短編小説|ビンタのご依頼を受けまして
紅葉色のネクタイを締めた紳士は私に言いました。
「ビンタしてもらえないだろうか」
西日に柔らかく包まれた白氷商店街の喧騒が、一瞬遠のいた気がしました。私はあまりにも真剣な彼の顔を見ます。
佐々木さんは私の営む弁当屋「水色亭」の常連です。いつでもパリッとしたスーツを着こなし、お昼時に焼鯖弁当を買って行かれます。
「白井ちゃん、あの人は紛うことなき変態だから気をつけな」と東口商店街の白熊文芸堂で働く小岩さんに忠告されたことがあります。これまでは気をつけるべき出来事がなかったものの、この度初めてその時が来たのかもしれないと私は思いました。
「いや、失礼。性急過ぎたな。わけを話そう」
そう言って佐々木さんは店前のベンチに座り、語り始めました。
二年前の十一月某日、近くに並木もないのに、夜空から紅葉が降ってきたと言います。不思議に思いながらも、それをきっかけに佐々木さんは「月の檻」への来店を決意したそうです。
「月の檻」は、ビンタをする人と、ビンタをされたい人の利害が一致する大人の隠れ家であり、白熊文芸堂の斜向かいの古ビルの五階にあります。
佐々木さんは一葉の紅葉から手のひらの痕を連想して、月の檻へ入ったのでしょう。そこで出会った方の名前を佐々木さんは「朱音様」と呼びます。
朱音様のビンタの好ましさについて、佐々木さんは熱く語りました。が、諸般の事情により、ここでは大部分を割愛し、私の心に残ったお言葉だけご紹介するに留めます。
「それはまさに、夜空から降る紅葉のように耽美だった」
そうして佐々木さんは月の檻の常連となりました。
ビンタをする側の人は、ビンタをされる側の人に素性を明かさないのが良しとされているらしいのですが、朱音様と佐々木さんの年齢差は親子のようであり、来店のたびに朱音様は少しずつ身の上話をしてくれたと佐々木さんは振り返ります。
朱音様は女優を目指して舞台で活動していたそうです。三十歳までに映画女優になるのが彼女の夢でした。月の檻で働いているのは、夢が叶うまで生活費を稼ぐためだと彼女は言いました。
いつしか佐々木さんは彼女の夢を応援するため、月の檻へビンタをされに通うようになったそうです。
心地よく響くビンタの乾いた音は、夜空から舞い降りた紅葉のように重なってゆき、月日が経ちました。
「月の檻、やめます」
朱音様の口から敬語が発せられるのを、そのとき佐々木さんは初めて聞きました。今から一ヶ月前のことです。
映画のオーディションに何度も何度も落ちたこと、半年前から簿記の勉強をしていたこと、先日とある企業の経理部に内定をもらったこと。朱音様、いや、朱音さんの言葉を聞き、佐々木さんは心にビンタを食らいました。
そして今宵、朱音さんはこの街を去るといいます。
「今にも朱音様を引き止めに行ってしまいそうな自分が怖いんだ。彼女は私を信頼して、町を去るバスの時間まで教えてくれた。彼女の人生に、私が口を出すのは間違っている。だから、ビンタをしてもらえないか。どうか目を覚まさせてほしい」
震える佐々木さんの言葉に「紛うことなき変態」の気配は感じられません。伝わってくるのは、独り立ちする娘を見送る父のような温かさです。
彼が求めているのは利己的なビンタではなく、極めて利他的なビンタに違いありません。
「でも、なぜ私に?」
「ビンタされるなら、可愛い子がいいじゃない」
そうして私は紛うことなき変態をビンタしたのです。
「水色亭」の営業を終えた足で自転車を漕ぎ、私は「白氷警察署前」へ向かいました。
朱音さんが白氷町を発つバス停の名前です。
「代わりに彼女を見送ってやってほしい。私が行けば、必ず彼女を引き止めてしまうから」と頬をさする佐々木さんに頼まれたのです。たしかに彼は紛うことなき変態ですが、朱音さんを想う気持ちに嘘はありません。
私は朱音さんに会ったことがありません。彼女は紅葉色のストールを巻いているはずだと佐々木さんは言いました。就職祝いとして朱音さんにその品をプレゼントしたそうです。
自転車を漕ぎながら、しかし私は朱音さんがそのストールを巻いていない可能性を考えていました。佐々木さんは数多くいたお客さんのひとりに過ぎなかったということもありえます。
でも、それは私の杞憂でした。
バス停へ向かう一本道で、街灯に紅葉色のストールが照らされています。
白氷小学校の裏手にあるその道は、駅や商店街から離れており、時間も遅かったので他に人影はありません。私は距離をおいて自転車を停めました。
持っているスーツケースに比べて、朱音さんの背中は小さく見えます。十一月下旬の冷たい風にストールが流れました。
私にできるのは、ただ見送ることだけでした。
何も知らないくせに出過ぎた真似かもしれませんが、佐々木さんに代わり、私は朱音さんの幸せを祈ります。
ふいに、夜空から一葉の紅葉が私の自転車のカゴに舞い落ちました。
通りに紅葉の木はありません。けれど、彼方から寒風に乗ってきたのか、紅く色づいた紅葉が幾枚も降ってきます。
やがて、数え切れない紅葉が月明かりを隠すほどに降り注ぎます。街灯にきらめく葉は、紅い流星のようにも思えました。朱音さんも立ち止まり、空を見上げます。
「それはまさに、夜空から降る紅葉のように耽美だった」
その言葉を私は思い出しました。無数の紅葉はたしかに手のひらみたいで、大勢の観客が彼女へ拍手をしているような音を立てます。
しばらくして土砂降りの紅葉が止むと、朱音さんは何事もなかったかのように、またバス停へ向かって進み始めました。
迷いのない足取りは、映画のワンシーンを思わせます。
何百、何千という紅葉はアスファルトの道の上で月光に輝きました。
そうして彼女は歩み去ります。輝かしいレッドカーペットの上を。
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