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家庭内トリアージ

「こうめい、お願いがあるっちゃん。」

リビングの明かりを消して寝室に向かおうとしていたそのとき、妻は神妙な表情をして僕を呼び止めた。どうしたのと聞くと、妻は一度うつむいた後に僕の目をしっかりと捉え直し、それから静かにはっきりとこう言った。

「もし、万が一、何かがあって、私と◯◯(子)のどっちかの命を選ばんといけんくなったとき、そのときは◯◯のことを選んでほしい。」

それはただの気まぐれや戯れのようなものではなかった。確かな思考の末に生まれた妻の本物の気持ち、そして切なる願いのように感じられた。子の命を、子の人生をとにかく繋ぎ続けてほしい。涙ぐむその表情を、僕は不謹慎にも美しいと思ってしまった。

何てことを言うの。

内心ではそう思ったけれど、僕はそれを静かに飲み込んだ。妻の言葉が本心からきているものだということが十分に分かったし、僕も自分の場合で考えたとしたら妻とまったく同じことを言うだろうと思ったからだ。

それでも「妻を選ばない」という未来のことを想像しただけでとても耐えきれなくなってしまったので、君の願いは十分に理解したということ、最終的には言うとおりにすると約束すること、ただし、最後のぎりぎりのところまでは君と子の二人ともが一緒に助かる道を探し続けるからねということを、言葉を間違えてしまわないようにできるだけゆっくりと伝えた。究極の場合の選択について話しているわけで誠実な答えじゃない気もしたが、どうしてもその「究極の場合」というものから思考を退けたい気持ちがあった。

妻は最後まで話を聞き、僕の意見についても理解を示してくれた。それを受けて、僕はもう一度頷いた。

二人で子が眠っている寝室へ向かう。子の寝顔を確かめ、その横にいつもの並びで僕たちは寝転ぶ。寝ている子へ順番におやすみと言い、それからお互いにおやすみと言い合った。妻の額に手をあてる。その温かさを感じながら、僕はまぶたを閉じた。


トリアージ。それは災害現場や救急医療の場で、患者の重症度や緊急性に応じて「誰から治療するか」を判断して優先順位をつけるという考え方だ。限られた医療資源で一人でも多くの命を救うということを目的としている。トリアージは決して「命の重さ(価値)」を区別しているのではない。命の状態を客観的に判断し、それを一つでも多く救うために「合理的な順番」を判別しているのだ。

「家庭内トリアージ」

前夜の出来事を反芻しながら、僕の脳内にはそんな言葉が浮かんでいた。命の重みそれ自体が平等であるということは、妻も僕も同様に分かっている。妻は自分の命をないがしろにしているわけではなく、ただただ、命を繋ぎ止めるという場面においては自分の命ではなく子の命を "先に" 選んでくれ、とそう言っているのだ。たとえその結果、自分の命が絶えてしまったとしても。

そういえばと思い出したのは、妻がまだ子を妊娠しているときの話だ。

「万が一、出産に際して何か良くないことが起きてしまって、君か子かどちらかの命を選ぶよう僕に委ねられた場合には、僕は君の命を選ぶからね。」

臨月を迎えた妻に対し、僕はそう伝えたことがある。

子が生まれここに確かに存在をしている今、もう一度そのことを考えるのは精神的に難しいけれど、事実としてあるのは、そのときはそうとしか考えられなかったということだ。念のために書いておくと、それは子の命の重さを軽んじていたというわけでは決してない。家族の形をその後の人生において続けていく上で、妻がそこにいないというのは考えられなかったという、ただただそういった意味だ。

トリアージという言葉の定義に沿うならば、それが「合理的な判別」だったかと問われるとちょっと怪しかったかもしれない。「感情的な判別」の色が濃かったようにも思う。
それでもあの当時の僕にとっては、妻がいなくなるということは到底考えられるものではなかった。君がいなければ意味がないじゃないか、と心底そう思っていた。

最初、妻は完全に納得した風ではなかった。お腹の中に子を抱えるその母性が既に子を守ることを優先しようとしていたのかもしれない。それでも対話を重ねていくうちに、一定の理解を示してくれるようになった。

…書きながら苦しくなってきてしまった。違うの。妻の命も子の命も、どっちも大切なの。

でもその上で、家庭内トリアージについて事前に話し合っておくことも同じく大切なことだと思っているわけだ。いつどうなるか、いつ究極の選択を迫られるか、それは本当に分からない。だからこそ、そのための準備を落ち着いた精神状態で事前にやっておくということは──もちろんそれは心苦しくはあるのだけれど、とても重要なことだと感じている。


親になったんだな。

この一年間の中で、そう感じる場面がとてもたくさんあった。

もうすっかり冷めてしまったご飯を妻と二人で食べたとき。
コーヒー豆を夜に挽かなくなったとき。
仕事中にふと「バナナを買って帰ったらよろこぶかな」と考えたとき。
特に何もせず家で過ごすことにしあわせを感じたとき。
うちの玄関の前で水遊びをしたとき。
母の日や父の日を祝い合ったとき。
誕生日や記念日の過ごし方が変わったとき。

僕たちは「親になったんだな」とつくづく感じたものだ。

そして今回、家庭内トリアージが変更になったときもまたそのことを強く感じたのだった。自分の命よりも譲れない、文字どおり死んでも守りたい命があるということ。それは極めて親だった。産院から子を家に連れて帰ってきたとき、「この子の親を全うできるだろうか」と些かの不安を感じていた。でもそんな僕たちを、子はいつの間にか親にしてくれていた。
本当にありがとう。



子へ。
どうかこれからも元気でいてくれよ。

それが今の僕たちの家庭内トリアージ。
この希望の宝を一緒に守り抜いていこう。

手を取り合いながら、僕たちは親を駆け抜けていく。今日も明日もあさっても。

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