんなことより、今晩は私と過ごしませんこと?」
白河はただぼんやりとその盲目の女を眺めていた。
その晩、白河は人間の子どもに化けて、盲目の女の家に向かった。足音を殺して家の前の茂みに隠れ、縁側を覗いた。そこには昼と同じ格好で女が座っていた。
「あら」閉じられた目はそのままに、女は驚いた顔をした。「子どもがこんな時間に一人で出歩いたら危ないですよ」
白河は驚きを隠せなかった。目が見えないのではないのか?
「ああ、あなたは昼間、たくさんのおなごたちに囲まれていたお兄さんでしたか」
噂に聞く、人間のなせる技ではない。「貴様、妖怪の類か?」
「違いますよ。目が見えない分、他の感覚が研ぎ澄まされていったんですよ」女は顔を綻ばせて笑った。「こちらに来てくださいな。貴方様のお話も聞かせてくださいまし」
白河は恐る恐る女の隣にちょこんと座った。女の顔はしわくちゃだが、優しい空気感が女の周りを漂っていた。それから二人は、まるで旧知の仲であったかのように一晩語り明かした。
それから白河は子どもの姿で何度も女に会いにいった。女との話は、今まで山に篭っていた白河にとって興味深いものだった。
ある花の匂いが強く香る晩、いつものように白河は女の元に向かった。風は穏やかだが、どこか不気味な夜だった。
「花言葉って知っていますか?」縁側に座る女が楽しそうに言った。「少し前に西洋から伝わったものらしいのですがね、言葉の代わりに花で想いを伝えるというのが、花言葉というものらしいのです」
「そんなもの、誰が決めたのだろうな。そいつの匙加減で、花に勝手に思いを乗せて、それが人間の間で広まっていく。傲慢にもほどがある」
「それを言ったら、花に名前をつけた人や、雲や風、天気に名前をつけた人、すべての物事に名前をつけた人は漏れなく傲慢ということになってしまいましょう」
それもそうだな、と白河はふっと笑った。「まあでも、花に想いを乗せるというのは、なかなか洒落ている」
「ふふ、私は母にいろんな花言葉を教えてもらいました。例えばそこに咲いている秋桜の花言葉は、調和、謙虚、乙女の純潔など、女性的なイメージ。ところで、その秋桜、何色でございますか?」
「赤、だな」白河は答えた。「その隣には桃色もある」
女は一度頷いた。「赤は情、桃色はまだ言葉にならぬ想い。色ごとに花言葉が違うのですよ」
「そんなくだらないことを、全部覚えているのか」白河は口にした。
女はしばしなにも喋らなかった。つまらないことを言ってしまったかと白河が反省していると、女がゆっくりと口を開いた。まるで過去の情景を一つひとつ思い出すかのように。
「昔はね、私も目が見えていたのでございます」
16
この縁側から見える花々を眺めるのが好きで、私は幼い頃からいつもここに座っていました。縁側に座っていれば、四季折々の花を見ることができる。花の香りを楽しむことができる。私にとって、この場所は特別なのです。
ある晩秋の夜、毛布を被って眠っているところに母が来て、私は起こされました。里は静まり返り、私たちの駆ける足音だけが闇に溶けていきました。まるでこの世には私と母しかいなくなってしまったかのようで、本当は足を止めたかった。ですが、ここで足を止めてしまったら、もう二度と母に会えないような気もしていましたので、狂いそうになる気持ちを抑えて、母についていったのでございます。
でも、それはおかしいことなのです。母は大病を患っていました。普段は病床に伏せている母が駆けるなんて。しかし、幼かった私は、母の病が治ったのだと胸のうちで喜んでおりました。
気づけば暗い山の中を、明かりもなしに母はどんどん進んでいきます。息を切らしながら、どこに向かっているのか母に問うても、母の荒い息遣いが聞こえてくるだけでした。足に草が絡んで、何度も転びそうになりましたが、母は幼い私のことなど気にもかけず、私の手を引いて先を急いでいました。転ばないように、足元ばかりを見ているせいで余計に足が絡まりそうになっていました。
「ついたよ」
母のその言葉で私が顔をあげると、目前には満開の桜の大木が天を覆っていたのです。まるで夜空に突き刺さるような梢に、私は圧倒されました。闇に浮かぶ白い桜の花が、風に揺れているのが幻想的で、晩秋であることも忘れ、私はその光景に息をするのも忘れていました。
母が言葉を漏らしました。「やっぱり今日だったのね」
その母の顔は、月明かりに照らされて青白く見えました。その顔は恐ろしく美しかったのです。そして母は続けました。
「子どもの頃、一度だけ来たことがある。あまりに綺麗で、涙が止まらなかったの。だから……もう一度、見たかった」
ぼんやりと、まるで私がいることなど忘れてしまったかのように、母は桜を見上げ、舞い散る花びらに手を伸ばしていました。
「そしてその次の日、母さんは死んだ。そして私の体も少しずつ壊れていった」穏やかな母の声は、まるで夢の中にいるかのように響いていました。
ふわっと私の頬を風がなでました。その瞬間、目の前に広がる桜の花びらが一気に舞い上がりました。なにも見えなくなるほどの桜吹雪が、私たちを包み込みました。まさに前後不覚、花吹雪の中に閉じ込められ、母の姿が見えなくなりました。ひとりぼっちになった私は、手探りで必死に母を探しました。お母さん、と呼ぼうと口を開けば花びらが口にどんどん入ってきます。
目が覚めると、心配そうに私を見下す父の顔がありました。気づけば私は息も荒く、体中汗だくだったことを覚えています。あの光景は、もしかしたら夢だったのかもしれません。
そして、翌朝、母が亡くなった知らせを聞いたのです。あの夜の桜が、あの日の光が、走馬灯のように眼前を過ぎていきました。そして、私自身も視力を失っていたのです。
17
女の話が終わると、白河はいたずらっ子のように縁側から飛び降りた。「あんた、またその桜が見たいか?」
女は寂しそうに微笑んだ。「私は目が見えませんから」
「そんなこと聞いていない。桜が見たいかどうかを聞いているのだ」
「……そりゃあ、見たいです。あんなにも美しい桜は、人生で見たことがありませんでしたから」女の口元は微かに震えていた。
「今日、あんたの言う桜が咲いているな」白河は鼻をひくつかせた。「やけに今日は花の匂いが強い」
「あなたにもわかるのですね、この香りが」女は切なそうに言った。
「僕は人間みたいに鈍感じゃない」白河はむっとして答えたが、すぐに気まずそうに言った。「あんたは、他の人間とは違うが」
「ふふ、そうですね。目は見えなくとも、匂いや風でわかります」女は空の方を見上げた。「そうですか、今日がその日なのですか。あの美しい桜、死ぬまでにもう一度見れたらうれしいですねえ」
上空を、一枚の桜の花びらが風にのって漂っていた。「見に行くか、桜」
女は相変わらず微笑んでいた。「ですから、私は」
「見せてやる」白河は女の前に立った。
「いえ、でも、あの桜を見たら祖母や母が死んでしまったように、わたしたちも死んでしまうかもしれないのですよ」
「僕は構わない。それにあんたのことは死なせない」意志は固かった。
女は大きく息を吸った。まるで風にのった桜の香りを存分に堪能しているかのようだった。
18
蛍の頬を風が切る。正面からぶつかってくる空気のせいで、呼吸が難しい。足は地面を離れて宙ぶらりんだ。歳を取っているせいで白河の手を握る手に力が入らない。それでも大きな手で力強く蛍の手を握ってくれている白河に安心して体を任せていた。
季節外れの桜の香りが、あの日ぶりに蛍の鼻をくすぐった。蛍の家の縁側で話していた白河が、あっという間に蛍の手を取り、飛び跳ねた。そして今、どこかの空を飛んでいる。
母に手を引かれて歩いた山道は、母と歩けることのうれしさと、どこに連れて行かれるのかわからない恐怖でいっぱいだった。それは今も同じだった。あの情景をもう一度見ることができるかもしれないという期待と、白河を本当に信用していいのかという不信感でいっぱいだ。
「あの、どこに向かっているのですか?」蛍は声を張り上げた。
「だから、桜を見に行くって言ってるだろ。僕のこと信用できないのか?」白河も負けじと大きな声で言った。
「だって……この前出会ったばかりではないですか」蛍の声が風に溶ける。
「会ったばかりだと問題なのか?」その声を拾うかのように、白河は優しく答えた。「もっと時間をかけないと人間は信用してくれないのか。勉強になる」
蛍は口をつぐんだ。
「あんたは、もう僕のことを信用してくれてるもんだと思ってた」
「え?」
「だって、季節外れの桜の話をしてくれた。母親が死んだことだって、心を許していない相手には言わないだろう?」
蛍は白河の言葉を風の中で聞いた。少しでも気を抜いたら、風の音に紛れてしまいそうで、白河の声に集中した。
確かにそうかもしれないと蛍は思った。長いこと誰とも話してこなかった。誰にも声をかけられず、誰からも相手にされてこなかった。そんなとき、目の見えない私に話しかけてくれた。まるで普通の人のように接してくれた。私はいつの間にか白河に心を開いていたのかもしれない。
「お、見えてきた。もうすぐだ」白河が言った。
この時間が終わってしまいそうで、蛍は心がぎゅっと掴まれたようだった。
一瞬体がふわっと浮いた。少しずつ下降しているのがわかった。つま先が地面についた。重力を感じる。それに、強い花の香りがどっと蛍に絡みついてきた。どうやら到着したようだ。
「さあ、目を開けて」白河が蛍の耳元で言った。
「目を開けたところで見えませんよ」蛍は不貞腐れた心を読まれないように、努めて平常心で言った。
「いいから、ほら」白河が後ろから蛍の両肩をぽんと叩いた。
蛍は渋々、ゆっくりと目を開けた。ぼんやりとした世界が目前に広がる。いつも通りの輪郭のない世界。ああ、やっぱり。期待するだけ無駄。それに、桜が見えてしまったらきっと私は死ぬ。これくらいがちょうどいい。いや、嘲笑されて、一人で縁側で過ごす人生が続くぐらいなら、あの恐ろしいほど美しい桜を見て死にたい。
蛍は無意識にため息をついた。その瞬間、一瞬にして視界が鮮明になった。目の前に広がる景色は、幼少期に見た景色とまったく同じだった。空いっぱいに桜の花が広がり、月明かりで青白く光っている。その光景は恐ろしくも美しく、目が離せなくなるほどの魔力が、この桜にはある。風に花びらが舞い、蛍は無意識に手を伸ばした。次第に目がぼやけてくる。涙なんて母が死んだとき以来、久しぶりに流した。
「きれいだねえ。こりゃあ確かに、何度も見たくなってしまうな。どうして僕はこの山に住んでおきながら、この桜のことを知らなかったんだろう」白河の声は弾んでいた。「ねえ、もう少し近くに行ってみようよ」
蛍は白河の顔を初めて見た。中性的な整った甘い顔立ち、白く長い髪は一つにまとめられ、風にたなびいている。背が高く、ひょろっとした体はもはや女のようだった。きれいに着こなした白い着物は、汚れが一切ない。「こんなに美しかったら、そりゃ里のおなごたちがあなたに集まりますわね」
「なに言ってるの。ほら、早く」
白河に手を引かれたが、蛍は動けなかった。これ以上、桜に近づくのが怖かった。
「大丈夫だよ。なにがあっても僕がなんとかするから」
「どうして」蛍は声を絞り出した。「どうして、そんなに私のことを気にかけてくれるのですか?」
白河はきょとんとした顔で蛍を見た。「そりゃ、あんたのことを気に入ったからだよ」
「へ?」蛍は思わず間の抜けた声を漏らした。「私のどこに気に入るところがあったのですか!?」
白河は声に出して笑った。「そういうところだよ。普段はまるで人形みたいに感情を出さないのに、たまに人間味がある。こんなに見ていて面白い人間に会ったのは初めてだ」
「なんですか、それは」蛍は少し頬が熱くなるのを感じた。
「さあ、行こう」白河が蛍の手を引いた。蛍は手の引かれるまま白河についていった。
草がこんなに青いことも、夜がこんなに黒いことも、星の光があんなに白いことも、全部思い出した。世界はこんなにも色に溢れていた。誰かに手を引かれることも、野を駆けることも、頬が熱くなる感覚も、すっかり忘れていた。
「真下から見上げる桜、迫力あるなあ」白河は桜を見上げながら言った。
「そうですね」蛍もつられて桜を見上げた。あのときも同じように母と桜を見上げていた。ただし、あのとき母はまるで桜の美しさに取り憑かれたかのように無機質に見えた。今は違う。白河は変わらず楽しそうだった。それが蛍を安心させた。
突然突風が吹いた。桜の花びらが夜空に舞い上がった。蛍は腕で顔を覆った。その瞬間、幼い頃の記憶がまた蘇ってきた。桜吹雪で前がよく見えなくなる。母がそこにいるのかどうかすらわからなくなった恐怖。不安。息が止まる感覚。「あ、ああ……」
急に蛍の左腕が掴まれた。「おい! そこにいるな!? 僕から離れるなよ!」
白河の声だった。それが聞こえた瞬間、蛍の恐怖感がわずかにほぐれた。そこにいてくれている。その安心感が、あの頃の心の傷を癒していった。白河が握った腕に熱が伝わる。妖怪にも体温というものがあるのか。血が通っているということか。
桜吹雪が収まり、目を開けたが、もうすでに目は見えなくなっていた。
19
桜吹雪が収まった。白河がゆっくりと目を開けると、そこはなにもない野原だった。まるで狸にでも化かされたかのようだった。「僕の方が上位の妖怪なのになあ」
隣の蛍を見ると、魂が抜かれたかのようにぼんやりしている。「蛍さん?」
「一瞬でもまた再びあの光景が見れて、幸せでした」蛍は静かに言った。
蛍はすでに盲目に戻ってしまったのか。蛍の腕から手を離すと、蛍は少し残念そうに俯いた。
「さて、桜も見られたことだし、里に戻るか」白河はいたずらっ子のように、今度は蛍の左手を握った。「またひとっ飛びだ」
蛍はうれしそうに「そうですね」と呟いた。白河が地面を軽く蹴ると、二人の体はふわっと夜空に浮いた。
「久しぶりに見た桜はどうだった?」白河は向かい風に負けないように声を張り上げた。
「とても素晴らしかったです。あのときとまったく同じ。本当に感動しました」蛍は感動を噛み締めるようにしみじみ言った。「あなたには本当に感謝しています」
二人は山の上空をふわふわと降りた。その頃にはもうすでに地平線の向こうが明るみ始めていた。里に降り立つ頃にはきっと人々は目を覚まし始めるだろう。
「まるで夢のような時間でした。今でもあれが夢だったのではないかと疑っているくらいです」蛍は言った。
「まったく、あんたは疑い深いのだな」白河は頬を膨らませて言った。「せっかく僕の力を使ってあげたっていうのに」
二人は里の外れに降り立った。白河はすぐに子どもの姿に化けて蛍の手を引いた。「あんたんちまで連れてってやるよ」
里に近づくにつれ、騒然とした人々の声が聞こえてきた。只事ではなさそうな雰囲気だ。
白河は蛍の手を握ったまま、混乱で慌てふためく人々の間を抜けていった。その中で、白河は以前近づいてきた若い女が目に入った。「おい、何事だ?」
白河が声をかけると、若い女は慌てながら言った。「色がないのよ!」
色がない? 白河は周りを見渡したが、朝日も、黄色の地面も、道端に生えている南天の赤い実も、いまし方降りてきた山の緑も、なにも変わったところはない。しかし、里中の人は皆一様に色がなくなったと騒いでいる。
蛍にあの桜を見せたからか? 盲目を治すなんて自然の摂理に反したからか? そんなはずない。ただ、ちょっといたずらしただけだ。
「あの、色がないとはどういうことですか?」蛍が不安そうな面持ちで白河に聞いた。
白河はなにも答えず、ずんずんと蛍の家を目指した。
違う。僕のせいじゃない。ただ人間で遊んだだけだ。悪いことはしていない。だって、ただのいたずらなんだから。本気で蛍のためにやったわけじゃない。なのにどうして。いや、僕のせいではないかもしれない。他の妖怪がもっと大変な禁忌を犯した。そうだ、きっとそうだよ。だって、世界から色が失われるほどに悪いことをした覚えは僕にはない。だっていたずらなんだから。いたずらで世界が変わってしまうなんて、そんなこと聞いたことがない。そうだ、僕のせいじゃない。絶対に、僕のせいじゃない。
しかし、世界の理の力を少しでも借りてしまったことは確かだ。世界の力を借りること自体が大罪なのだとしたら……。
「白河さん」
蛍の声にはっとした。気がつくと白河は人間の姿ではなく、本来の姿に戻っていた。醜い妖怪の姿に。周りを見渡すと、里の人間たちが恐ろしい目で白河を睨んでいる。彼らは「あいつの仕業だ」「あいつがこの世界の色を消しちまったんだ」と口々に叫んでいる。慌てて蛍の方を見ると、彼女はいつも通り和やかな顔で白河の方を向いている。
「落ち着いて。さ、私の家に連れていってくださいな」
白河は妖怪の姿のまま、蛍の手を引いた。さっきよりは落ち着いた。しかし、自分が世界の摂理を捻じ曲げてしまったかもしれないという可能性が頭の中を堂々巡りしている。
いつの間にか二人は蛍の家の前に立っていた。
「わざわざ送ってくれてありがとうございます」蛍は穏やかに言った。
「ああ……」白河は考えがまとまらないまま、蛍をぼんやり見ていた。「じゃあ僕はこれで……」
「白河さん」蛍は白河を呼び止めた。「もしあなたがよろしければ、私はあなたと共にいたいのです」
急な提案に白河は驚きを隠せなかった。「なにを言っている? 僕は妖怪だぞ。人間が共にいていい存在ではない」
蛍は少し戸惑ったように見えた。しかし、すぐに白河の方を向いた。「色があるかないかなんて、目の見えない私にはわかりません。白河さんだって、色が見えているのでしょう?」
白河はじっと蛍を見た。「ああ」
「人間たちの世界に色がなくなってしまったのは、きっと私があなたにわがままを言って桜を見せてもらったせい。人間である私が犯した罪なのでしょう」
違う。蛍を連れ出したのは、僕だ。僕が人里になど降りてこなければ、僕が蛍を唆しさえしなければ、きっと世界は変わらなかった。少なくとも、蛍のせいでは、絶対にない。
「あんたが責任を感じる必要はないよ」白河は静かに言った。
「では」蛍はいたずらっ子のように楽しそうに言った。「共に花屋を開きましょう」
「え?」突拍子もない提案に、白河は思わず声を漏らした。「どうして?」
「あなたが私に桜を見せてくれた。そして世界は色を失った。捻じ曲がった世界を戻すには、きっとあの桜が関係していると思うのです」
白河は呆れた。「そんな短絡的な……あんたはもっと頭のいい人だと思っていたよ」
「いつも縁側に座っているだけの人生だったのです。少しくらい世界にいたずらしたっていいじゃないですか」蛍は縁側に向いながら言った。
「でもなぜ花屋?」白河は蛍のあとについて言った。
「花の力で世界が歪んだのか、それともあなたの力で世界が歪んだのか。実験するにはもってこいだと思いませんか?」蛍は縁側に座った。
「でも、僕は花の知識なんてまったくない」白河は隣に座った。
蛍が楽しそうに微笑んだ。「私がいるじゃありませんか。私はもう、なにも失うものはないのです。もともと、色のある世界に生きてはいませんでしたから」
20
冬はわりと好きだ。世界がモノクロになるから。白と黒だけの世界。色がない自分でも存在していいのだと肯定されているような気がする。吐く息は白く、カウンターは冷たい。一年の終わりが近いことを思い知る。
今年も俺はなにも成し遂げなかったな。本條はカウンターに置かれた色とりどりの花を弄りながらぼんやり思った。
夜の花屋の留守番は退屈だった。店主と蛍は用事があると言ってどこかに出かけていった。だったら店を閉じればいいのに。クリスマスだからといってポインセチアも飾らず、正月が近いからといって正月飾りも並べず、本当にこの花屋は商売する気があるのだろうか。
本條はうんざりした。自分はどうだろうか。歌が苦手だからといって練習もせず、ファンが少ないからといって広報活動もせず、花屋に来ては現実逃避。自分は本当にアイドルに向いているのだろうか。いや、ここで答えを出してしまえば絶望する。失望する。かろうじて自分の足で立っているのに、現実を知れば立ち上がれなくなってしまう。続けていればいつかは才能が花開くなどという言葉は、実際に成功した人が言った言葉に違いない。続けていても、芽すら出ずに散っていった人などごまんといる。自分は違う、きっと選ばれし人間なんだなどと考えて突っ走れた年齢はとうに過ぎた。
「ここで雇ってもらおうかなー」不意に出た呟きは、白い息と共に空気中に消えていった。
「現実逃避とはいただけないね」
驚いて本條が後ろを向くと、店主がニコニコしながら立っていた。
「いつからそこにいたんですか」本條は心臓の辺りを大袈裟に抑えながら言った。「あれ、蛍さんは?」
「蛍さんなら、さっきからそこにいるじゃない」
店主の指差す方を見ると、蛍が静かに店内でモノクロの花をピックアップしている姿があった。「いつの間に?」
「さて、芽が出ない巽くんは、いつ才能が花開くんだろうね」店主はいつも通り楽しそうにカウンターの花をまとめている。
「うるさいなあ。ほっといてくださいよ」本條が頬を膨らませると、店主はははっと声を上げて笑った。
ふと、店の隅で、水換えもされていない花が本條の目に入った。「それ、ずっとありますよね」
店主は本條の目線の先を辿った。「ああ。その子はなかなか売れないねえ」
薄いグレーの花弁。そのうちの一枚には点々が入っている。形はユリに似ていた。
「さて、今日はそろそろお店を閉めようかな」
閉めるなんて珍しいときに立ち会えたものだと、本條は興味が湧いた。「営業時間なんてあったんですね」
「そんなのないよ。今日は一段と冷えるから、特別」
店主は入口のシャッターに手を伸ばした。そのとき、一人の客が駆け込んできた。そのとき、ちりんと鈴の音が聞こえた気がした。
「あ、えっと、まだ、いいですか」その客がぼそぼそと言った。まるで声が平坦だった。
「もちろんですよ。どうぞ」シャッターに手を伸ばしていた店主が手を止めた。
その客はどこか色が薄かった。透明感があるというわけではない。ただ、まるで冬に消えてしまいそうだった。目の焦点が合っていない。
「それ、ください」その客は、店の隅で売れ残っていた花を指差した。
本條の胸が、一瞬ざわついた。
「あー……これですか?」店主は言葉を濁した。あまり気乗りしない様子でその花を一輪持ち上げた。しかし、しばらくうーんと唸ったまま、すぐに客に渡そうとしない。
「その花、なんかあるんですか」本條は怪訝そうに聞いた。その問いに、店主はなにも答えようとしない。
客は特になんの感情もない表情で、じっと店主を見つめていた。それが本條にとって少し不気味に感じられた。店内に吹き込む風が身に沁みる。本條は一度大きく身震いした。
「ところで」店主が重々しく口を開いた。「この花、どうして欲しいのですか?」
「いや、なんとなく」客はやっと聞こえる声で答えた。「なんとなく欲しかったんです」
店主はその後もなにかを逡巡しているのか、手元の花をじっと凝視している。そして、睨むかのように客に目を移した。「おまじないは、必要ですか?」
「いりません」客ははっきりと言った。
店主は観念したかのように小さくため息をついて、その花を丁寧に包んで客に渡した。
「これで、先に進まなくて済む」客はうっすら不気味な笑みを浮かべると足早に店を後にした。
「なんだったんですかね」本條はその客の後ろ姿を目で追いながら言った。
「さあ」店主はシャッターを閉めようと入口のシャッターに手を伸ばしている。
「あの人、花言葉も聞かないし、おまじないもいらないって、純粋に花を買いに来た人だったんですかね」本條はコートの襟に顔を埋めながら言った。
「あの花、少し早すぎたかもしれないなあ」ぼそっと店主が漏らした。
「あの花、なんて花なんですか?」買われていった花が報われない気がして、本條は店主に聞いた。
「アルストロメリア」店主が閉店準備をしながら、まるで独り言のように言った。「花言葉は、持続、未来への憧れ。花は人を救うこともある。でも、向いていない人を前にすると、残酷だ。アルストロメリアは、あの人に選ばれるべき花では、なかったかもね」
シャッターの閉まった花屋は、いつもより静まり返っていた。
21
「ところで、いつからこのお店やってるんですか?」本條は何気なく聞いた。
「んー、二百年くらい前からかなあ」店主は空を見ながら思い出すように言った。
本條は鼻で笑った。「店長もそんなつまらない冗談を言うんですね」
「つまらない冗談とは失礼な」店主は作ろうとしていた花束を置いた。「開店した当時は牡丹や菊が流行っていたんだよ。あと、夏には朝顔が女性によく売れていた。そうだよね、蛍さん」
蛍は懐かしそうに答えた。「そうですねえ。特に赤い朝顔は、儚い情熱的な愛という意味があるのに、白河さんがいろんな町の町主様にあげてしまったものだから、あの頃は不祥事が絶えませんでしたね」
「白河?」本條は聞き返した。
「蛍さん、あんまり昔のことは言わないでよ」まったく、隙がないんだからとぼそぼそいいながら店主はバツが悪そうに店の外に出ていった。
「蛍さんもまさか冗談に乗っかるタイプだったとはね」本條は頬杖をつきながら言った。
蛍はふふっと言ったきり自分の仕事に戻った。
「ねえ、蛍さん。俺にもそろそろまた押し花の栞をくださいよ」本條は小声で蛍に言った。
「先日あげたではないですか。タイムの花を」蛍は手を止めずに言った。
そういえば、あの花を俺はどこにやったのだろう。翔と朱里を引っ張ったときにどこかに落としてしまったのだろうか。「無くしちゃったので、またください」
「花は無くなっても、花言葉はきっとあなたの中にあるから大丈夫ですよ」
そうは言っても。勇気、か。
「俺って勇気なかったんですかね……」
蛍はいくつか花を選び抜いたあと、本條を向いた。「花は必要な人を選びます」
そう言ったきり、蛍は店の外の暗闇に消えていった。本條はまた一人になった。
「勇気」その言葉の力は、翔と朱里を助けた瞬間に使ってしまったと思っていた。「まだ、俺の中にあるのか」
店主が戻ってきた。「蛍さんはどこかに行ったんだね。ふう、まったく」
まったく、の続きが気になった。「まったく、とんでもない嘘をつく人だ」なのか「まったく、人の黒歴史を掘り起こして」なのか。本條には二人がどうも嘘を言っているようには見えなかった。だからといって、二百年も花屋を続けているとは常識的に考えにくい。
「白河って、桜屋の創設者の人の名前ですか?」本條は思い切って聞いてみた。
「んー? そうだよ。僕の名前」あっけらかんと店主は答えた。「蛍さんにしか呼ばれないから自分の名前を忘れていたよ」
店主がいつも通りに楽しそうな顔で話すため、本條の疑問は一向に晴れなかった。「もしかして世襲制? 店長って一体何代目なんですか」
「何代目ってどういうこと? 僕がずっとこの店の店主だけど?」
本條は苦笑いした。「その設定は突き通すんですね。だからそんな格好してるのか」
「設定? よくわからないけど、僕はずっとこの格好だよ。もう体が慣れてしまってね。本来の姿なんてもう忘れてしまった」
本條は興味もなさそうに聞いた。「なんで桜屋っていう名前にしたんですか?」
店主は楽しそうに店内の花の世話をしながら言った。「思い出の桜があるんだ。その桜は、言葉では言い表せないほどに美しくて、そして言葉では言い表せないほどに憎い。その気持ちを、忘れないためにね」
本條は訝しげに店主を見た。「その桜のこと好きなんですか? 嫌いなんですか?」
「好きでもあり、嫌いでもあるよ」店主の顔にはいつも通りの笑顔が貼り付いている。しかし、目が笑っていない。
二百年前といえば、江戸時代ですよね。その頃から生きてるってことですか? そう聞こうとしたが、嫌な気がして本條は話題を逸らした。「その頃も、きっと色は季節ごとに違って見えたんでしょうね」
「その頃はまだ一年中夏みたいに色が鮮やかに見えていたよ。でも、僕のせいで世界から色がなくなった。いや、正確に言うと、冬から色を奪った」
本條の思考が止まった。その代わりに、鼓動が激しく打ち始めた。店主は今なんて言った?「僕のせいって……どういうことですか?」
本條に向いた店主の顔は、もう笑っていなかった。本條の全身に寒気が走った。開いた口から漏れるのは、ただただ白い息だけだった。
「盲目の蛍さんに、幻の桜を見せたかっただけなんだ。最初はいたずらのつもりだった。でも、蛍さんと話しているうちに同情の念が湧いたんだ。それで、世界の理の力を少しだけ拝借して、蛍さんに、世界を見せた。その瞬間から、冬の世界から色が消えたんだ。どう考えても僕のせいだ」
外の風が店内に吹き込んでくる。本條の両手は氷のように冷たくなっていた。両手を擦り合わせても、いくらもましにならない。これほど寒いのに、店内の花はみずみずしく咲き誇っているのが不思議だ。すでに本條の頭は、店主の言葉を理解することを諦めていた。懺悔のような彼の言葉は、もはや冬の冷たい風とともに空虚に流れていくように思われた。
「冬も花って枯れないんですね」本條は言葉を絞り出した。「色がなくてもきれいっすね」
店主が機械的に言った。「君は冬でも色が見えているはずだよ」
本條の背筋は一気に凍りついた。「いやいや、なに言ってるんですか。この店の花、全部モノクロじゃないですか」
店主は脇にあった花瓶から一輪の花を抜き取った。「これは、赤」
「濃い灰色です」本條はイライラした声を抑えて言った。
「それは花弁の色だろ。違う。君が本当に見ているのは、物の本質、魂の色だ」
22
色の見え方なんて他の人間と同じだと思っていた。春になればパステルカラーになり、夏になれば見るものすべてが色鮮やかになり、秋はパステル調になって、冬にはすべてモノクロになる。それは、人間が見る色の見え方だ。本條は店主から受け取った一輪の花をまじまじと見つめた。赤に見える。物の内側に宿る色が見える。しかしそれを言うと、変な目で見られてきた。言ってはいけないことなのだと、見えてはいけないものなのだと悟っていた。だから、見えない振りをしてきた。
「君は気づいていないようだけどね、僕と同じ類の妖怪なんだよ」店主が微笑んで言った。その声は心なしかいつもより低い。
馬鹿馬鹿しい。そんなものはアニメだけで十分だ。人を馬鹿にするのも大概にしてくれ。本條の腹の中で黒く熱いものがどろどろと渦巻き始めた。しかしどこか腑に落ちている自分もいた。まるで信じられないようなことを言っている店主の言葉を、無下に切り捨てることもできない。
「妖怪って……おとぎ話じゃないんですから」本條の言った言葉はどこか頼りなくすぐにこぼれ落ちた。
「この世界はおとぎ話だよ。ありえないことが平気で起こる。望んでいることだって、望まないことだって、本人の意志に関係なく起こる。君だって知っているはずだ。だって、僕よりも生きているのだからね」
本條の持つ花が一瞬真っ赤に染まって、再び色を失った。そしてゆっくりとカウンターに散った。
「なに言ってるんですか。俺は三十歳っすよ。店長より年下ですって」
「三十歳にしては、幼い顔つきだね」店主の声に温かさはなかった。
「今時、三十五歳でも高校生の役をする役者さんだっていますよ」
「じゃあ、高校時代の思い出はある? 中学生のときの思い出は? 小学校はどこに通っていた?」
本條は口を結んだ。必死に反論しようとしたが、どうも子どもの頃の記憶が思い出せない。まるでそこだけ切り取られてしまったかのように、いや、今日以前の記憶が砂のようにサラサラと少しずつ削られているように、判然としない。
「君は人間じゃない」店主が本條の手から花びらの散った茎を抜き取った。「君におまじないは必要ない」
次の日から、本條が桜屋に足を運ぶことは無くなった。
真っ黒な空から、真っ白な雪がしんしんと降ってくる。本條はあてもなく歩いていた。刺すような寒さなど今は感じられない。
店主の言葉は、素直に飲み込めるほど簡単な話ではなかった。そもそも脳みそが理解を拒む。君は人間じゃない。どうしてそれを「はい、そうですか」と飲み込めるだろう。店主のことは好きだった。つかみどころのない空気に、なぜか惹かれていた。自分の居場所になっていたのは否定できない。
しかし、今となっては店主と顔を合わせたくなかった。自分の胸の内を暴かれるのが怖かったから。
いや、本当は安心したはずだ。ずっと他の人とは違うことが、棘のように胸を刺していた。店主と話したときに、それが一本一本抜けていくように感じた。初めて本当の自分に触れてもらえた気がした。
でも、今までの自分が否定されていく気もしていた。本当の自分を知れたところで、押し殺してきた過去の自分の努力が報われない。
でも、いや、しかし。考えれば考えるほど、店主の存在感が本條の中で膨れ上がっていく。
いつもみたいに呑気な店主に話を聞いてもらいたかった。しかし、今の店主と話すことは、自分の身包みが剥がされるような恐怖があって、桜屋に近づくことすらできない。店主に助けを求めても、あの人は助けてくれない。アドバイスを求めても、あの人は聞かない振りをする。
白黒の世界は安心する。白か黒しかない。グレーの濃淡こそあれ、そこに大きな違いはない。
「おや、そこにいるのは誘拐犯くんかな」
背後から男の声が響いた。本條が振り返ると、そこには長身で少し細身の男が不気味な笑みを浮かべて立っていた。ゆるくウェーブした癖っ毛を耳にかけている。本條はこの男に見覚えがあった。「重慶……」
重慶は鼻で笑いながら一歩一歩本條に近づいていった。「杏ちゃんが代わりに捕まってくれたんだってね。はあ、彼女はなんて優しい子なんだろう」
警察の話によると、逮捕されたのは杏のみということだった。杏は取り調べの際に、「すべて自分がやったのだ」と自供していたようだが、状況証拠や彼女の供述には矛盾があるらしい。その後も真犯人が重慶であるということを本條が話しても、証拠不十分とのことで、取り合ってももらえなかった。
「ねえ、お金持ってない?」そういう重慶の目はどこか虚ろだった。足元もふらついている。「クスリ買いたいんだよね」
本條はふっとひとつ息をつくと、重慶の肩に手を置いた。一瞬、重慶に色が戻った。しかし瞬く間に再びモノクロになったが、重慶はそれに気がついていないようだった。
本條はそのまま重慶に背を向けた。「俺はあんたを許さない」
そうして本條は歩き続けた。あんなやつの世界に、色なんていらない。
どこからか桜の花びらが舞ってきた。
23
また春が来た。世界がパステルカラーに輝き始めた。浅縹色の空には雲一つない。薄桃色の花々が瑞々しく咲き誇っている。まだ少し冷たい風に、本條はコートの襟に顔を埋めた。
まもなく翔と朱里の母の命日だ。彼女に手向ける花を買うために、気分が乗らないまま、それでも本條は桜屋に向かっていた。今更桜屋に行ったところで、店主となにを話せばいいのかわからないし、そもそも店主が自分のことを覚えているかもわからない。でも、花を買うならどうしても桜屋でなければならないと思った。
三ヶ月ぶりに歩く桜屋までの道のりは、春なのにどこか鈍い色に見える。そしてなにより、いつもより遠く感じた。
「こんにちはーっす」
桜屋は、そこにあった。いつも通り、本條は店内に声を掛けた。しかし、店主も蛍もいない。電気も付いていない。どことなく埃っぽい。花もカウンターもリースも、なにもかも元のままなのに、人の気配だけが抜け落ちたようだ。
「店長? 蛍さん?」
返事はない。本條は胸騒ぎがした。二人はどこに行ってしまったのだろう。また二人揃って出かけてしまったのか。店を開けたままで、出かけてしまうなんて、まったく不用心だ。本條は仕方なく、駅前の花屋に向かった。そこで店員に見繕ってもらい、花を購入した。それを持ち、翔と杏がかつて住んでいた家に向かった。
彼らは、母が殺されてから近くの親戚の家に引き取られた。二人は定期的に、街で一番大きい大学病院に通っている。母の酷い最期を見てしまったのだから仕方がないだろう。それでも翔は学校に通い、朱里も元気に過ごしているそうだ。
そんなことを考えていると、いつの間にかかつての彼らの家の前に着いていた。彼らの家はすでに取り壊されていた。更地になったその土地は売地のままだ。本條はその庭の片隅にそっと花束を置いた。しゃがみ込んで目を閉じ、両手を合わせた。
本條は、翔と朱里たちの親戚の家に向かった。電車で少し行ったところに、その家はあった。割と古風で大きな家だった。門から伸びる敷石でできた道を歩き、玄関のチャイムを押した。すぐに年配の女性が出た。「はい?」
本條は慌てて軽くお辞儀をした。「あ、本條と申します。翔くんと朱里ちゃんはいますか?」
年配の女性は柔らかく微笑み、ちょっとお待ちくださいと家の中に入っていった。しばらくして、廊下をどたどたと走る音が聞こえ、まもなく翔と朱里が現れた。
「お久しぶりです」「ほんじょー!」
あまりにも明るい二人に、本條は驚きを隠せなかった。あれからまだ一年しか経っていないというのに、二人の明るさがむしろ不自然に思えた。目の前にいる二人は、本條に気を遣っているようにはまったく見えない。純粋に本條の来訪を喜んでいるように見えた。
「ここでの生活は慣れた?」本條は二人に聞いた。
二人はきょとんとした顔で本條を見た。翔がゆっくりと口を開いた。「僕たち、ずっとここに住んでますよ?」
本條は言葉を失った。母親を失ったことが、彼らをおかしくしてしまったのだろうか? 彼らがつらい気持ちになっていないというのは悪いことではないが、それにしても……
「さっきの人はおばあちゃん?」本條は平静を装って聞いた。
二人は元気よく頷いた。
「そっか。おばあちゃんとお話ししたいことがあるから、呼んできてくれるかな?」
すると、朱里は楽しそうに「おばーちゃーん!」と叫びながら家の中を駆けていった。翔は眉を下げながら本條を一瞥し、朱里の後を追った。
しばらくして、先ほどの年配の女性が現れた。本條は思い切って女性に質問した。「翔くんと朱里ちゃんは、どうしてあんなに元気なんですか?」
「それが、わたしにもわからないんです。母を亡くしたこと自体、記憶からすっぽりと抜けてしまったようで。毎月病院の心理カウンセリングを受けているとはいえ、あんなにも元気だと、むしろ心配で……」女性は微笑みを浮かべたまま言った。「まあ、ここで立ち話もなんですので、どうぞ」
本條は戸惑いつつも、家に足を踏み入れた。女性について廊下を歩き、リビングに入ると、すでに翔と朱里はソファに座っていた。「あ、きた!」
本條は翔の隣に腰をおろした。「久しぶりに二人の元気そうな顔を見れて安心した」
翔はうれしそうに笑った。「本條さんは、アイドル活動は順調ですか?」
「痛いところをつくなあ」本條は苦笑いした。「結局、桜屋の店長も蛍さんも、俺には栞をくれないから、まだまだ低迷してるよ」
翔は首を傾げた。「桜屋って?」
一年もしたら忘れてしまうものなのか。いや、でも俺と翔たちが出会ったのは桜屋だったと思うのだが。本條も首をかしげた。「朱里の誕生日にいっぱい花を買ったところが桜屋だよ。あそこで俺ら、初めて会っただろう?」
翔はさらに眉根を寄せた。「え、駅前の花屋って桜屋っていう名前でしたっけ?」
「桜屋は駅からだいぶ離れてるよ……。覚えてないのか?」本條は戸惑いを隠せずにいた。自分の記憶がおかしくなってしまったのだろうか。
そのとき、テレビ台の横に置かれた花瓶が目に入った。そこにはオレンジ色でどこか懐かしい匂いのまるで百合のような花と、紙細工のように薄く白く小さな花が挿してあった。「あれは?」
本條が指差した花を見て、朱里が身を乗り出して答えた。「あれね、あれね、なつにね、へんなおとこのひとにもらったの! ずっとかれない、まほうのおはななんだよ!」
ずっと枯れないことにも引っかかったが、それ以上にひっかかることがあった。「変な男の人って、どんな人?」
「しろいかみでね、へんなふくきてた!」
無邪気に話す朱里を見て、翔が頷いた。「白い着物なんて着て、まるでコスプレみたいでした」
店主だ。あんなインパクトのある見た目、一度見たら忘れるはずがない。でも、翔たちはまるで初めて会ったかのような言い方をしている。去年の夏も桜屋に入り浸っていたが、店主からそのような話を聞いた覚えはない。
「その人、なにか言っていたか!?」本條は思わず大きい声を出していた。
翔と朱里は目を丸くして固まっていた。
「あ、ごめん」本條はばつが悪くなり、肩をすくませた。「その人、俺の知り合いなんだ」
「んー、会ったのは去年の夏なのであんまりはっきりとは覚えてないですが」翔は腕を組んで考え込んだ。そしてなにかを思い出したかのように目を大きく見開いて本條を見据えた。「そうだ、すっかり忘れてた。その人から本條さんに伝言を預かってたんです」
「伝言?」そんなことしなくても、いくらでも店で話せるはずだ。
「えーっと、その人は、本條さんに会ったらこう伝えて欲しいと言ってました」翔は目を閉じて、記憶を遡ってるように見えた。そして、ゆっくりと言った。
冬の桜は、美しいよ。それじゃあ、また。
「なんだ、それ」本條は、少し呆れたように笑った。まるでもう会えないみたいじゃないか。
春なのに、色がうるさく感じた。
24
冬の桜は美しい。ただし、その桜を見ることは、禁忌だ。
枯れた山中に、白河と蛍は立っていた。水分を含んだ雪が舞っている。目の前には、二百年前に見た、あの桜が堂々と咲き誇っていた。大きな幹に、天を覆うほどの青白い花。冷たい風に揺れて、いくらか花びらが散る。雪と共に舞う花びらは、あまりにも幻想的で、夢の光景と勘違いしてしまいそうだ。
白河はぼんやり、月夜に浮かぶその光景を眺めていた。隣にいる蛍も顔を上げているが、その目は見えていない。
世界は変わらない。白河は、なにも言わずに桜を見ていた。
25
本條はカウンターの奥の特等席に座って、カウンターに頬杖をついていた。あれから何度も桜屋に足を運んだが、店主も蛍もずっといない。
「シャッターも開けっぱなしで、一体どこに行ったんだよ……」
頼まれたわけでもないのに、本條は桜屋の店番をした。花の名前は、相変わらずわからない。花言葉だってわからない。おまじないをかけるなんてもってのほかだ。しかし、その花を必要としている人はなんとなくわかる。
本條は店主がやっていたのを思い出しながら、花の世話をした。発注の仕方はよくわからなかったが、次の日に店に行くと、誰かが来ている気配はないのに、勝手に花が補充されていた。
「ここが桜屋?」
花の世話をしていた本條が声の方を向くと、そこには翔と朱里が店内をきょろきょろしながら立っていた。
「ほんじょーのおみせ!」朱里がはしゃいで言った。
「俺のお店じゃないんだけどね」本條は苦笑いして朱里を抱き上げた。「ちょうどよかった。一緒に花束を作ってくれるか?」
朱里はその言葉を聞いて目を輝かせた。「いいの?」
翔が申し訳なさそうに本條に目線を送った。それを見て、本條は笑った。「いいんだよ。どうせ店長はまだ帰ってこなそうだし。翔も一緒に作ろうぜ」
翔は少し照れながら、小さく頷いた。その様子を見て、朱里もうれしそうに飛び跳ねた。
「あの、こんにちは」
本條がカウンターでリースの作り方を二人に教えているとき、一人の女性が店内に入ってきた。
「あ、いらっしゃいませ」本條は慌てて立ち上がると、反射的に言っていた。
「あ、えっと、母の誕生日に花を送りたくて……」その女性はおずおずと言ってきた。
本條はその人をじっと見た。その人の言葉の裏側が、意図が、その本質が、色としてうっすらと見える。今まで見ないようにしてきた。しかし、今は違う。もう見えない振りはしない。
本條は店内にある花々から一本の花を差し出した。「これ、多分あなたにぴったりだ。お母さんに、いっぱいお世話になったんですね」
その人は、目を丸くした。目いっぱいに涙を浮かべてそれを受け取ると、深くおじきをして去っていった。
「あれ、カモミールですよね」翔が何の気なしに言った。「花言葉は……忘れました」
「翔はさ」本條はぼそっと言った。「冬の桜って知ってるか?」
「それってこの前の伝言ですよね」翔は顔を上げた、「桜が咲くのって、春じゃないですか?」
そうだよな。本條は呟いた。冬の桜は、美しいらしい。たとえそれを見ることが禁忌であっても。
