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岐阜のとある場所にて開けてはいけないものを開けた話-岐阜旅行記(2)-

あれは2023年の冬だった。

彦根での仕事の帰路、週末の名古屋に泊まった。翌日に仕事があったわけではなく、読んだ本にあった場所に観光気分で行ってみたくなったのだ。観光といっても、ウキウキワクワクといった感じではなく、ドキドキを求めにいった。

ただ、ドキドキどころか、その夜は「逃げ帰った」と表現が適切かもしれない。本当に逃げ切れたのかは分からないのだが。

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僕は、空気を読まずにどんな話でも書き散らすし、人と比べてハードな人生を送っているからか、恐怖心が少し麻痺している。だからか、逃げ帰るなんて選択はこのところさっぱり経験がない。

今回はそんな僕が「怖い」と感じ、逃げ帰った話を書く。非現実的な怪談ではないし、お化けが出てくることもなければ、暴力が出てくることもない。ただ、人によっては部分的に恐怖を感じるかもしれない。だから、あらかじめ断っておくが、そうしたものへの耐性のない人は読むのを避けてほしい。

なお、この話は実話である。「旅行記」とある通り、実際に体験したことなのだ。

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栄のホテルにチェックインした。栄は繁華街だ。金曜の23時半頃、普通の人なら栄に飲みに行くのだろうが、僕は「そこ」への好奇心が勝り、「そこ」へと向かうべくカーシェアに乗り込んだ。行き先は岐阜県海津市にあるとある場所だ。

「そこ」と伏せたのは、この場所に対して、悪い印象を持たれたくないからだ。「そこ」は現地で崇敬を集める場所であろうし、僕のように変なことをしなければ至って安全な場所である。

だから本当であれば、このエントリは書きたくない。貶めているという誤解をされたくないからだ。もちろん、そんな意図は一つもなく、読んだ本を信じて、ただ訪ねたのである。

さて、海津市は岐阜県なので、このエントリのタイトルは岐阜旅行記としておく。海津市については、以下のwikipediaに詳しい。

海津市は、教科書にも載る変わった地形がある。川に囲まれ、海抜0メートル以下の場所が多々ある。

「輪中(わじゅう)」も興味深いが、桑名海津線は運転が恐ろしい場所だ。

川のそばを車で走る場面を想像してほしい。川を片側に見下ろす高台を走っている場面が思い浮かぶだろう。

この場所では日本の川の間に道路があり、両側に川がある。そこを深夜に走るのは異界感があるのだ。

以下の写真をみてほしい。川の中に道がある。

この道を夜に走るのは怖い。両脇は川であり、対向車も来る。中央分離帯はない。そして、ライトが少ないのだ。落ちないか。そんな不安が今から向かう先の怪しさと相まって。

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目的地はここよりも北。桑名海津線を北上する。

さて、僕はどこに向かっていたのか。それを書く前に僕の志向を説明したい。僕は、目で見たことがないものを見てみたい。自分の理解できないものであればあるほど見てみたい。そして、その原理をつかみたい。そういう気質なのである。

特に、僕は言語に強い興味があるのを知っている人も多いだろう。言語の原点を模索したところ、言語には呪術と深い関わりがあると知った。言語は掘っていくと最終的にはそういう方面に入っていく。オカルトは好きではないが、かといって、全く知らないのは面白くない。

みなさんは、神社で丑三つ時に五寸釘で誰かを呪う人がいると聞いて、その実在を自分の目で見てもいないのに確証をもってあるといえるだろうか。僕はあいにくそういう場面をみたことがない。だから「ある」と断言できない。現実感がないのだ。そうしたものの痕跡すら目にしたことがない。となると「見てみたい」。そういう気持ちになるのだ。そういえば、呪術--特に人に仇なす呪術--なんて見たことがないではないか。

ただ、どうしたらそれが見られるのかは分からない。実際に目にしたら怖いだろう。

そうした時に、上述の言語の文脈から、「呪いと日本人」という本を読んだところ、プロローグに以下のような記載があった。

「へぇ、面白そうじゃん。深夜1時でも人が多いなら怖くもなさそうだし行ってみようかな。人が多い中で五寸釘打ってる人なんているわけないし。」

そんなお気楽な性格なのだ。安全だからいってみよっかな。「好奇心は人を殺す」、そんな言葉を後から実感することになり、軽率な行動を強く反省することになった。ただ、それをこの時点では知る術はなかった。

さて、目的地の名前は「✕✕✕稲荷」という。日本三大稲荷という人もいるようだが、初耳だった。先ほどの海津市のトップ画像にもなっている観光スポットだから現地ではかなり有名な場所だろう。

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再度注意喚起をしたいのだが、くれぐれも、この神社を誤解しないでほしい。断じて、ホラースポットなどではない。昼に普通にいけば、なんの問題もない場所なのだ。

到着し、車を停めた。神社に向かうが、道中に人の気配はない。すでに1時を過ぎ、数ある商店にも明かりは灯いていない。

見慣れない旗が棚引く中、鳥居をくぐる。

誰もいない。本にあった賑やかさは一つもない。カップルもいなければ水商売の参拝客もいない。しまった、今日は金曜日。稼ぎどきにわざわざお詣りに来る人もなかろう。

ただ、何かおかしい。誰もいないのに人の気配を感じる、どことなく、どこからか見られている気がする。いや、気の所為か。

神社なので、拝殿がある。まずは拝殿まですすむ。その右側に本にある通り、へんなものがあるのだ。へんなものと書いたのは、それはそれは奇怪な印象を与えるものだからだ。

何かを守るように、いや、何かが出てこないように周囲をスチール製の壁で取り囲まれた区画があるのだ。といっても、畳半畳もない大きさだ。

本の続きのスクショを以下に載せる。見ても構わない人だけ次に進んでほしい。





あれ、スクショを載せようとしたが、アップロードがうまくいかない。

へんなものは、中身が見えないようにブリキのような塀で囲まれた区画だ。そこには扉があり、きっちり錠で閉じられている。

閉じられているといっても施錠されているわけではない。開こうと思えば開けるのだ。ただ、安易な気持ちでそこに踏み込む人を心理的に守る扉なのだろう。

そこにはあまり喜ばしくない注意書きがある。何度も伝えた通り、恐怖を感じやすい人はこの先をみるのは避けてほしい。いくつか改行をいれておく。




足止め、、、わら人形

この写真は明るく撮れているがカメラの性能によるものだ。実際はもっと昏い。

扉には、ただ錠前を噛ませてあるだけで、意思が---何らかの後ろ暗い意思が---ある人は、その意思を実現することを確認するかのように、わざわざその手で開くために扉があるのだ。扉とは境界線であり、一線を超えることの象徴なのだ。

無論、僕に後ろ暗い意思はなく、誰かを害せしめる気持ちもない。しかし、僕は躊躇なく手を掛け、扉を開けた。深夜に1人でよくやるなと思われるかもしれないが、そうしたことには躊躇しないのだ。

扉を開くと、昏い、ただ昏い空間があった。今は午前1時半。夜の闇の中の黒はただ昏い。何も見えない。

本によると、この中には「木」があるはずだ。木どころか、何一つ見ることができない。とにかく漆黒なのだ。本当の闇では何も見えない。

手にはスマホがあった。だから、懐中電灯をオンにして闇を照らせば、中にある何か--そこにあるであろう木とそれに打ち付けられた何か--の全容を識ることは容易くできただろう。そして、興味本位でそれを撮ることすらできた。そう、1時間もかけてここまで来たのだ。やらない理由はない。

照らさなければ勿体ない。勇気をだせ。諦めたらそこで試合は終了だ。

そして、逡巡の末、スマホを手にした。そのとき、僕は本能的な畏れを感じた。体の毛がぶわっとした。「これは見てはならない」、そう感じ、扉を閉めた。

そのとき、境内がなんとなくざわついている気がした。なんだか人の気配がするのだ。誰もいないのに。裏手にある家の方から人の話し声が聞こえてくる気がする。嘘のような話だが急に風も強くなってきた。こんなタイミングで誰かと出くわしたくはない。

あとは、一目散だ。後ろを気にしながら車に戻り、バックミラーを気にしながら運転し、あの桑名海津線を運転し、ホテルに戻った、深呼吸を繰り返し、ホテルで休んだ。

「自分はなんであんなところに1人で深夜に行ったんだ。」

恐ろしいものはあるのだ、興味本位でするべきではないことがあるのだ。そう後悔しながら3時ころに溶けるように寝た。

旅行記としてはこれで終わりだ。次の日に元気に家に戻り、月曜に出勤した。

ここまでて、「なんだ。ビビリのホラースポット巡りか。何も起きてないじゃないか」と落胆した人もいるかもしれない。

しかし、この話は全くここで終わらない。むしろ、ここからが始まりだ。この後、偶然では片付けられない怪異が3日続けて起こるのである。

もちろん、それは偶然起きたことかもしれない。しかし、常軌を逸した出来事が3日続けて起きるのは尋常ではない。

やむにやまれずお祓いに行った先で引いたおみくじは凶だった。書いてあったのは

「夜、出歩くな」

全く笑えない。

しかし、その出来事は岐阜旅行記の範疇を超える。その後の出来事を希望する人がいれば追記するかもしれない。

最後に、昼にそのなかを撮影した方のブログを見つけたので貼っておく。自己責任でお願いします。

希望者がいたので、追記する。


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