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偏愛小説。鼻で恋する5秒前

みなさま、こんにちは。

コンテスト「#今年学んだこと」に、たくさんのご応募をいただきありがとうございました。

結果発表までの期間、「#今年学んだこと」にちなんだミニ企画を行います! 第1弾は「偏愛」をテーマに、noteクリエイターさんにご寄稿いただきます。題して「偏愛のススメ」。

今回ご寄稿いただいたのは、サオリス・ユーフラテスさんです。

サオリスさんといえば、読む人の心をふわりと軽くしてくれる作品が人気のライターさん。

そんなサオリスさんの偏愛の世界へどうぞ〜。


はじまりはいつも、鼻。
視覚よりも先に、鼻がロックオンされてしまう。

幼いころ、中耳炎を繰り返し、耳の調子が悪くなった。そのぶん鼻が発達したのだと、勝手に思っている。世界をいちばん鮮やかに教えてくれるのは、いつだって匂いだった。

子どものころ、夕暮れの道で、家からこぼれてくる夕飯の匂いに誘われて自転車のスピードを上げた。ボッと炎を立ち上げる石油ストーブが吐き出すあたたかな匂いは、冬の朝を楽しみに変えてくれた。ハイカラな祖母が身につけていた毛皮のコートの匂い。病院勤めの母の冷たい手からふんわりと香るせっけんの匂い。父の服についた紙タバコの匂いは、今では懐かしさを運んでくる。そして、父のおならだけは誰よりも早く察知して避難勧告を出していた。

季節もまた匂いが知らせてくれた。
水を張った田んぼの匂い。雨に喜ぶカエルたちの匂い。夏のアスファルトの匂い。刈り取られた稲の切り口からは香ばしくてどこか甘い匂いが漂っていた。

旅した国には、その国の暮らしがあり、匂いがあった。
強烈に覚えているのは、ヨーロッパの安宿の朝食にいつも出てきた「チリコンカーン」の匂い。パリ・ムフタール通りのドミトリー「Young&Happy」の朝食で選べるホットショコラの匂いも覚えている。匂いは味へとつながり、鼻から口へと記憶が蘇る。

新しい町に住むようになってからは、金木犀の匂いを探して街を歩いた。
先日、近所の植木のそばで足を止めた。金木犀の匂いがするのに、オレンジ色の花は見当たらない。そこにあるのは、小さな白い花。Googleで調べてみると、「銀木犀」だとわかった。どうりで。また新しい匂いを知った。

世界を彩るのは匂い。その世界を味わうのは鼻。心と鼻が直通する私にとって、匂いは人生さえ豊かにしてしまう。

あの夜、恋をはじめたのもやっぱり鼻だった。

みんなで食事をしたあと、駅へ向かって5人で歩いていた。少し前を歩く彼の背中。その後ろで、私の鼻腔が、ぶわっと開いた。そう、とらえてしまったのだ。

せっけんと夜風と、ほんの少し混ざった汗の匂い。

特別ではない、誰にでもあるはずの匂いなのに、私の鼻だけがその匂いに引き寄せられた。昼間の暑さが和らぎ、心地よい夜風が吹く、夏の夜だった。

――嗅ぎたい。もっと深く。
思わず目を閉じて、鼻から静かに息を吸い込む。
彼よりも先に、その匂いが私にふれる。

駅に着いて、みんなで軽くハグをして別れた。
至近距離で、彼の匂いが一気に押し寄せてくる。
清潔で、少し甘くて、ほんのり温かい。

この香りに名前をつけるならなんだろう。「オンリーワン」「エターナリー」「No.1」どれも月並みだ。ただ「いい匂い」としか言えない、彼だけの匂い。

体が触れる前に、匂いが私を包み込む。
その腕が私を抱きしめたのは、少しあと。

匂いはいつも先手を打ってくる。

彼とハグする5秒前、誰にも気づかれることなく静かに、恋に落ちた。
なぜだろう、いい匂いを嗅ぐと、人は目を閉じる。世界の色も音もすべて消して、その匂いだけに集中したくなる。やがてゆっくり腕が離れ、距離が開く。バイバイと手を振りながら、匂いも遠ざかっていく。もう届かない所に来てしまったと思うと、胸がきゅっとなった。

やっぱり目を閉じて、あの匂いを思い出す。元気になる匂い。癒される匂い。ずっとそばにいたくなる匂い。

香水は売っているけれど、あの匂いは売っていない。失われたら鼻の記憶に頼るしかない。現れては消えていくその刹那もまたいい。時間が経つと薄れてしまうのに、ほんの少しでも嗅げば、すぐに蘇る媚薬。世界の扉を一瞬で開けてしまう。

私の小さな鼻は、いい仕事をしてくれる。

小学生の頃、図書館で読んだ本にこう書いてあった。
中世ヨーロッパでは、女が男に愛を告げるとき、自分の匂いを染み込ませたリンゴを渡したのだと。ひと晩、脇に挟んで。
今聞けばギョッとする話だけれど、40年近く経った今でも、そのページの挿絵だけは鮮明に覚えている。

匂いは大事だ。そして、その匂いをかぎ分ける嗅覚も大事。

時を経ても、恋する鼻は健在だ。世界を彩る匂いに、おいしい匂いのする方へ、今日もそっと鼻腔を開く。

安心してください。それでも私はリンゴを脇には挟みませんから。

                      サオリス・ユーフラテス