落語(67)九里香
キンモクセイ…秋になると、どこからともなく漂ってくるあの甘い香りには、誰もが魅了されます。あれだけの芳香を放ちながらも、その実、当の花びらはとても可憐で小さなもの。場合によっては、どこから薫ってきているのかすら判らないほど。その意外性には、魔力のような妖しささえ感じます。またの名を九里香(きゅうりこう)…まさに、人間を陶酔させる花と言っても過言ではないでしょう。くれぐれも嗅ぎ過ぎにはご注意。
義助「(千鳥足で)うぇ〜い、ひっく…いやぁ、呑んだ呑んだぁ〜」
萬作「呑んだなぁ〜、ひっく…うーん、やっぱり酒はいいねぇ〜。こう、何というか、魂が解放される感じがするよなぁ」
義助「そう、それな。子曰く、『酒に害なし、恐るるに足らず』ってやつだ」
萬作「おいおい、何だそりゃ。それを言うなら『酒は量なし、乱に及ばず』だろ?」
義助「お、若者知ってるねぇ。ひょっとしてお主、学があるのかい?」
萬作「ありもあり、大ありよぉ。こちとら天下の昌平坂学問所の学生だい」
義助「昌平坂?ほぉー、そりゃ大したもんだ。では、いわゆる『学は及ばざるが如くする』ってわけだな?」
萬作「アッタボーよ。ときにそういうお主にゃ、何か学があるのかい?」
義助「え、俺?へへへ、聞いて驚くなよ。俺は、あの泣く子も黙る湯島・昌平坂学問所の書生よ」
萬作「え?なーんだ、お主も昌平坂かぁ。じゃあ、俺と同志じゃねぇか…ん?…それにしちゃあ、お主、随分と学がなさそうに見えるなぁ。俺から見りゃ、ただのノンダクレにしか見えねぇや」
義助「馬鹿言っちゃいけねぇよ。知ってるか?『水清ければ魚住まず』ってな」
萬作「おう、知ってるよ。世の中あんまり水が綺麗すぎちゃ、かえって魚が寄りつかねぇってやつだろ?」
義助「そうよ。だけどよぉ、実はこれにゃまだ続きがあるんだ」
萬作「なんだよ」
義助「水清ければ魚住まず、水酒なれば魚も住むってね。つまり、学問ばっかりで真面目くさってねぇで、たまにゃパーッと酒でも呑まなきゃ駄目ってことよ」
萬作「へっ、なんだそりゃあ。こいつぁ、とんだ論語読みの論語知らずだ」
義助「へっへっへっ。論語知らずしていからず、また君子ならずやだ。よし、歌うぞ。♬逆さの月が〜さかずきに〜 今宵も呑もう〜同胞と〜♬…おい、何ボーッとしてんだ。一緒に歌えよ」
萬作「いや、『一緒に歌えよ』って、俺ぁそんな歌ぁ知らねぇぞ」
義助「当ったり前よ。俺が今考えたんだから」
萬作「馬鹿。そんなもん、知るわけねぇじゃねぇか」
義助「♬いやいや三杯〜また三杯〜 このさかずきを〜受けとくりょ〜 さよならだけが〜人生さ〜♬ってか。…ん?(見回して)…あれ、銀之丞はどこ行ったぁ?」
萬作「え、銀之丞?あれ、そう言えばいねぇなぁ…(見回し)…あ、あんな所にいやがる。何やってんだ、あいつは。…おーい、銀之丞!何やってんだ、早く行くぞー!」
銀之丞「スーッ、スーッ…(香りを嗅いで)…ああ、悪い悪い。今、行くよ。いやぁ、あんまり金木犀の香りが魅力的だったものでな」
萬作「んぁ?金木犀?…クンクン…ああ、この甘ったるい匂いか。そう言えば、いつの間にか咲いてたんだな。俺ぁ、ちっとも気付かなかったぃ。義助、お主は気付いたかい?」
義助「え?…クンクン…ああ、俺にとっちゃこの匂いはすなわち、廁のニオイだな。毎年、寮の舎長が厠の一輪挿しに生けたのを見て、『ああ、今年も金木犀が咲いたかぁ』ってなもんだ」
萬作「ふんっ、なるほど。お主にとっちゃ松茸と金木犀が一対で秋の風物詩ってわけだ」
義助「いかにも。なんたって場所が、厠だけにな。わっはっはっ」
萬作「その松茸、旬のうちに食ってもらわねぇと腐っちまうぞ。はっはっはっ。…おい銀之丞、いつまでやってんだ!早くしねぇと、門限に間に合わねぇぞ!」
銀之丞「(香りを嗅ぎながら)…ああ、悪い悪い。すぐ行くよ。先に行っててくれ」
萬作「ふんっ、何だあいつ。花なんかが好きでいやがんの。まるで女みてぇな奴だな。もういいや、行くぞ行くぞ(去る)」
銀之丞「(香りを嗅ぎ)はぁ…この香り、癒されるなぁ…しかし、一体いずこから薫ってきているのだろう…スーッ、スーッ…うーむ、暗くてよくわからぬなぁ…こっちか?…いや、違うなぁ…ならばこっちか?…違うか…」
女「こっちよ」
銀之丞「ん?…はて、今だれがしかの声がしたような…まさか、気のせいか…うーむ、それにしても金木犀はいずこにあるんだ?スーッ、スーッ」
女「ほら、こっち」
銀之丞「ん?…やはり女人の声が聞こえるぞ。はて、いったい誰が…(見回す)」
女「こっち、こっち」
銀之丞「ん?…こっちか(歩く)」
女「そう、そのまままっすぐ」
銀之丞「まっすぐ…(歩き)…おお、金木犀。こんな所にあったか…いやしかし、女人の姿は依然見えぬが…」
女「ほら、ここよ」
銀之丞「んぉっ!?…(振り返り)…そ、その方、いつの間に!?」
女「フフフフフ、御武家さまなのに隙だらけなのね。そんなんじゃ、簡単に敵にやられてしまいますわよ」
銀之丞「ぶ、無礼なっ。その方、何奴!?」
女「私?フフフフフ、金木犀」
銀之丞「き、金木犀?ぬぬぬ…その方、吾輩を侮辱する気かっ」
女「本当よ、金木犀。ほら、見てこの着物。金木犀と同じ橙色でしょう?」
銀之丞「ぬぬぬ、武士を愚弄しおって…な、名を名乗らぬかっ。これ以上無礼をはたらくと、たとえ女とは言え容赦はせぬぞっ」
女「だから、金木犀だって言ってるでしょうに。んもう、きかん坊なんだから。じゃあ、仕方ないわ。うーん、そうねぇ…あっ、そうだ。私の名前は九里香。九里先まで香ると書いて九里香よ」
銀之丞「九里香?め、珍しい名前だな…」
女「あら、変かしら。じゃあ、千里香ると書いて千里香の方がいい?それとも、万里香るで万里香の方がいい?」
銀之丞「な、何でもよい。九里香か、わかった。ときにその方、吾輩にいったい何用ぞ」
女「あら、何用ぞって、お前さまの方から私に近付いてきたんじゃありませんか。用があるのは、むしろお前さまの方でしょう?」
銀之丞「な、何を申すか。吾輩はその方のことなぞ知らぬぞ」
女「もう、とぼけちゃって。もう少し素直になってはいかがですか?お前さまは、私のこの香りが好きなんでしょう?フゥーッ(息を吹きかける)」
銀之丞「(クラクラしながら)んおぉぉぉっ…」
女「フフフッ、やっぱり。お前さまは、もうすっかり私の香りの虜のようね…チュッ」
銀之丞「はぅあっ…」
女「ンフフフフフ、可愛い。さあ、もっと私に近付いていいのよ。私のことが欲しいんでしょう?いいわ、好きにして。今夜の私は、お前さまだけのもの。さあ、来て(両手を広げる)」
銀之丞「スーッ、はぁ…スーッ、はぁ…スーッ、はぁ…はあぁぁっ(飛びつく)」
女「うん、よしよし、いい子ねぇ。そう、もっともっと私の香りに酔いなさい。そして私に溺れなさい。もう、お前さまの目には私しか映らない。お前さまは私と結ばれる為に、この世に生まれてきたのよ。フゥーッ(息)」
銀之丞「はうぅぅぅっ…はうぅぅぅっ…」
女「ンフフフフ。さあ、行きましょう。この金木犀の木の上で、二人で朝までたぁっぷり楽しみましょう。チュッ」
銀之丞「スーッ、はあぁぁぁ…スーッ、はあぁぁぁ…」
女「ん?お前さま、もしかして初めて?…フフ、どうやらそのようね。わかったわ。では、私が優しく筆下ろしのお手伝いをして差し上げますわ。さあ、参りましょう(手を引く)」
鶏鳴あかつきとなり…。
義助「(朝食を摂りながら)なあ、銀之丞。お主、夕べ寮の門限には間に合ったのか?」
銀之丞「(食べながら)ああ、心配いらぬさ。きちんと閉門までには帰ってきた」
義助「そうか。それならよいが。いや、俺たちゃ夕べは寮に着くなりバタンキューだったから、お主のことまで構っている余裕がなかったんだ。…なあ、萬作?」
萬作「(食べながら)うん、いかにも。面目ないことだが、夕べの俺たちは完全に酩酊していて、第一に自分の身を案ずることで精一杯だったのだ。すまんな、銀之丞。許せ」
銀之丞「なに、心配は無用。ほら、この通り。夕べはぐっすり眠れて、朝からすこぶる元気だ」
萬作「確かに。今朝のお主は随分と目覚めが良さそうだな。夕べ遅くまで呑んでいたなんて、微塵も感じさせぬほどではないか」
義助「まったくだ。むしろ、いつもより幾分か顔がスッキリしてるように見えるぞ。さては銀之丞、夕べよほど良い夢でも見たか?」
銀之丞「はっはっは、まあな。お主たちには悪いが、束の間、別世界を見させてもらったよ。さながら、生きながらにして天上界を見たと言うべきか」
義助「なに、天上界?…おい、それはいったい如何なる夢だ?なあ、教えてくれ」
銀之丞「ん?うーむ、残念ながらもう失念いたした。なんせ、夢の話なのでな」
義助「おい、ここまで仄めかしておきながら、それはないぞ。なあ、いったいどんな夢だ?」
銀之丞「ん?ふっふっふ。まあまあ、良いではないか。さて、と…(箸を置き)…ごちそうさまでした」
萬作「おや、もう終いか?まだ、佃煮とひじきが残ってるじゃないか。それに白飯もまだ一杯目だ。いつもなら必ず二杯目を…」
銀之丞「うむ、どうも今日は食欲がないんだ。よって、この小鉢はそなたらに譲ろう。…さて、吾輩は先に部屋に戻るとするか(席を立つ)」
萬作「お、おいっ。…なんだ、あいつ。いったい、どうしたというのだ?」
義助「うむ、たしかに。なんだか、いつもと様子が違うなぁ。何かこう、匂いが違うというか…まあ、それはそれとして、ではさっそく佃煮をいただこうではないか(手を伸ばす)」
萬作「おい、こらっ。佃煮は俺が食べるんだっ。お主はひじきで我慢しろっ」
義助「なにを言うかっ。お主のような、ひじきをこぼしたような字しか書けない奴に、佃煮を食べる権利などないっ。佃煮は俺がいただくっ」
萬作「たわけっ、佃煮は俺だっ」
義助「いやいや、俺だっ。こら、邪魔するなっ。あっ!…あーあ、見ろ。お主が横から手を出すから、全部こぼれてしまったじゃないか」
萬作「何を申すか。お主がこぼしたのではないか」
義助「いや、お主が…ふぅー。まあ、良い良い。もう、やめにしよう。喧嘩両成敗だ。これは二人でつまみながら食べようではないか」
萬作「なに、つまみながら?…いかんいかん。朝からつまみとは、どうやら俺たち、夕べの酒がまだ抜け切っていないようだな」
義助「ふっ、まったくその通りだな。わっはっはっ」
そして、その日の夜…。
義助「それでは、お兄いさんたち。よござんすか?賽の目入ります…(サイコロを壺に入れ、置く)…さあ、張った。どっちも、どっちも。さあ、半方ないか?さあ、丁方ないか?さあ、萬作どうする?」
萬作「うーむ…えぇい、丁だ」
義助「はい、萬作、丁いただきました。はい、銀之丞は?」
銀之丞「うーむ…よし、半っ」
義助「はい、銀之丞、半いただきました。よござんすか?よござんすね?では、駒の目揃いましたので、ご開帳。勝負!…(壺を上げ)…サブロクの半。銀之丞どの、おめでとうございやす。萬作どの、ご愁傷様でござんす」
萬作「あちゃー、またか。もうこれで俺、スカンピンだ。あー、もう今日は運が悪い」
義助「はっはっはっ、金は天下の回り物。時にはこういう日もあるさ。さて、明日も朝早い。今日はこのくらいにして、そろそろ寝るとするか」
萬作「ちっくしょー。『子曰く、小人窮すれば斯に濫る』だ。悔しいなぁー。もう、これ以上起きててもつまらん。こんな日は、とっとと寝ちまうに限るな。あーもう、寝よ寝よ」
義助「ふっふっふ。…ん?おや、銀之丞どうした?袴なぞ穿いて、どこかへ行くのか?」
銀之丞「あ、いや。今日はおかげさまで勝ち越すことが出来て、気分が良いからな。少しばかり表を散歩でもしてこようかと思って」
義助「おい、散歩って今からか?そろそろ正門が閉まる時分だぞ?」
銀之丞「なぁに、一寸キンモクセイの香りを嗅いでくるだけさ。あの香りを寝る前に嗅いでおくことで、なんだか朝までぐっすり眠れそうな気がするのだ。よって、そなたらは吾輩のことには構わず先に寝ててくれ。では、行ってくる」
義助「お、おい…行っちまったよ。だからって、なにもこんな遅くに出ていくことはなかろうに…」
萬作「いいんだよ。勝った奴がどこで何しようと勝手だ。こちとら一文無しじゃ、もう布団かぶって寝るしかねぇんだからさ。あー、つまんねぇ、つまんねぇ。おやすみ(寝る)」
義助「まあな。しかしそれにしても、そこまでして嗅ぎに行きたいもんかね、あの金木犀というものは。俺たちには、いささか理解出来かねるな。さてと、寝るか。行灯の火を消してっと…フッ…おやすみ(寝る)」
さて、そのころ銀之丞は…。
銀之丞「(木を見上げながら)青白き月光に照らされし満開の金木犀。スーッ、スーッ。あぁ、この香り。まるで総身が溶けてしまいそうだ…」
女「(枝の上から)ウフフフフ、銀之丞さま。やはり今宵も来てくださったのね」
銀之丞「おお、九里香どの。いつの間にそんな所に」
女「さあ、早くこちらへいらっしゃい。私、もうすっかり待ちくたびれましたわ」
銀之丞「あいや、すまなかった。少々、寮友との博打が長引いてな。…いやしかし、吾輩は如何ようにして、そなたのもとまで行けば…?」
女「ウフフフフ。来来〜ィ(親指から小指を順に倒す)」
銀之丞「はっ、身体が宙に浮いている。そして、勝手に九里香どのの元へと引き寄せられていく…」
女「はい、到着。いらっしゃいまし。お待ちしておりましたわ」
銀之丞「スーッ、スーッ。はぁ〜、この香り。あたかも総身にまとわりついてくるかのようだ」
女「さあ、夜はまだまだ長いですわよ。誰にも邪魔されることなく、これから朝までたぁっぷり楽しみましょう」
銀之丞「スーッ、スーッ。はぁ、もう駄目だ…吾輩、もう我慢できぬ…うおぉぉぉっ(女を押し倒す)」
*
義助「おい、銀之丞。起きろ、朝だぞ」
銀之丞「ん、んー…ああ、義助か、おはよう。済まぬ、今朝はもう少しだけ寝かせてくれ」
義助「おい、何言ってんだ。今起き出して行かねば、朝飯を食い損ねるぞ」
銀之丞「ん…ああ、朝飯ならよい。今朝は吾輩の分まで、そなたらで食べてくれ」
義助「なんだお主、具合でも悪いのか?」
銀之丞「いやぁ、そういう訳ではない。ただ、今朝はあまり食欲がないものでな。なぁに、昼になる頃には、また腹の虫が鳴き出してくるだろう」
義助「そ、そうか。ならば仕方がない。お主の好意、俺たちで甘んじて受け入れさせてもらおう。では萬作、われら二人で食堂へ行くぞ。銀之丞、ゆっくり寝ているんだぞ…(歩きながら)…いやぁ、それにしても銀之丞の奴、昨日といい今日といい、一体どうしたというのだ」
萬作「(歩きながら)まったくだ。この二晩で、心なしか頬もやつれたように見える。あっ、そうさ。まさに一昨日の晩、呑みに行った帰り道で俺たちとはぐれてから、様子がおかしくなったんだ」
義助「ほお、そう言えば確かにそうだなぁ。あの金木犀の匂いとやらを嗅ぎに行くと言って我々と離れてから…」
萬作「夕べだってそうだったろう。寝る間際になって急に『散歩に行く』なんて言い出すから、変だなとは思ったんだ。あるいはその『金木犀』とやらに、何か原因があるのではないか」
義助「うむ、その可能性は充分あり得るな…よし。もしも奴が今晩も外出するようであれば、その時はこっそり俺たちで後をつけよう。そしてあの金木犀とやらの木の下で、あやつが一体何をしているのか、しかとこの目で確かめようではないか」
萬作「うむ、そうしよう。実はここだけの話だが、俺は昔から隠密に憧れていたんだ。いよいよその夢が叶う時が来たかと思うと、ブルブルブルッ…なんだか武者震いがしてきた。さぁて、今晩が楽しみだなぁ」
そして、夜になり…。
義助「(扇子をあおぎながら)ああ、いい湯だった。…さて、身も心もさっぱりしたところで、いつもの丁半行こうじゃないか」
萬作「おう、そうだな。だが、義助。俺は承知の通り、夕べの惨敗で無一文。すまないが、掛け金を少しばかり前借りさせてもらえぬか。必ず借りは返すと約束する」
義助「うーむ、仕方ないなぁ。では、二十文だけ貸してやろう」
萬作「悪いな。今宵はお主のために必ず勝つから。だから、お主も俺と勝負する時は俺のために負けてくれ」
義助「おいおい、そんな馬鹿な話があるかよ。…ときに銀之丞、お主は夕べ勝ち越して懐が温かいゆえ、今宵は幾分か心持ちに余裕があろう」
銀之丞「え?…あ、いや。吾輩は今回は辞退いたす」
義助「え?じゃあ、何かい。俺たちがやってるのを、横からただ眺めてるっていうのか?」
銀之丞「いや。今宵は早々に、また夜の散歩に出掛けようかと思ってな。というのも、門限ぎりぎりに出ていったのでは、あまりゆっくり歩けぬではないか」
義助「なるほど。また例の金木犀の香りを嗅ぎに行こうというわけだな。よし、わかった。ならば行ってくるがいい。あれも、そういつまでも咲いているというわけでもなかろうに」
銀之丞「すまぬ。そういう訳で、今宵はそなたらだけで楽しんでくれ。では、吾輩は行ってくる」
義助「おう、気をつけてな…(見送って)…行ったな。よし、萬作。俺たちも行くぞ」
萬作「よし、来た…(手印を組み)…昌平坂流忍者・橋爪萬作。初隠密行、つつしんでお受け致します。ニンニン」
義助「何だい、そりゃ。くれぐれも途中でドジ踏んで、銀之丞に気取られるんじゃないぞ」
萬作「あいや、合点承知。ニンニン」
*
義助「(尾行しながら)スーッ、スーッ。おい、萬作。そろそろ、例の甘ったるい匂いがしてきたな」
萬作「スーッ、スーッ。ああ、これぞまさに厠のニオイ。キンカクシモクセイのニオだ」
義助「おいおい、何だそりゃ」
萬作「ということは、すなわちこの近くにキンカクシモクセイの木があるということ。ならば、そろそろ銀之丞の奴、足を止めるのではないか…お、果たして足を止めたぞ。なるほど、あそこにキンカクシモクセイの木があったか」
義助「おい、そのキンカクシモクセイってのはやめろよ。なんだか、本当に厠にいるような気がしてくるではないか。…それにしても銀之丞の奴、最前から金木犀の木を見上げたままで、別段変わった様子はないように見受けられるが…お、見ろ。あやつ、何やら誰かと話しているようだぞ」
萬作「え?…あ、本当だ。しかし、ただ木に向かって喋っているだけではないか。あるいは何か?あやつには密かに、植物と会話する能力があるのか?」
義助「まさか。そんな能力があるなど、これまでただの一度も口にしたことはなかったはずだが…あっ、おい見ろ。金木犀の陰から女が出てきたぞ」
萬作「本当だ。おい、随分と艶っぽい女じゃないか。野郎、俺たちに内緒で、あんな女をすけこましていやがったか」
義助「なるほど、これで合点がいった。ここ数日のあやつの衰弱ぶりは、俗にいう恋煩いというものであったか」
萬作「なに、恋煩い?へぇー、あやつがねぇ。ときに銀之丞め、あの女とは一体どこまでの関係なのだ?いつも門限までには帰ってきているのだから、ここでこうして二言三言会話をして終わりなのか。それともまさか手を握りあったり、あるいは接吻まで…?」
義助「あっ、おい見ろ。女が銀之丞の手を取ったぞ。やはり、もうそこまでの関係であったか」
萬作「いや、ここまでならまだ許せる。接吻さえ、接吻さえしなければ…」
義助「あっ、二人の身体が宙に浮き出したぞっ」
萬作「なっ、何という展開。これはある意味、接吻以上の衝撃かもしれぬ」
義助「い、一体どこまで昇ってゆくのだ。ああ、あんな高い所まで…」
萬作「あ、あの女、いったい何者なのだ。まさかクノイチ?あるいは妖術使いの類か?」
義助「信じられぬ。二人とも金木犀の枝葉の中に、吸い込まれるようにして消えていったぞ…」
萬作「あやつめ、毎晩こんなことをしていたのか。なあ、義助。あの枝葉の中で、二人はいったい何をしているのかな」
義助「そ、そんなこと知るか。ただ、あやつは以前、『生きながらにして天上界を見た』と言っていたな。きっと、俺たちには思いも及ばぬような…いや、いかんいかん。これ以上の推測は、精神に異常をきたしそうだ。我々はこのあたりで引き上げようぞ」
萬作「ああ。これは確かにしばらくは降りてこなさそうだな。いや、あるいは銀之丞の奴、本当は連日朝帰りをしているのかもしれぬぞ。なるほど、そういうことだったか。くぅぅ、きゃつめ。俺たちを差し置いて、一人だけひと皮むけていたということか。うぬぬ、なんとも居たたまれぬ。我ら童貞は、さっさと寮に帰って自慰して寝ろということだ。ちっくしょう…」
その後も連日連夜、銀之丞の“金木犀”通いは続き、とうとう七日目の晩となり…。
義助「(屋外を見ながら)いやぁ、しかし今宵は凄い暴風雨だなぁ。この分だと、少なくとも明日の朝まではこの調子が続きそうだ…ん?おい、銀之丞。お主、まさか今宵も金木犀の香りを…?」
銀之丞「(やつれた表情で)うむ。おそらく今晩ですっかり散ってしまうだろうからな。最期に散り際を、この目でしかと見届けておかねば」
義助「おい、馬鹿言うなって。この雨風だぞ?それにお主、この数日間、顔色がさえぬではないか。そんな身で、何もこんな時に危険をおかしてまで出て行くことはなかろうに」
銀之丞「心配は無用。そなたらには理解出来かねるだろうが、吾輩にとっては金木犀は、それほどまでにかけがえのない存在なのだ。いや、極言すれば、自らの命と同じくらい大切な存在だ」
義助「銀之丞、お主…」
銀之丞「義助、萬作。二人とも世話になったな。そなたらと過ごした日々は、吾輩の人生の宝物だ。またいつか何処かで会えることを、心待ちにしておるぞ。では、吾輩はこれにて。二人とも、達者でな」
義助「お、おいっ、銀之丞っ…おい、萬作っ、奴を引き留めるぞっ」
萬作「やめとけ、やめとけ。お主も見たろ、最前の銀之丞の目を。あの目は本気だ。奴は今宵、決死の覚悟で金木犀のもとへ向かったのだ。これぞまさに武士道ではないか。その心意気、我らが邪魔してはならぬ」
義助「し、しかしっ…うぬぬぬぬ…なんとか無事に、朝にはいつも通り帰ってきていてほしいが…」
雀チュンで、翌朝となり…。
義助「おい萬作、起きろ。起きるんだ」
萬作「ん、んぁー…おお、義助。おはよう」
義助「大変だ。やはり、銀之丞が帰ってきていないんだ」
萬作「えぇ?…(蒲団を見て)…あ、本当だ」
義助「やはり、夕べの嵐の中を出て行って、何がしかの災難に巻き込まれたのかもしれぬ。幸い、今朝は天気も回復したようであるゆえ、今から俺たちで奴の安否を確認しに行こうではないか」
萬作「おう、そうだな。もしかしたら、どこぞの道端で倒れているのかもしれぬ。くそっ。やはり、夕べ俺があの時点で止めておくべきだったか。まさか、本当に帰ってこないとは」
義助「(刀を腰に差し)では萬作、さっそく行くぞ…(小走りしながら)…何と言ってもあの嵐ではなぁ。もしも道端で倒れているのだとしたら、今朝は冷え込みが強いゆえ、相当に衰弱していると思われる」
萬作「(小走りしながら)いや、最悪の場合、神田川に流されているとしたら、もう打つ手がないぞ。たとえ万に一つでも、それだけはあってほしくないと願いたいが…」
義助「(見回しながら)うーむ、今のところ何処にも姿は見えぬようだな。だとすると、やはりあの金木犀のある場所ということか」
萬作「…あっ、おいおい。まさか、例の女と金木犀の木の上で朝寝でもしてるんじゃないだろうな。だとしたら、心配したこっちが馬鹿みたいだ」
義助「朝寝でも何でもよいから、とにかく無事であることを願おう。なんせ、こんなことは今回が初めてだからな。お、もうそろそろだぞ…(金木犀の下に到着し)…こ、これは…何ということか。辺り一面が、橙色に染まっているではないか」
萬作「やはり、あの嵐で金木犀の花はすべて散ってしまったようだな。ときに、銀之丞はどこだ?…おーい、銀之丞いるかー!?いたら返事してくれー!」
義助「おーい銀之丞、無事であったかー!?お主を心配して迎えにきたぞー!いたら出てきてくれ、銀之丞ー!…駄目か。どうやら、もう手遅れのようだな」
萬作「え?手遅れって…では、いったい銀之丞はいずこに?」
義助「うむ。俺が思うに、おそらく奴は金木犀の精霊…つまり、あの女と一緒に散ってしまったのかもしれぬ」
萬作「えぇ?あの女の正体が金木犀の精霊だと?かてて加えて…(地面を指差し)…この花びらが銀之丞だと言うのか?」
義助「ああ。奴はあの女に夜な夜な精気を吸い取られ、ついには七日目の晩に花になってしまったのだろう」
萬作「な、なんと…(涙声になり)…これがあいつの姿だって?バカヤロー、銀之丞の奴。グスン。毎晩、木の上なんかで寝てるから落っこちるんだ」
