「書いてある」と「動ける」は、別の話だった
説明しているのに、なぜか伝わらないことがある。
資料も作った。手順も書いた。必要な情報も入れた。完璧のはず、それなのに相手から質問が返ってくる。あるいは作業が途中で止まってしまう。
たとえばこんな経験はないでしょうか。
「これはどの環境で実行するんですか?」
「正常終了は何を見れば判断できますか?」
「このエラーが出たら続けていいですか?」
書いた側からすると「そこも説明したつもりだった」と思う。でも読む側は、そこで判断が止まっている。仕事で資料や手順書を作っていると、このズレはけっこう起きます。

最初は「自分の説明が下手だったのか」「文章をうまく書かないといけないのか」と考えてしまう。もちろん、話し方や文章力がまったく関係ないとは言いません。でも最近は、もう少し手前の問題だと思うようになりました。
説明は、自分がうまく話すことではない。相手が理解できる状態を作ること。
この考え方が、自分の中にずっと残っています。
「書いてある」と「動ける」は、別の話
手順書の中身が正しくても、読み手が動けない場面がある。
作業内容は書いてある。コマンドもある。確認すべきログも書いてある。でも初めてその作業をする人には、それだけでは足りないことがある。

なぜこの作業をするのか。作業前に何を確認しておくのか。どの状態なら正常と言えるのか。想定外の表示が出たら、続けるのか止めるのか。どこから先は自分で判断せず、確認を取るべきなのか。
こうした「普通わかるだろう」が、書き手にとっての当たり前になっている。経験が長くなるほど、その当たり前は手順書から抜けやすい。若手や別チームへの引き継ぎで、それが表面に出てくる。
自分も、手順としては正しく書いたつもりなのに、作業者から「どこまで進んだら完了と判断すればいいですか?」と聞かれたことがある。確認する画面もログも書いてあった。でもそれが「正常かどうかの判断材料」としては、まだ足りていなかった。
レビューで指摘を受けたり、質問が返ってきたりすると、最初は「ちゃんと書いたのに」と思う。でもあとから見直すと、読み手が判断するための材料が足りていない。そういう経験を何度かして、説明は文章のきれいさだけではないと思うようになった。
相手がわかっていないのではなく、こちらが相手の前提を見ていない。そこから整えていく必要があると思っている。
幹・枝・葉の順で整える
この問題を整理するとき、「幹・枝・葉」の順番が助けになります。
幹は、何の話なのかというゴールと目的。枝は、どんな観点があるかという全体の流れ。葉は、具体的な操作手順や補足。
この順番が逆になると、読む側は葉っぱばかり見せられて、木の形がわからなくなる。細かい手順が並んでいるのに全体像がつかめない状態は、読み手を止める原因になりやすい。一見丁寧に見えても、読み手にとっては親切ではない。

自分の資料や手順書を見返すと、ここを抜かしていることがけっこうある。いきなり細かい作業から入っていないか。最初に「これは何のための作業なのか」が置かれているか。そこを意識するだけで、伝わり方は変わる。
手順書は、実際に使われてから見えてくる不足も多い。質問が出た箇所や作業が止まった箇所を直していくことで、少しずつ使える資料に近づいていく。
文章力より、順番と前提の設計。
「説明しました」「資料に書いてあります」と言いたくなる場面はある。でも、それだけでは相手が動ける状態になっているとは限らない。
相手は次に何をすればいいかわかっているか。途中で止まったとき、判断できる材料があるか。そこまで見て、ようやく説明として機能していると言えると思う。
次に手順書や資料を作るときは、「ちゃんと書けたか」だけでなく、「相手が止まらずに進めるか」を見直してみたい。説明は、そこから少し変わる気がしています。
関連記事・マガジン
読んだ本を、仕事や生活にどうつなげるかを少しずつ書いています。
読書感想や言語化の記事はこちらにまとめています。
https://note.com/komugi_0121/m/m8b60f87451b5
