古川のおばちゃん
反対車線から絶え間なく走ってくる車のその僅かに空いた車間を見計らって、母が運転するヴィヴィオちゃんはようやく路地の方に右折をした。道幅に似合わずなぜか車の往来が多い通りで、タイミングを計るこの時間はいつも多少の緊張が走るが、曲がりさえすればもうそのすぐ右手には古川のおばちゃん家があった。
玄関前のわずかなスペースには既に二台の車が停まっていて、その二台の間にある僅かな隙間に母は無遠慮にヴィヴィオちゃんを頭から突っ込む。サイドブレーキを勢いよく上げ、車から降りる。その小さな車体のお尻の方を確認すれば、路地にはみ出しているのはほんの少しだ。これならオッケー。古川のおばちゃん家に無事到着である。
玄関をガラガラと開けると、母の同僚である古川さんがいつも僕たちを出迎えてくれる。入らんね、と呼ばれるや否や靴を脱いで居間に向かえばそこにはどしんと古川のおじちゃんが座っていて、間も無く奥の台所の方から古川のおばちゃんがひょこんと顔を出す。「いらっしゃい」と、二人は順番に言い、やさしく笑った。
古川のおばちゃんは大きなホットプレートを食卓の上に置く。また台所に戻り、今度はトロトロの生成り色をした液体が入ったボウルを持ってくる。続いて豚肉やらキャベツやらネギやら天かすやら、──それはもう僕たちにとっては馴染みの食材たちを台所から次々と運んできた。
「焼こうか。」
古川のおばちゃんは鉄板の上にトロトロの液体を薄く広げた。その上には先ほどの食材たちが、決められた順番のとおりに重ねられていく。ひっくり返す。キャベツが散る。古川のおばちゃんはニコッと笑い、「腹へったろ。」と僕に言った。
古川のおばちゃんの家に行くということはすなわち、お好み焼きを食べに行くということだった。どのくらいの頻度で行ってたのかまったく覚えていないけれど、母と二人暮らしをしていた頃も行っていたし、母が父と再婚し、その後弟が生まれてからみんなで行っていた記憶もあるから、長いことお世話になっていたのだと思う。
僕が住む地域の "家庭料理としてのお好み焼き" といえば、具材を混ぜ込んだ生地を焼く "関西風" が主流である。古川のおばちゃんのお好み焼きは、薄く伸ばした生地の上に具材を層のように重ねて蒸し焼きにする "広島風" だった。そういった違いのようなものがあるということを知るのは後に大学生になった僕が初めてのアルバイト先としてお好み焼き屋で働くようになってからなのだが、いま思えば、どうして古川のおばちゃんのお好み焼きが "広島風" だったのか少し不思議な感じもする。ただ、そこにどんなルーツがあったかなどは知らないままに、僕にとっての「お好み焼き」というのは古川のおばちゃんが作るそれでしかなかった。
お好み焼きで腹が膨れたあと、古川のおばちゃんは食後のデザートとしてたくさんのイチゴを食卓に運んできた。
みんなで一つの大皿に載ったイチゴをつまんでいるとき、「イチゴは好きか?」と古川のおばちゃんに聞かれた。うんと頷くと、真剣な顔で「それやったら、そんなちまちま食っとったらいかん。他の人にたくさん食べられてしまうぞ。両手を使って交互に食べたらいい。」と教えられた。古川のおばちゃんが小気味よく実演をする。またニコッと笑い、「やってん。」と僕に促す。
右手でイチゴを掴む。
口に入れるタイミングで左手を使い次のイチゴを掴む。
左手のイチゴを口に入れるタイミングで今度は右手で次のを掴む。
交互に繰り返す。
なるほど確かに、誰よりもたくさん食べられそうだ。そう思った。そんな僕のことを古川のおばちゃん、それから古川のおじちゃんや古川さんも、微笑ましそうに眺めていたのだった。
小学校を卒業してから、僕は引っ越しをした。古川のおばちゃん家も少しだけ遠くなってしまったから、多分そのあたりからお好み焼き会はなくなってしまったのだと思う。
接点が何もない期間というのは驚くほどあっという間に過ぎてしまう。僕はいつの間にか大人になっていたし、古川のおばちゃんとおじちゃんは僕と同じように十数年分の歳を取っていた。
久しぶりに古川のおばちゃんに会ったのは、とある病院の病室だった。古川のおじちゃんが入院していて、妻と一緒にお見舞いに行った日だ。その頃の古川のおじちゃんは「もう長くない」という宣告を既に医師から受けていた。喉に管を通し思うように喋れないその痛々しい姿を、僕は思うように直視できないでいた。
目を逸らした先には古川のおばちゃんがいた。僕に「ありがとうね」と小さく呟く。古川のおばちゃんも憔悴しているように見えた。あとで古川さんと話したときに「おばちゃんも弱ってこらしたよ」と悲しそうに言っていたのを覚えている。お好み焼きを振る舞っていた頃のあの快活な姿は確かになく、人は例外なく老い衰えていくのだということをしみじみと感じたのだった。程なくして、古川のおじちゃんは亡くなった。
その少し後に僕はカナダに移り住んだ。隣町への引っ越しどころか国境を越えてしまったため、当たり前にこれまで以上に会う機会がなくなっていた。いや、思い返せば、こっちに来てからの4年間で古川のおばちゃんには一度も会えていなかったように思う。
数日前、母からLINEがあった。それは、古川のおばちゃんが亡くなったことを伝えるためのものだった。
連絡を受けたとき、僕は「そうか」と思った。当たり前に悲しい出来事なのだけれど、悲しむには会わないままでいた期間があまりにも長すぎた。亡くなる直前の古川のおばちゃんの顔だって知らない。僕が鮮明に思い出せる古川のおばちゃんはもっと昔の、屈託のない笑顔で僕を可愛がっていたあの姿だけで、だからどうしたって実感が伴わないのだ。
人は例外なく老い衰えていく。そして、いずれ死んでしまう。ただそのことが分かっただけだった。あまりにも救いがないだろうか。でも嘘みたいに悲しむよりかは幾らかちゃんと人間らしいようにも思う。
そこからの数日間、僕はずっと冒頭に書いた記憶のようなものを思い返している。書かなかったが他にも、スーファミのぷよぷよを一緒にプレイしたこと(古川のおばちゃんは異常に強かった)や、お好み焼きだけじゃなくネギ焼きも相当に美味かったこと、二階にたんまり置いてあった手塚治虫の「ブラック・ジャック」を引っ張り出してきては好んで読んでいたこと、読んでいるときに「あやん難しか漫画ば楽しんで読みよるなら、こうちゃんは賢くなるやろうねぇ」と大人たちが小声で感心しているのを聞こえていないふりをしながらも内心よろこんでいたことなど、古川のおばちゃん家にまつわる思い出がいくつか鮮やかに残っているというのが分かった。もちろんこの記憶だっていつかは忘れてしまうのかもしれない。でも未だに鮮明に思い出せるということは、あの時間が自分にとってとても大切なものだったからに違いないだろう。
ならば、それだけでいいのかもしれない。これからも僕はこの記憶を大切に抱えていくし、僕がそうあり続ける限り、古川のおばちゃんはあっちできっとニコッと笑っていてくれるだろう。そうであればいい。
古川のおばちゃん、大切にできる思い出をくれて、本当にありがとう。ちょっと先になると思うけど、またお好み焼き食べさせてね。
