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線路は途切れても、消えなかったもの

「仕事をしている父の写真を探して、やっとたどり着きました」

一通のメールが届いた。

差出人は、谷汲線きってのベテラン運転士――晴さんの娘さんだった。

晴さんが旅立ってから、もう十五年になる。

油の匂いが、ふっと蘇った。

グワァーン、というモーターの唸る音。
板張りの床に染み付いた油の匂いと、開け放たれた窓から入ってくる緑の香り。

運転席のすぐ後ろ。たった一人で、赤い車体に揺られて眺めた景色。

キィーッ、と車輪が出す甲高い音を合図に、電車は動きを止めた。

人影のないホーム。
その終着駅は、時刻表には載っていない。


晴さんが運転する「あかでん」は、沿線でカメラを向けていてもすぐにわかった。

がらんとした車内で、運転席のすぐ後ろにお客さんが立っていたからだ。



発車前のひととき。谷汲駅にて。


その姿を見つけると、カメラを下ろして駅へ向かった。

点検を終え、振り返った晴さんと目が合った。

「よう来たな」




始まりは、名鉄の路面電車を乗り継ぎ、混み合う車窓から見た、桜吹雪の駅。

やがて、山間の村を走る車両を追いかけるうちに、レンズは自然と、そこにある暮らしへと向かっていった。


あかでんのある日々。




そんな時、出会ったのが晴さんだった。

「また来たか」

そのひと言を聞くたび、足を運ぶ回数が増えていった。


あの桜吹雪を見てから、十年が近づいた頃。谷汲線の赤字を伝える記事が、目につくようになった。

気づけば、未熟な僕に取材の許可が下りていた。


駅員や検車、線路班の作業に同行し、現場を歩いた。


晴さんのあかでんも、何度となく見送った。

交わした会話は、それほど多くなかったが、写真展の会場に、ふらりと姿を見せてくれることがあった。

少し微笑み、右手を軽く上げて「今日は休みだった」と言って帰っていく――そんな人だった。



目が合った。それで十分だった。


沿線で、晴さんが運転するあかでんを見つけ、いつものように谷汲駅へ向かった。

準備が終わるのを待って、声をかけた。
「よう来たな」と、ひと言返ってくる。

次の電車で戻ってくると聞き、ホームで見送った。

駅舎は建て替えられていた。
それでも売店には、昔と変わらずおばちゃんがいた。

傍らには、硬券きっぷの詰まった木箱が健在だった。

冷蔵庫からアイスを一つ取り出し、小さな椅子に腰を下ろす。

「雪の谷汲線が一番好きやねぇ」

おばちゃんは、目を細めながらそう言った。

ホームに向かい、晴さんを待つ。

電車は、一時間に一本しかやってこないが、日中、このホームで人と出会うことはほとんどない。

カンカンカン。
踏切の音と、金属音が遠くに聞こえてくる。

木々に囲まれた勾配の中、小刻みに赤い車体を揺らして登ってきた。


ガラガラガラ。
ドアが開き、挨拶を交わしながら、お客さんが一人降りていった。


後ろのドアから乗り込み、車内を歩く晴さんに声をかけた。

「手を撮らせてもらえませんか?」

「こうか」

差し出された手に、レンズを向けた。

長年ハンドルを握り続けてきた「働く手」を、フィルムに焼き付けた。

運転席の切り替えを終え、ハンドルを置いた晴さんと、ホームのベンチに座る。

蝉の鳴き声が、賑やかだ。


つい最近、娘さんの実家から見つかった、ベンチに座る晴さん。


「今日、このあとは?」
「市内に入っていく」

珍しく、一瞬、顔をしかめてつぶやいた。

「市内からこっちまで入ってくると、冬場は特にキツい」


からっぽのあかでんを眺めた。

時計を確認し立ち上がる。それを見て、先に乗り込み座席で待った。

これが、晴さんとの最後の会話――思い出せる、唯一の素の顔だった。


廃止を目前にした構内は、いつになく賑わっていた。

​その喧騒の中で、線路班の班長さんに呼び止められた。

​「最後に、全員の写真を撮ってくれないか」

駅前の若いご夫婦とも知り合った。

谷汲発の最終列車に乗り、折り返しの谷汲行きで戻ってくる――そんな話になった。

「最終の谷汲行きは、回送で帰って行くから誰も乗らへんやろ?子どもたちとも遠慮なく乗れる」

駅前のご主人さんはそう笑った。

廃止が迫る夜の車内。地元の人たちと、何度も顔を合わせた。


最後の日。
ほとんどカメラを構えなかった。


「明日からどうなってしまうんやろ」
駅のおばちゃんと、賑わうホームで何本か見届けた。

いつの間にか夜になり、大勢の人が見守る中、「明日になれば、いつも通り走ってくる」。
そんな感覚で、最後を見送った。

翌日。
ガタゴトと響いてくるはずの音は、聞こえなかった。


​のちに晴さんの訃報を知った時、一度だけ連絡を取ろうとした。だが、その電話は繋がらなかった。

それきり、伝える言葉をなくしたまま、時間だけが過ぎていった。


解体されるはずだった赤い車体は、「せめて駅として残したい」と駅前のご主人さんたちの手で守られ、再びこの地に戻ってきた。

きっぷの販売こそなくなったが、売店には変わらずおばちゃんがいる。




廃止から十年。
谷汲線写真集の改訂版が世に出た。
晴さんの写真を多めに載せた。


数年後。
その一冊が、大阪の書店で偶然、娘さんのご主人の目にとまった。


娘さんは、著者名を手がかりにメールを送ってくれた。

「仕事をしている父の写真を探して、やっとたどり着きました」


いくつもの季節が巡った頃、さらに便りが届いた。

「息子の初めてのお誕生日に、父の電車と一緒に記念写真を撮って欲しい」


撮影場所は、すぐ谷汲に決めた。


駅前の奥さんに、晴さんのことを知っている人がいないか聞いた。




約束の日。 廃止からちょうど二十年を迎えていた。

朝一番。 谷汲へ向かう。


通いなれた道。
公園になった黒野駅を抜け、谷汲線に沿って車を走らせる。

周りの景色は、ほとんど変わっていない。


娘さん家族が到着した。
息子さんの目を見る。
運転席で見た晴さんと同じ目だった。

レンズを向け続けた。


2021年



あの時、電話が繋がらず、ずっと手を合わせることもできなかった。詫びると、連絡が途絶えていたのは、ただのすれ違いだったとわかった。



「ネットにあかでんの写真はたくさんあるから、すぐに見つかるかと思っていたんです。でも、お父さんの写真が一枚もなくて」

抱っこされた息子さんの顔を、そっと見つめた。

「学生の頃、柳ケ瀬で運転する姿を見てはいたんです。せめて、乗っておけばよかった」



「あっ、お父さんの手やっ」――娘さんはすぐに分かったと微笑んだ。





あの頃撮ったポジフィルム。



時間を見計らって、おばちゃんたちが待つ、売店へ案内した。

「あの運転士さんね、よく知ってますよ。いい人でした」


おばちゃんの言葉に、娘さんは小さくうなずいた。


「目元が似てるわあ」
ゆっくりとした時間が流れた。



「今思えば、家でもお父さんの口から名前が出ていたんです。『今日も来ていた』とか、『展示を見てきた』とか、何度も」


娘さんは、晴さんから名前を聞いていたが、当時は仕事先の人の話くらいにしか思っていなかったそうだ。


娘さんに写真を渡し、しばらくして、ようやく手を合わせる機会が巡ってきた。


お母さんは、にこやかに迎えてくれた。

晴さんがどれほど仲間に慕われ、誰かの心の支えになっていたか。その輪郭をなぞるように話を聞き、手を合わせた。


晴さんの帽子と鞄。久しぶりに、ここで再会した。


帰り道、岐阜の市内を車で走る。

今はなき、路面電車が走っていた道に出る。

信号で止まった。
そのとき、晴さんのことが頭に浮かんだ。

ハンドルを握る自分の手を見る。
あの日、手を撮ったときのあかでんの匂いが、ふっと戻ってきた。

「よう来たな」それだけだった。

ずっとあの手に、背中を押されていたのだと思った。


車を路肩に停め、しばらく動けなかった。




「今年のお誕生日も、家族写真を撮ってほしい」

ちょうど1年後。
娘さんから再びメールが届いた。

さらにその翌年には、同じ構図で写せるよう、アングルを合わせることを意識するようになった。

そして翌年。
息子さんは、自分の足で立って写った。


2024年


今年もまた、その季節がやってきた。

「せっかくだから、おばちゃんたちにも記念写真に入ってもらえばいいんだ」


駅前のご夫婦を訪ねて計画を打ち明けた。

奥さんは、にっこり笑って背中を押してくれた。



2025年



五年目の撮影当日。
雨が駅を濡らしていた。

「毎年、不思議なぐらい都合がつきますね!」

いつもと同じように挨拶を交わし、ただ、目の前の時間を真っすぐに撮り切った。


おばちゃんたちは、駅に集まってくれていた。


全景を入れてまず一枚。

並んだみなさんへ近づき、カメラを構え直す。

「そんなに近くからだと、シワが目立つって。いややわぁ」

「この子が二十歳になるまで一緒に写るのに、今からそんなんでどうするの?」

「その頃は、もうあの世やわ」

おばちゃんが笑うと、隣にいた駅前の奥さんが、すっと言った。

「もうすぐおばちゃんは、町から表彰される歳なんやて。そうやろ?」

思わず身を乗り出した。

「じゃぁ、まずは、表彰状持って写ることを目標ね。そしたら、次に二十歳!」


おばちゃんは、笑いながら声を上げた。


「棺桶から出てこないといかんわっ」

​賑やかな冗談を追いかけるように、シャッターを切った。



「これ、遺影にするんやて」





#創作大賞2026 #オールカテゴリ部門

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