短編小説|風邪っぴきファンタジー
手を洗うわけにはいかない。
一週間前、白熊文芸堂で催されたトークイベント終わりに、僕は白熊の被り物を被った海瀬プチと握手をしたからである。彼女の新刊「タイで龍を釣る」を胸に抱き、「もう一生、手を洗うまい」と金木犀が香る白氷商店街の夕焼けに僕は固く誓った。
「手を洗わないと風邪ひいちゃいますよ」と商店街西口にある水色亭の白井さんが、長い睫毛をぱちぱちさせながら、焼鯖弁当を僕に手渡したのは三日前のことだ。
「馬鹿は風邪をひかないんです」と謙遜しながらも逞しさを白井さんにアピールした僕だったが、しかし翌朝、テキメンに風邪をひきにひきまくり、あえなく花鳥風月のアルバイトを休むに至った。
「お馬鹿なのに、お大事に」と電話越しに店長はたいへん優しい言葉をかけてくれた。怠け者の店長が、僕の代わりに店頭に立つ気はさらさらなく、花鳥風月は僕の風邪が治るまで臨時休業となるらしい。日に日に肌寒さが増す十月の今日この頃、花鳥風月のたい焼きを目当てに商店街の東口を訪れたお客さんには申し訳ないけれど、恨むなら風邪っぴきの僕よりも、元気モリモリな店長を恨んでほしい。あの人、台風も来るしちょうどいいや、なんて言ってたよ。
ともあれ、病床に伏してなお、僕は頑として手を洗わなかった。
三十八度の熱が出て、寝床で頭が朦朧とするなか、最後に食べたまともなものは、白井さんの焼鯖弁当だったと、思うともなく僕は思う。
ひとり暮らしで自炊をしない者にとって弁当屋水色亭は、荒涼とした東京湾に輝くサンゴ礁であり、白井さんはサンゴ礁を彩る麗しいクマノミだ。花鳥風月によく訪れ、たい焼きをぱくぱく食べる可愛らしいクマノミである。
いつも食べている焼鯖弁当は、考え方によっては彼女の手料理である。そうだ、彼女はいつも僕のために手料理を振る舞ってくれている。電話で注文すれば、白い自転車を漕ぎ漕ぎ、宅配までしてくれる。
「いいや、彼女は白氷の町のみんなに優しいのであって、お馬鹿のためではない」と、花鳥風月の店長が耳元で囁く。幻聴だ! 布団のなかでもがく。海の中で、僕はクマノミのあとを追う。でも、いつのまにか僕はたい焼きになっており、おなかのあんこが重くて追いつけない。ああ、いけない。海の中でヒレを動かしては、手を洗ったことになってしまうのでは?
汗だくで目を覚ます。夜の十二時だった。
よたよたと六畳の狭い部屋で本棚におしりをぶつけながら、僕は未だバッチイ手で、コップに注いだ水を飲む。窓際の丸椅子に腰掛けると、雨音が聴こえた。台風が来ている。僕は読書灯を点けて、海瀬プチの「タイで龍を釣る」を開く。
なぜ、彼女は白熊の被り物を被っているか? それは彼女が東京都世田谷区と目黒区の間にある我らが白熊区の出身であり、彼女の書く小説がことごとく白氷駅周辺を舞台にしているからにほかならない。シロクマ文芸部という地域のあやしい団体にも所属している。彼女は白氷の地元民なのだ。地元の人に自分の小説を読まれるのが恥ずかしいのだろう。照れ屋さんなのだ。
彼女の小説は、水色亭の焼鯖弁当に入っている玉子焼きのように優しい。大学へ通うために上京して白氷の町に住みつき、誰も知り合いがおらず、ひとりぼっちだった寂しい夜、彼女の小説に何度救われたことか。白氷を愛する温かい眼差しが、冷たい東京というイメージを溶かしてくれた。「タイで龍を釣る」の主人公とヒロインが、屋根の上で柔らかい月光を浴びる白氷の町を眺めている。
いつかこの町で素顔の彼女に出会えたら、恩返しにたい焼きをおごってあげたい。彼女の小説には、たびたび花鳥風月も出てくる。たい焼きが好きなのだろう。もしかしたら、知らないうちに僕は海瀬プチにたい焼きを売ったことがあるかもしれない。そうだったら、嬉しいね。
深夜一時、僕は眠れなかった。
熱がぐんぐん上がり、三十九度を超えたからだ。あるいは、僕の発熱と息をあわせるかのように、十月の台風の轟音が大きくなっているせいかもしれない。塊のような雨と風が窓を叩いている。台風のように、頭の中がぐるぐる回る。安アパートの床も回っている気がする。
「白井さんの言う通り、手を洗うべきだったかしら」と僕は弱気になる。大人なのだから、賢く立ち回るべきだったか。いや、風邪をひいたのだから、僕は馬鹿ではない。手を洗って風邪をひかなかったら、むしろ馬鹿だったということになるのか? ええと、それで合ってる? 頭が働かない。
救急車を呼んだほうがいいかもしれない。でも、ただの風邪で深夜に救急隊員に迷惑をかけるのはよくないのではないか。迷いながら、僕はスマホで電話をかけた。だが、出ない。見れば、間違えて水色亭の電話番号を入力していた。もうだめかもしれない。電話を切り、僕はスマホを放り投げた。
仰向けで、ぐるぐる回る天井を眺める。深夜二時を回っている。布団を何枚被っても寒い。敷布団がぷかぷか水に浮かんでいる気さえする。夜の大海原にぽつんとひとり、投げ出されたように心細い。東京で初めて一夜を明かした日が思い出される。僕は相変わらずバッチイ手で「タイで龍を釣る」をぎゅっと抱きしめた。
天井が迫ってくる。安アパートの隙間という隙間から、台風による雨水が噴出しており、いよいよ僕は敷布団の上で漂流していた。朦朧としながら身を起こすと、水に沈んだ狭い台所のシンクに、サンゴ礁が輝いている。近くに銀色に光る魚が何匹か泳いでいる。鯖かもしれない。
部屋の呼び鈴が鳴った、気がした。
真夜中だ。また、幻聴かもしれない。いずれにせよ、僕は玄関まで泳げる元気はない。扉を叩く音も聞こえる。僕の心臓の音だろうか。
「だから言ったのに!」とドアを蹴破り、現れたのは白熊だった。
被り物だけが水面に浮いており、平泳ぎでこちらへ向かってくる。依然としてバッチイ僕の手を取り、海瀬プチは言う。
「早く逃げますよ!」
白氷の町は半分、海に飲まれている。
水に沈んだ自宅から、海瀬プチと僕は泳いで逃げ出した。雨が降り、水位がどんどん上がっている。僕らは西口の商店街を泳ぐ。見慣れた道の底にきらめく色とりどりのサンゴ礁が、街灯に青く照らされている。サンゴ礁の近くを、鯖とたい焼きが仲良く泳いでいた。水色亭を横切ったとき、閉じた水色のシャッターを橙色のクマノミがつついているのが見えた。
駅を抜けて東口商店街を泳ぐ頃には、白氷の町がほぼ海に沈んでいた。
「ああ、僕が手を洗わなかったばっかりに!」
「熱がひけば、海もひきます」と海瀬プチは冷静だ。
「だから手を洗いなさい」
「海の中で泳いだら、手を洗ったことになりますか?」と僕は尋ねる。
「ふうむ、なるほど」と彼女は納得した。
とたんに、あたかも風呂の元栓を抜いたかのように、みるみる海の水位が下がっていく。渦ができて、僕らは洗濯物みたいにぐるぐると回った。海瀬プチの白熊の被り物が流されてどこかへ消えた。離れ離れにならないよう、僕と白井さんは海に洗われたキレイな手と手を繋いだ。
気づけば、僕と白井さんは花鳥風月のトタン屋根の上に、横並びに座っていた。熱がひいており、海もひいている。台風までもが去っており、月と星がサンゴ礁のように輝いている。
僕の左手には、水没してヨレヨレになった「タイで龍を釣る」があり、右手には、焼き立てのたい焼きがあった。
「お礼に、どうぞ」と僕は白井さんにたい焼きを渡した。
「何のお礼ですか?」
「小説と焼鯖弁当のお礼です」
「ふうむ、なるほど」と彼女はたい焼きを割り、僕に半分くれた。
「お礼です。執筆中、私もこれに救われたので」と白井さんは、ぱくぱくとたい焼きを頬張る。
「タイで龍を釣る」の主人公とヒロインが、屋根の上で柔らかい月光を浴びる白氷の町を眺めていたのを思い出しながら、僕もキレイな手で、たい焼きを頬張った。
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