短編小説|積読が雲になる夜
物語の「プロローグ」という文字が一文字ずつ、ぽつぽつ降ってきた。
僕は本屋の軒下まで駆けて雨宿りをする。いや、文字宿りというべきだろうか。ともあれ、夜の冷たい文字に打たれて風邪を引きたくない。
十二月は積読の積乱雲が生まれやすい。みんな忙しい時期だから、積読が増えるのだろう。
かくいう僕も学費と本代を払うためにバイトを入れすぎて、買ったけれど読めていない本が、わんさかある。
本末転倒だ。コタツで蜜柑を食べながら本を読む時間がほしい。
「あれ、笠原くん。今日お店は休みよね?」
本屋で働く小岩さんが、シャッターを閉める。お店とは、たい焼き屋だ。僕のバイト先である。
「弁当買いに行った帰りなんですよ」と僕は半額シールのついた水色亭の焼鯖弁当が入ったビニール袋を、ひょいと持ち上げる。
「ほんと好きだな」
「鯖は健康にいいですから」
「いや、白井ちゃんの話」
「それにしても、通り雨ですかね。いや、通り文字か」
僕は話をはぐらかす。白井さんは水色亭の店主だ。小岩さんはことあるごとに僕の清らかな想いをちゃかしてくる。
地面を打つ文字は、本に印刷されている大きさそのままで、指先に載るくらいのサイズだ。
カラカラと霰が降るような音を立てている。文字が降り始めたとき特有の香りが、白氷商店街を包む。古紙の匂いだ。
半透明の文字たちはアスファルトの窪みに溜まり、街灯やイルミネーションの光にきらめいている。
ふいに路地裏からブルーグレーの野良猫が現れ、体を震わせて文字を振り払い、僕と小岩さんの間に腰を下ろした。
「これ、美味いよ」と小岩さんは紙カップを渡してきた。文字はぽつぽつ降り続いている。
「夜に珈琲飲むと眠れなくなりません?」
「人の親切は黙って受け取りな。笠原くん、顔色悪いぜ」
「あ、旨いですね」
「でしょ。エッグウォーム・ブリュー」
「横文字は覚えられません」
「ペンギンが温めた珈琲豆らしい」
「適当なこと言ってません?」
「人間、適当なくらいがちょうどいい」
「というか店の締め作業の途中では?」
「良い香りだな。私の分も淹れてこよ」
白熊文芸堂と大書されたシャッターを少し上げ、小岩さんは店の奥に姿を消した。傍らの猫がじっと僕の持つビニール袋を睨んでいる。
僕はそばにあった荷台へ珈琲を置き、弁当の鯖を割り箸で割り、猫にちょっとあげた。
「エピローグ」という文字が一文字ずつ、ぽつぽつ降ってきた。もうすぐ文字が降り止むかもしれない。
二人は並んで珈琲を飲み、一匹は鯖をガツガツ食べていた。
降る文字を見ながら、珈琲を飲んでいると気分が落ちつく。慌ただしさで淀んだ目が文字に洗われ、香る湯気にふわりと胸の奥が温まる。
「積読って未来だわ」と小岩さんは軒先から覗く積読の積乱雲を見上げる。
「また適当なこと言ってません?」
「適当なこと言ったこと、人生で一度もない」
「うわ、適当だ」
「積読ってさ、読んでもいいし、読まなくてもいい。それがいいんだな。まだ知らない物語が、ただそこにある」
小岩さんは手のひらで降る文字を受ける。僕も真似をしてみる。珈琲で温まった手のひらに、冴えた文字の冷たさが心地よく感じられる。
「読まなきゃ読まなきゃって、焦らなくていいよ」
鯖を食べ終わった猫は、僕に一瞥もせずに路地裏へ帰っていく。自由なのは結構だが、お礼くらい言いたまえ。
「おしまい」の文字が降り、文字が止んだ。積読の雲間に月が見えた。
僕は猫ではないから小岩さんに珈琲のお礼を言ったあと、白熊文芸堂を後にする。霜柱を踏むような音を立てながら、家へ向かう。
帰り道、文字溜まりに、半透明の小さな四角い板を何枚か見かけた。
文字が上がったあと、よく見かけるものだ。
いくつか拾い上げ、ポケットに入れた。指先で感触を確かめる。
物語が終わったあとの「余白」は、珈琲みたいに温かかった。
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牛乳を買って金曜よるに一杯やります。