「努力不足」という言葉の都合の良さ
一般的に努力不足という言葉は、勉強であれ仕事であれスポーツであれ成果を出せなかった人間に対して使われる事が多い。確かに何も頑張らず工夫もせず成果を出さないという人も存在する。しかし問題はその努力不足という言葉が往々にして立場が上の人間が成果が出せない人間の方法や環境などの原因、背景について一切見ずにその言葉を使っている事である。
努力の量と方向の概念の取り違え
努力という言葉は現実世界、マンガ、小説問わず頻繁に使われる。
コトバンクのデジタル大辞泉によると努力とは
ある目的のために力を尽くして励むこと。
と定義されている。この力を尽くして励むという定義が実に曖昧で、例えばAさんにとって力を尽くすという概念が100の力を尽くす事とすればBさんにとっては150の力を尽くす事と人によってその基準が大きく異なってくるのである。そもそもこの「力」というものが物理学の引力とか重力とかの力とは全然違うもののため数値化できない。
加えて目的を果たす、あるいは成果を出すというのはその手段や方向性を正しく向けなければならないため目的のスケールが大きくなるほど難易度が上がる。つまり努力してもそれらが間違っていれば成果を出せない事となる。例えば100m穴を掘るのにスコップで掘り続ける人は目的のために力を尽くしてはいるものの手段が非常に非効率的なためよっぽど体力が有り余っている人でない限りいずれ疲れ果てて目的は達成できない。逆にアースオーガー(穴掘り機械)を使って穴を掘る人は機械を操縦するという労力だけでその目的を果たせる事となる。
言い換えれば成果を出せない人の多くは成果を出すための正しい手段・方向性を考えなければならないにも関わらず、多くの場合その目上の立場の人間、あるいは野次馬は努力(の量)不足と片付けているのだ。特に先輩や上司は結果の原因を分析して相手にフィードバックする事が必要だ。にも関わらず多くの場合それをせず結果論のみで毀誉褒貶されている事例はあらゆる組織で見られる。特にJTCお前らの事だよ!
努力以外の要素を全無視するのはただの思考停止
ここでは簡単な例を挙げたが、実際の目標を達成するための手段は小学校、中学、高校、大学、社会人と歳を重ねるほど複雑化して見えにくくなってくる。さらに現実世界での目標達成に必要なものは個人の努力だけでなく環境、遺伝、事故や病気などのアクシデントが無い事、障害などのハンディキャップを抱えていない事など数多くの要素が必要なのである。
これらの要素を総合的に考えず成果が出ない、あるいは勝負の世界で敗者となった人間を努力不足の4文字で切り捨てるのは思考停止、物事を全体像でなく部分でしか見ていないと言わざるを得ない。これは現実世界に限らずネットでも同様の事が言えて、一部SNSのコメント欄は特にひどくスポーツ、弱者の末路系などジャンルを問わずその世界での「敗者」となった者を我慢が足りないだのわがままだの本人の努力不足として叩くコメントが沸くように散見される。逆に言えばそれだけ全体を見ず部分でしか判断できない人間が多いという事だろう。
努力不足という言葉は合法的な攻撃手段
タイトルにも書いたが、努力不足という言葉は実に便利だ。結果が出ない、負けた側の人間のその原因を本人の自己責任=怠慢とすれば自分の攻撃を怠慢に対する叱責、あるいは分析として正当化できるからだ。もちろん本当に本人の明らかな怠慢で結果を出せなかったり敗者となるケースもあるが多くの場合努力不足それだけが原因となっている事象は非常に少なく遺伝、環境、トラブル、社会情勢等多くの事象が重なり「結果」として現れる。

これは「努力 遺伝子」でGoogle検索するとAI回答として出てきたものなのだが、実は社会の勝ち組サイド(あるいはネットの自称勝ち組)が大好きな努力も3〜5割が遺伝が関係している。一応ここには環境設定や目標設定でカバー可能と書いてあるが、逆に言えば努力できない遺伝子を持った人の場合そのような環境サポートが必要であり本人の努力だけで何かを成し遂げるのは非常に難しいのである。
つまり社会的強者もネットの自称勝ち組も勝ち組になれたのは別に本人の努力だけで成功できたわけではなく環境やその方面での才能、当時の社会情勢、対応不能な不測事態の無さなどの要素において総合的に恵まれていたから成功できた側面が大きく、極論その本人努力ですら3〜5割は遺伝のおかげと言えるのだ。野原ひろしの「自分1人でデカくなった気でいる奴はデカくなる資格は無い」という言葉はその意味でも正しい。

結局努力不足で切り捨てる事しかできない人間はその努力という一要素でしか物事を考えられないほど普段から浅い思考しかできないのだろうし、単に自分が勝ち組である事を相手に誇示したいだけなのだと思う。まあこういう奴らはほっといて良いと思うけどね。これだけ思考能力が無いとこれからの大動乱時代いつか勝手に詰みそうだし
終わりに:世間は努力を美化しすぎている
こうした努力という言葉がプラスの意味であれマイナスの意味であれやたら使われるのは有名なスポ根漫画等で努力という言葉が神格化されすぎているという背景もあると思う。主人公が最初は勝てなかった敵(ライバル)に努力を重ねて勝てるようになるという感動構図の人気漫画がたくさんあるためそれに感化され努力は裏切らないとか努力するのが大事という考えが固定化され次第にそれらが絶対的なもの、人々の常識や共通認識として根付いたのだろう。
しかし世の中面白いもので仮に勝ち組になれなかったとしても生きていくだけなら割と簡単にできるシステムになっている。多くの人は何だかんだ色々あれがしたいとかこういう生活がしたいという欲があるからそのために何らかの努力をするわけだが、別に何かしたい事が特別あるわけでなければ犯罪行為や迷惑行為等をするのでなければ努力しない生き方というのもあって全然問題無いと筆者は思うのである。
これは筆者が怠惰だから余計そう思うのだが、努力とは前述したようにある目的のために力を尽くす事のため極論その目的が無ければ別に努力とかしなくて良くね?というのが筆者の考えだ。ちなみに筆者の場合は小説の執筆など好きな事を仕事にできるようになる、趣味や自分の脳内世界にのめり込める生活ができるようになる事が目標だが目標自体が抽象的なため自分でもできているのかできていないのかよくわかっていないしそのためにせっせと安月給ながら働き雀の涙程度の貯金を毎月しているのが努力と言えば努力と言えるだろう。まあ一つ言えるのは社会貢献する気とビッグになる気は全然無いという事だ
話があちこちに飛んだが、一つ言える事は努力とは自分の意思でするものでありそれを他人が強制するものではない、もっと言えば努力しない人間をそれだけで否定する社会はおかしいという事だ。そして敗者側の人間を努力不足の一言で片付け嘲笑し自分が勝った気でいる奴らは思考放棄した愚か者であり、もっと言えば努力しないという選択をする人間をバカにしたり批判する資格は誰にも無い。
オチとして少し哲学的な事を言えば、その努力してない人間だっていかに努力しないで楽に生活できるかを考える努力をしてるかもしれないだろ?つまりそういう事だ。
