外野は静かに。
(画像)2023年冬、TX北千住駅を発車する列車。
2023年に放映されたドラマ作品「ペンディングトレイン」。
あらすじについては割愛させていただくが、その現代編で描かれた風刺が2年たった今でも世の中を風刺しているようで常世の悪習慣の変わらなさに頭を悩ます。
ドラマ内では、荒廃した未来から帰ってきた主人公たちがその事実を周囲に明かすのだが、それがSNSに広まると批判が殺到。おまけに陰謀論とラベリングされ、ついに消防士である主人公の職務妨害を行い、さらにその静止する様子を拡散してSNS上で炎上させられてしまう。また別の乗り合わせた美容師の乗客は最終回、勤務先の美容室を閉じるとマスコミや迷惑系インフルエンサー、さらには陰謀論信者が集まり取り囲まれ、彼は心の中を叫んで静かに去っていった様子が放映された。(はず。記憶が定かでないので誤りがあるのかもしれない。)
こういった様子はある意味視覚効果とするためにある程度誇張をしているとはいえ、現代のこの「外野が騒ぐ(ガヤ)」構造を見ると何とも言えない気分となる。
望ましい和解のためのコミュニケーション
本来こうしたことは当事者、または当該事象と別の当事者との間の問題であるはずでそこに外野が入り込む余地はない。それはたとえ社会的制裁というものであったとしても、限度がある。そして現代はそれが過剰だ。
私もよくDiscordでトラブルは起こすが、そういったときは必ず運営なり信頼できる中立の方へ仲裁をお願いする。無論それで自分が悪い、相手と自分どっちも悪いなんていう両成敗になることもある。けど結局これらは相手-仲裁人-私というシンプルな図式で収まるはずである。仮に相手や自分に味方する人がいたとしても、結局この図式を壊すことはできない。Discordという閉鎖的環境が、「洞窟の中の闘争」を外に漏れない「鉄壁」を作り上げている。
図式で整理しよう。
事象(相手方)-仲裁者-当事者
本来なら仲裁から和解へ導くためにはこのようにするのが望ましい。
問題を複雑にする「ガヤ」
本来ならペンディングトレインも同様で、「起こりうる事象-警察や政府機関、帰還者の周囲にいる人物-帰還者たる乗客たち」 という図式で本来処理すべき事案であった。だが、開放的なSNSというものはこれを見事にぶっ壊す。第三者、ならぬ"第四者"”第五者”が平気で殴り込みに来る。(本来の第四者の意味とは全く異なるが、便宜上このNoteでは以下このように定義づける。違和感を感じるかもしれないがどうか耐えてほしい。)すなわち、その問題に対し別の問題を引っ張ってきて場外乱闘を展開するということである。その異常さは図式化すれば厄介さが見えてくるだろう。
すなわち、こうである。
事象-仲介者-当事者
↑ ↑
第四者⇔第四者
何ということだろう、。当事者・仲裁者にそれぞれ槍を投げてくるものがいる出ないか。そしてその第四者はその第四者間で静かなる闘争を巻き起こしている。仮に、事象が人物であったり何かしらの制度の不備であったら、この構造はさらにカオスを極める。
事象反対=(?)= 仲裁者賛成=?=当事者賛成 = 外野反対
↓ ↓ ↓ ↓
事象 - 仲裁者 - 当事者 ←立場不明な外野
↑ ↑ ↑ ↑
事象賛成=(?)= 仲裁者反対=(?)=当事者反対 →畏敬
これを読んで読者は「何言ってんだお前」になっただろう。
申し訳ないが、図を作った私でさえも理解できない部分がある。(作った張本人が何を言っておる。)
ただ、少し解説させていただくと、事象に対して賛成者・反対者がそれぞれ外野としてスタンバイしているが、仲裁者含めそれについて外野でとやかく言う者者同士は連携しているようにみえて連携していない。おまけに過激派であったりネタにして嘲笑したりとまったくもって意味不明なことをする外野までいる。もはや現代病とまで言えるのだろうか。
総括すると、I,You, and They (あなたと私、そして彼ら。)という方式が完全に壊れてしまっている。本来Theyは仲裁に立つべき人物だが、この図の通りTheyが多方面に分離してしまっており事象に容易に太刀打ちできない。コミュニケーションが当事者に留まらない形で破壊されてしまっている。
もちろん、SNSがない時代でもガヤ(ここではその他大勢のやかましい人という定義とする。)の役割を果たす第三者はいた。だが、リアルな関係である以上仲裁者としてある程度活躍はできていたはずである。しかし現代のガヤは全く違う。肖像権はパブリシティー権に吸収合併でもされたのかというくらいに仲裁をしないガヤとなっている。
「九九」を覚えることで例えてみる。
これは余談になるが、SNSが強くなる場面はやはり事象への仲裁者が強固になることでないかと考える。つまりそれは協力(助け合い)といえる。小学校で例えるならば、当事者が算数の九九がわからないからと、わざわざ先生や級友が81個のマグネットおはじきで付き合ってくれることではないかと考える。だが、ガヤが入るとこうはいかない。とはいえリアルのガヤは九九ができないことへの見下し程度で済む。
が、SNSのレベルになってくるとここに教員の過労問題や級友のスケジュール調整の問題を引き合いに出した挙句、おおよそ人間とは思えない言葉の使い方をして九九を優しく教えている机の周りで昼夜罵倒をする。中には本来罵倒語でない言葉を転用するケースまである。逆にそういった人々を厳しく非難する声も出てくる。だがその人たちが当事者や仲介者となっているその本人たちの味方であるなんて保証は、どこにもない。
コミュニケーションはリスクとなった。
なぜ人はそこまで相手を陥れたいのか。私にもわからない。だから私も失敗する。けれどもそれに気付いた時、素直になって和解するには第三者が必要だ。だが、ガヤがひたすら騒ぐ構造では第三者も敵役に見なされてしまう。ここが厄介であり、実際のコミュニケーションやDiscordなど1対1でぶつかり合えるSNSとの大きな違いである。おまけに現代はこうしたコミュニケーションさえ拡散し炎上すればガヤが集い収拾不能になる。たとえ炎上が沈下しても、嫌悪は継続する。なにか些細なことでもその”アンチ”たるガヤは簡単に反応してしまう。
こういった人間のコミュニケーションさえもリスクとなってしまったのが現代の世の中である。ドラマ「ペンディングトレイン」でも未来から帰ってきたという事実を述べたなのに、それがいつの間にか炎上となり嫌悪となり陰謀だというアンチのフィルターバブルを形成した。
まさに悪夢である。
「口は禍の元」が過剰反応を引き起こしかねないトリガーとなっているのがこの常世というべきところか、、。
