感情って、弾けるときがある
野やぎさんのエッセイ「ポップコーンが弾けるとき。」の感想を書いていく。
(まだお読みになっていない方はこちらから。)
野やぎさんを知ったのは6月の終わりのこと。創作大賞に携わった人間のもれなく全員が読んだであろうとんでもない記事がきっかけだった。
300作…………300作!?
常軌を逸していると思った。開いてみたら、過去の創作大賞でも感想記事を書いていた方だと分かる。2024で100作、2025で200作、そしてその流れで、今年が300作と。やばすぎる。数ある形容詞の中で「やばい」が一番しっくりくるのもやばすぎる。
「なるほど、盛り上げ担当の方なんだな。」
それが野やぎさんの第一印象。創作大賞が一部で「お祭り」と呼ばれていることもあり、その祭りの賑わいを最大化する役を担う人。実際、書き手は感想をもらえると嬉しいもので、300いる作者を喜ばせ得る記事を投稿した事実を考えれば、その盛り上げの貢献度の高さは言うまでもないだろう。
とんでもない人がいるもんだ。そう思った。ただその5日後、Xに流れてきた野やぎさんのエッセイ「ポップコーンが弾けるとき。」を読んで、僕はまた野やぎさんに対して別の "とんでもなさ" を感じることになる。
当エッセイは、二つの時間軸を交互に描写していく構成だ。一つは「Googleマップに保存した場所に行くまで」の時間軸で、もう一つは「ポップコーンを収穫するまで(と、その後)」の時間軸。序盤はそれぞれに書かれている描写の接点が掴めないまま話が進んでいく。ポップコーンを育てる過程は突拍子のないもののように思えるが、終盤にかけて二つの時間軸が交わるそのとき、必要不可欠な描写であったことがはっきりと分かる。
このエッセイの感想文を書くにあたってまず触れるべきは、その構成力の高さであろう。
一見関係のないような二つの話を一つのエッセイの中で、交互に、並行的に書いていく。その二つが最終的には交わるように進めていく。
頭では理解できる。が、いざ書こうとするとそれが決して簡単なものではないことが分かる。単純にケアすべきポイントがたくさんあるからだ。どのタイミングでもう一方の時間軸に切り替えるか。どの段落で、どのくらいのことを描写するか。感情の動きをどのように表現するか。読者をいかに離脱させないか。どこで合流し、どのように締めていくか。
当エッセイ「ポップコーンが弾けるとき。」は、これらがとにかく最適なバランスを保っている、そんな作品に思えるのだ。緻密に練られた文章だが、作り込み過ぎたときに出がちな「きれいすぎる感」もない。その塩梅も含め、文章の組み方がとにかく巧いと感じた。
僕は頭からズンズンと書き進めていってしまうタイプなので、個人的にはこういった緻密さとバランス感覚が喉から手が出るほど欲しい。野やぎさん、ください。
野やぎさんの文章の良さに関してもう一つ触れておかねばならないのは、その筆致の柔らかさだろう。このエッセイにおいても、そのやさしい言葉選びがしっかりと際立っている。
ポップコーンのもとは、とうもろこしである。その名も「爆裂種」といい、名前からしてなんとも楽しそう。なにそれ。爆裂て。
「ねぇみて。いま、時速300キロで歩いてるよ」
トイレの帰り、デッキで長男がつぶやく。
たしかに。
速すぎて、ゆっくりにしか見えないね。
あたり前のようにいつか再会して。またくだらないことで笑ったり、ごはん食べたり、遊びにいったり、最近どう?とか聞いたりさ、ずっとなんとなくそんな感じが続いていくと思ってたよ。
筆跡がその人の性格を表すというように、筆致についても同じだと僕は思っている。柔らかい文章を書く人は、きっと性格も柔らかい説。たぶん、間違っていないと思う。
もちろん、柔らかいのがよくて鋭いのがダメだということではない。ただ、野やぎさんの他の文章を読んでも分かるけれど、野やぎさんの柔らかさって、やっぱり優しい感じがするんだよな。優しいって、めっちゃいいことです。それは、はっきりとそう思う。
柔らかさを演出している一つの要素は「閉じ・開き」だろう。閉じるとは漢字で書くということ、開くとはひらがなで書くことを指す。
野やぎさんの文章は「開き」の塩梅が絶妙。ゆえに、柔らかい印象を受ける。
この「閉じ・開き」というのは、単に開けば開くほど、閉じれば閉じるほどいいというわけではない。自分がその文章で伝えたいことの雰囲気に合わせバランスを決めるのが大切だ。当然「どちらかというと開き寄り」、「どちらかというと閉じ寄り」のような幅もあるわけで、そのバランスの調整というのはなかなか繊細な作業と言える。
野やぎさんのそれは、何というか、「いやらしくない」。前述した構成についても同様だが、本当に、バランスを取るのが上手な方なんだなと思う。
押し込めていた思い出が、一気に弾ける。
もう、止まらない。
Googleマップに保存した場所は、Uちゃんが眠っているお寺。嘘だと信じたい思いに反しその墓石はしっかりと見つかってしまい、著者の心にはこれまでのUちゃんとの思い出が駆け巡る。
ここで「(思い出が)弾ける」という表現を選んだのは流石としか言いようがない。感情がポップコーンのように弾けては湧き出てくる感じ。ただの言葉遊びとして「(ポップコーンが)弾ける」と掛けたかったわけではなく、本当に、ちゃんと弾けていて、そのことを実直に描写したかったんだと思う。
そうそう、感情って、弾けるときがあるんだよな。その言葉選びに感服しながら、僕はうんうんとしきりに頷いていた。
最後に。
このエッセイは、著者にとってすごく大切で意味のある文章なのだと推察する。そうであれば、このエッセイを「創作物」として見られたり、文章を書く技巧という点にフォーカスして感想を受けたりするのは、著者にとってはもしかすると不本意なことかもしれないなと、そういうことも考えた。
だから感想をどういった切り口で書くかはいろいろと迷った。内容にフォーカスをして、感情ベースで寄り添いながら感想を書くことも考えた。
けれども、感想を書くために何度もこの文章を読み直したとき、やっぱり文章としての "とんでもなさ" が際立って見えたのが本音だった。同じ書き手として、この文章の良さを、そして良いと感じている自分の気持ちを無視して感想を書くのは却って失礼だと思ったので、こういう書き方をすることにした次第である。失礼があったら、すみません。でも、本当の気持ちです。
以上!
▼この感想文を書いた人の創作大賞2026応募作品▼
