夏休み 沖縄が日本返還前の奄美諸島
もうすぐ、孫たちが心待ちにしている夏休みが始まる。
最近はご当地長野県でも、夏休みの期間が長くなっているようだ。
私が子供の頃は、8月1日から18日までの短い期間だった。
毎年夏休みになると、東京の従兄弟がやってきて、7月末からお盆まで滞在していた。彼の話では、東京の学校は1か月間も夏休みがあるという。その話を聞くたびに、どうして長野県の夏休みはこんなに短いのかと不満に思っていた。
母は、田植え休みや稲刈り休みという、都会にはない休みがあるせいだと説明してくれた。
だが、子どもにとっては、それらの休みは家の手伝いをさせられるだけで少しもありがたくない。すべて廃止して夏休みに振り替えてほしいと願っていた。
ただ、今思えば短いと感じた18日間の休みでも、「待ちに待った夏休み!」であることに変わりはなかった。
休みの間は、朝から蝉採り、川遊び、魚捕りなど、遊びには事欠かなかった。
一応、夏休み前に宿題の計画は自分なりに立てたが、自慢ではないが学生時代を通じて、宿題が計画通りに進んだことは一度もない。
休みがあと数日……となっても、宿題帳や絵日記などは2、3ページ書いてあれば上出来だった。
友達もだいたいそんな夏休みの過ごし方をしていたので、別段自分だけが特殊だとは思っていなかった。
しかし、お盆近くになるとさすがに焦り始める。
それでも「まぁ……お盆だから……」と言い訳をして手をつけない。結局、夏休み終了間近に親に怒られながら机に向かうことになる。
小学生時代の6年間は、毎年似たようなパターンの繰り返しだった。

親元を離れて大学生になった春、奄美大島の観光ポスターを目にした。
真っ青な海を背景に水着の美女が微笑んでいる姿は、山国育ちの田舎学生には刺激的だった。
そのポスターに憧れ、どうしても南の島に行きたくなり、バイトで貯めたお金で夏休みに奄美大島・徳之島・沖永良部島・与論島を巡る2週間の旅行計画を立てた。
私がこの旅行を計画した年代は、沖縄返還を数年後に控えていた時期だったので、日本の最南端は与論島だった。
船で大阪港から鹿児島へ、鹿児島から奄美大島へ入り、与論島まで順次南下していった。
民宿を転々としながらの旅は、時折の船酔いを除けば順調そのものだった。
一番南にある与論島は、今でこそ空港もホテルもあるリゾート地になっているようだが、私が訪れた当時は、数軒の民宿以外には何もない観光施設のない島だった。
与論島では、島の中を歩きながら3日ほど見て回り、予定の日数も過ごしたので鹿児島に帰ろうとした。
ところが民宿のご主人から「台風が近づいているので、当分ハシケは出ないよ」と言われてしまった。
その頃の与論島には小さな漁船用の港しかなく、鹿児島へ行く大型船は沖合に停泊し、島からハシケで大型船まで向かわなければならなかったのだ。
取り立てて差し迫った予定もないので、まぁ2、3日なら……と思い、少し風が強く感じられる砂浜に寝転んで、南の島の夏休みを満喫していた。
やがて台風は大したこともなく通りすぎ、所持金も底をつき始めたので港に行ってみた。
しかし、そこには「次の台風が近づいているので欠航」と書かれた張り紙があるではないか。
さすがにこれ以上の滞在は宿代も払えない。急遽、母宛てに電報為替でお金を送ってもらうよう、無心の電話をかけた。
港から沖を見ると、風と波が少し強く感じられる程度で、空は晴れており穏やかな天気に思えた。
いずれにしても、ハシケが出ないことにはどうすることもできない。
それからは来る日も来る日も、浜辺で沖合を通過していく大型船を眺めながら、釣りをしたりして過ごしていた。
結局、無為な日々を半月ほど余分に与論島で過ごし、2週間の予定は1か月になった。
母には電報為替を二度も送ってもらい、最後には「いっそこのまま与論島に住みついて漁師になろうか……」なんてことを本気で考えたりもした。
本土に帰ったときは、長すぎた夏休みボケで授業に出る気になれず、またこの旅行体験がきっかけで人生の歯車が狂うことになるのだが……その話はいずれまたの機会に。
