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私にとって死は、循環の一部

死について語るとき、
私はいつも少し不思議な感覚になる。

怖い、という感情がないわけではない。
でも、ただ怖いもの、と言い切れない自分もいる。

私にとって死は、
どこかで「循環」の中にある。

生まれて、育って、衰えて、
また何かに還っていく。

それはまるで森の中の木のように、
芽吹き、伸び、枝を広げ、やがて朽ち、
土に還り、
そしてまた森の栄養になっていくようなもの。

大きなエコサイクルの一部として、
形を変えながら巡っていく存在。

それは理屈として理解しているというよりも、
体感として、そう感じている、という方が近い。

空の思想に、
どこか影響を受けているのかもしれない。

ここにある個体は、
固定された実体そのものというより、
人と人との関係の中で、
流れの中で、
一時的に形を持っている存在なのだとしたら。

たとえば、
私の体がいつかなくなったとしても、
娘たちの中で私の記憶が生き続けるように、
私は形を変えて存在し続ける。

そう考えると、
死は終わりというよりも、
形を変えることのようにも思える。

私たちはもともと完全に切り離された個体ではなく、
たまたまこの時、この形で、この体に宿っている存在。

だとしたら、
死は断絶ではなく、
形を変えて巡り続ける、その旅の途中。

なのかもしれない。

それでも、悲しみはある。

死そのものが怖いというよりも、
その関係性の中に
もう新しい思い出が増えていかないこと。

積み重なっていくはずだった物語が、
そこで止まってしまうこと。

一緒に年を重ねていく時間が途切れること。
これからの未来を共有できないこと。

それが、
どこか静かに、私の胸に寂しさを残す。
その寂しさが、ふとした瞬間に胸を熱くする。

だから私は、
死を美化したいわけでも、
悟ったふりをしたいわけでもない。

死は自然な営みだと感じながらも、
同時に、どうしようもなく切ないものでもある。

生と死は対立ではなく、
同じ流れの中の両端なのかもしれない。

あるいは、
ひとつづきの布の表と裏のようなものかもしれない。

触れれば温かい体も、
やがて静かになる。

それでも、そのぬくもりは、
確かにここにあった。

その事実だけは、消えない。


この文章は、対話・ワーク・瞑想をとおして、体・心・性・死を扱う「iラボ」の体験記録です。

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