東西日本はどこでつながるか-滋賀旅行記(2)-
以前、地政学について興味を持ち、いつもの通りいきなり堅い本ではなく概観するためにマンガを読んだ。
このマンガは絶対買った方が良いレベルで学びがあったが、特に「チョークポイント」という、海洋国家(シーパワー)だと「ここを押さえられたら首根っこ押さえられるよ」という場所がいくつか挙げられていた。
スエズ運河やボスポラス海峡など、世界史でよく出てくるやつだ。
陸だと適切な言葉がわからないが「要衝」とでもいうと適切だろうか。
滋賀や岐阜あたりが日本史上の要衝だった話を今回は書きたい。(諸説あるとは思うが)
滋賀県の東には伊吹山と鈴鹿山脈がある。これによって大きく東西が分断されている。実はそこに1本の隘路があり、中山道(なかせんどう)の一部になっている。
陸路の場合、その隘路を通らねば東西の移動が難しい。ここにある関所を「不破関(ふわのせき)」という。そして、不破関の東にある盆地を「関ヶ原」という。
この土地は「関ヶ原の合戦」でも有名だが、壬申の乱でも同じく要衝として扱われていた。
関東から畿内に軍勢で進攻しようと思うと、東海道もありそうだなと思ったが、東海道は伊勢湾あたりを海で越えなければならなかったようだ。
だから、江戸以前は不破関を通る「中山道一択」(北陸道もあるがもちろん大回りになる)である。であるがゆえに名称にも「中」が用いられているのだ。
中山道を通って岐阜の不破関から米原、彦根、近江あたりを通るルートが軍隊で移動する際の鉄板ルートだったのだ。Googleマップなどで見てほしいが、鈴鹿山脈が巨大で北の伊吹山あたりまで切れ目がない。(鈴鹿関というのもあるらしい)
だから、東西が進んでいくと、陣を展開できるのは関ヶ原あたりになるわけだ。
そうした中で、特に彦根は日本海側の北陸道や東国、畿内へ繋がる交通のハブであったことや、琵琶湖で海(湖?)運もできるため、栄えていたというわけなのだ。
ちなみに、彦根の少し南には近江があり、ここは近江商人が栄えたり、かつての日本の首都(?)として天智天皇が遷都していたり、織田信長が安土城を築いていたりするのは、東西南北どこへもいける地理的なものもあるのだろう。かつては近畿で一番稲作生産高の高い大国だったそうだ。
特に、山がちで雪深い彦根あたりの気候を考えると合戦をするなら夏になるのではないか。そう思ったらやはり関ヶ原の戦いは9月だった。
前回はこちら
ちなみに、源義経の安宅の関についての話を石川旅行記を書いた際に「なぜ小松に?」と思ったが、こうした地理的な理由なのかもしれない。
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ちなみに、もはや滋賀ではなく岐阜の話なので余談だが、関ヶ原を更に東にいくと何があるのか。不破関と同じような隘路を中山道で抜けると、斎藤道三の美濃の地名や、揖斐川や長良川を越えると、僕の岐阜のトラウマスポットである深夜の桑名海津線や深夜のお千代保稲荷神社などが見えてくる…
そのまま進むと名古屋となり、東につながっていく。
