見出し画像

第5話 責任とは、応答し続けること

これまで、自由について考えてきた。
自由とは、何でも好きにできることなのか。

FreedomとLibertyは、何が違うのか。
自由には責任が伴うのか。

そして自由は、制約がないところに生まれるのではなく、制約の中でこそ具体的な形を持つのではないか。

ここまで考えてきて、あらためて気になったことがある。


「選んだのだから責任を取る」で終わるのか

自由に選んだのだから、その結果を引き受ける。
そのように言えば、責任の意味は簡単に説明できるように思える。

けれど、私たちは本当に、何の制約もない場所から選んでいるのだろうか。
人は、生まれた環境を選べない。

家族、身体、時代、教育、仕事、経済状況、社会の価値観、周囲から寄せられる期待。

私たちは初めから、そうした複数のレイヤーの中にいる。
その中で考え、選び、迷い、行動している。

だとすれば責任とは、完全に自由な場所から選んだ結果を、すべて自分一人で背負うことではないはずだ。

それでは責任というより、結果が悪かった人にすべてを負わせるための言葉になってしまう。
私は責任を、もっと長い時間の中にあるものとして考えたい。

自分がどのような制約の中にいたのかを知る。
その中で、なぜその選択をしたのかを振り返る。
自分の選択が、他者や未来にどのような影響を与えるのかを考える。

そして、必要であれば考え直し、修正し、次の行動を選ぶ。

責任とは、一度だけ結果を引き受けて終わることではない。

自分の選択によって生まれたものに、応答し続けることなのではないか。


自由になるためには、制約を知らなければならない

私が自由について考えるのは、単に自分の思考を深めたいからではない。
自由について考えることは、反論の仕方を学ぶことでもある。

自分は、どのような制約の中にいるのか。
その制約は、なぜ作られたのか。
誰を守るためのものなのか。
今も必要なものなのか。
それとも、特定の誰かにとって都合のよい形になっているのか。

それを知らなければ、反論することもできない。

守るべきものと、変えるべきものを区別することもできない。
自由とは、何も知らずに好きなように振る舞うことではない。

むしろ、自分が置かれている制度、文化、歴史、言葉、法律、経済、家族、会社、国家といったレイヤーを知ることで、初めて見えてくるものだと思う。

制約を知らない人は、自由に見えて、実際には与えられた選択肢の中を動いているだけかもしれない。

そして、自分が制約されていること自体にも気づけない。

学ぶことは、自由になるための準備でもある。


憲法を知らずに、憲法に守られている

たとえば、憲法がある。

憲法には、思想や良心の自由、表現の自由、学問の自由、職業を選ぶ自由、生きていくための権利などが定められている。

私は日本という国に住み、その制度の中で生活している。
日常の中で強く意識することはなくても、その権利や制度を享受している。
けれど、その意味を何も知らなければ、守ることも、点検することもできない。
制度は、ただそこに書かれているだけで永遠に維持されるものではない。
理解されず、語られず、使われず、点検されなければ、形だけのものになってしまう。
あるいは、時代の変化に合わなくなったり、権力を持つ人に都合のよい形へと、少しずつ変えられたりするかもしれない。

権利は、義務を果たした人だけに与えられる報酬ではない。

一方で、権利が守られる社会を維持するためには、その存在を知り、関心を持ち、必要なときに声を上げる人が必要になる。

私はそこにも、責任があると思う。

権利を持っていることへの負い目ではない。
自分が受け取っている自由を、知らないまま消費して終わらせないという責任である。


反論することも、社会への応答である

デモも、その一つだと思う。

私はデモを、単なる騒ぎではなく、権力や社会に対する反論の形式として捉えている。現在の制度や政策に対して、「このままでよいのか」と公の場で問い返す行為である。

もちろん、すべてのデモの主張が正しいわけではない。
声が大きいことと、内容が正しいことは同じではない。
怒りが、必ずよりよい社会につながるわけでもない。

反論する側にも、事実を確かめ、異なる立場を知り、自分の主張が生む影響を考える責任がある。

しかし、だからといって反論そのものが不要になるわけではない。

自分の意見を言わないように慣らされる。
与えられた制約を疑う言葉を持たない。

そうなれば、人は反論できなくなる。

社会の間違いを見つけても、指摘する人がいない。
時代に合わなくなった仕組みが、そのまま残る。
一部の人だけに負担が集中しても、それを言葉にできない。

問題が大きくなり、仕組み全体が立ちゆかなくなってから、初めて崩壊に気づく。

社会は、一方的に正しい形へ導かれるものではない。

多くの人が学び、考え、反論し、またその反論に反論し、少しずつ修正を重ねることで、かろうじて保たれている。

異論は社会を壊すものとは限らない。
社会が自分自身を点検するための、応答でもある。


今ある制度は、最終目的地ではない

仏教に「化城宝処」という譬えがある。
遠い宝の場所へ向かう途中、人々は長い道のりに疲れ、引き返そうとする。

そこで一時的な城が現れ、人々はその中で休息する。

しかし、その城は最終目的地ではない。
人々が力を取り戻し、再び先へ進むために現れた、仮の場所だった。

私は、社会の制度や価値観も、どこかそれに似ていると思う。

もちろん、これは仏教本来の教義を説明するものではなく、私自身の比喩としての受け取り方である。

今ある制度は、完全な理想ではない。
だからといって、すべて無意味なのでもない。
私たちは、その中で守られ、休み、学び、次へ進むための力を得ている。
しかし、今いる場所を最終目的地だと思い込めば、そこで歩みは止まってしまう。

反対に、今ある城の意味を何も知らず、ただ壊せばよいと考えれば、それまで人を守っていたものまで失うかもしれない。

自由とは、今ある城を無条件に壊すことではない。

なぜその城が必要だったのかを知る。
そこに誰が守られてきたのかを見る。

一方で、誰が城の外に置かれてきたのかも考える。

どこが古くなったのかを点検し、次の場所へ進むために、必要な部分を作り替えていく。
守ることと、変えること。
その両方を考えるために、私たちは学ぶ必要がある。


責任とは、自由を次の人へ渡すこと

私たちが享受している自由は、最初からそこにあったわけではない。

過去の誰かが考え、声を上げ、反論し、交渉し、ときには大きな犠牲を払いながら、少しずつ形にしてきたものでもある。

私たちは、その途中にいる。

完成した社会を受け取ったのではない。
未完成な制度と、不完全な自由を受け取り、その続きを生きている。
だから責任とは、自分に与えられた制約に黙って従うことではない。
反対に、すべての制約を自分の自由を妨げるものとして壊すことでもない。

自分が何に守られ、何に縛られているのかを知る。

必要なものを守り、不要になったものを問い直す。
自分の選択が生んだ影響を見つめ、必要であれば修正する。
そして、自分が受け取った自由を、次の人が使える形にして渡していく。

私は、それを責任と呼びたい。

責任とは、自由を得たあとに支払う代金ではない。
自由が壊れずに続いていくために、応答し続けることなのだと思う。

では、人はどのようにして、今まで信じていた考えを問い直すのだろう。
なぜ、ある考え方にはとどまり続け、別の考え方へ移るときには、大きな力が必要になるのだろう。
次は、思考がいくつもの「谷」の間を移動するというイメージから、考えが深まるとはどういうことなのかを考えてみたい。

いいなと思ったら応援しよう!