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イスカリオテとはなんだったのか - 逆徒にして逆徒にあらざる者たち

この記事には「Hellsing」の重大なネタバレが含まれます!

はじめに

イスカリオテ機関の恐ろしさは、単に彼らが化物を殺すことではない。

彼らは化物を殺す。
それは吸血鬼、グール、異端、背信者、ミディアン、闇夜に跋扈する人外ども。
そうしたものを、祈りと銃剣と狂気で殲滅する。
その名はヴァチカン第13課。
カトリックの地下に仕舞われた対怪物戦闘部隊。
神罰の地上代行者。
それが表向きのイスカリオテである。

イスカリオテの本当の異常性は、彼らが「自分たちもまた裁かれるべき者だ」と知りながら、それでも神の敵を殺すところにある。
彼らの異常な美学はここにある。


ユダを名乗るという異常性

イスカリオテのユダ。
イエスを銀貨三十枚で売り、最後には首を吊った裏切り者。

当然キリスト教世界において、ユダとは栄光の名ではない。
むしろ汚名である。
だがイスカリオテ機関は、その名をあえて自分たちの旗印にする。

我らは己らに問う 汝ら何ぞや!!

我らは熱心党(イスカリオテ) 熱心党(イスカリオテ)のユダなり!!

ならばイスカリオテよ 汝らに問う 汝らの右手に持つ物は何ぞや!!

短刀と毒薬なり!!

ならばイスカリオテよ 汝らに問う 汝らの左手に持つ物は何ぞや!!

銀貨三十と荒縄なり!!

ならば!!
ならばイスカリオテよ 汝ら何ぞや!!

我ら使徒にして使徒にあらず
信徒にして信徒にあらず
教徒にして教徒にあらず
逆徒にして逆徒にあらず!!
我ら死徒なり 死徒の群れなり
ただ伏して御主に許しを請い ただ伏して御主の敵を打ち倒す者なり
闇夜で短刀を振るい、夕餉に毒を盛る者なり
我ら刺客なり 刺客(イスカリオテ)のユダなり!!
時至らば 我ら銀貨三十神所に投げ込み 荒縄をもって己の素っ首吊り下げるなり
さらば我ら徒党を組んで地獄へと下り 隊伍を組みて方陣を布き
七百四十万五千九百二十六の地獄の悪鬼と合戦所望するなり

黙示の日まで!!(アポカリプス ナウ)

原作版より、イスカリオテ機関の教義とも言える口上

銀貨三十と荒縄

さきの信仰告白とも言えるイスカリオテの口上において、もっとも重要なのは「銀貨三十と荒縄」だ。

右手に短刀と毒薬。
左手に銀貨三十と荒縄。

短刀と毒薬は分かりやすい。
まさに敵を殺すための道具である。

問題は、銀貨と荒縄だ。
銀貨三十は、ユダがイエスを売った報酬である。
そして荒縄は、ユダが自らを吊った死の象徴である。
つまり彼らは、殺すための道具と同時に、自分が裁かれるための道具を持っている。

彼らの勝利の先にあるのは、決して栄光ではない。
これがイスカリオテの怖さだ。

まともな狂信者は普通、「我々は正しい」と叫ぶ。
イスカリオテは「我々はユダだ」と名乗る。

まともな狂信者は「我々は救われる」と信じる。
イスカリオテは「我々は首を吊る」と言う。

狂信者は「敵を殺すことは善だ」と思う。
イスカリオテは「敵を殺す我らもまた罪を負う」と知っている。

「そんなことをしたら天国への道は閉ざされる」と言っても、彼らは止まらない。
せいぜいたどり着けるのは辺獄だ。

そんなことはハナから知っている。
我らはユダなり。
イスカリオテのユダなり。
そうあれかしアーメン


逆徒にして逆徒にあらず

イスカリオテの口上は、一見矛盾した言葉を積み重ねる。

使徒にして使徒にあらず。
信徒にして信徒にあらず。
教徒にして教徒にあらず。
逆徒にして逆徒にあらず。

彼らは使徒である。
主のために働くからだ。
だが、使徒ではない。
ユダを名乗るからだ。

彼らは信徒である。
その信仰は狂気に近いほど深い。
だが、信徒ではない。
その手段は短刀、毒薬、殲滅だからだ。

彼らは教徒である。
教会に属し、主に仕えている。
だが、教徒ではない。
彼らは教会の光ではなく、影だからだ。

そして彼らは逆徒である。
暗殺者であり、殺戮者であり、毒殺者だからだ。
だが、逆徒ではない。
彼ら自身は、主を裏切るためではなく、主に従うためにそれを行っているからだ。

彼らは神に背いているのか。
それとも神に従っているのか。

答えは、どちらでもある。


化物を倒すのは人間のみ

『HELLSING』の中心には、ひとつの思想がある。

化物を倒すのは人間のみ。
アーカードを倒すのは人間のみ。

ここで言う「倒す」とは、単に戦闘で勝つという意味ではない。

アーカードは化物である。
吸血鬼であり、死者の王であり、無数の命をその身に抱えた怪物である。

化物同士の戦いなら、彼はいつまでも続けられる。
より強い化物が彼に戦いを挑んでも、それは所詮怪物同士の衝突にすぎない。

アーカードが本当に望んでいるのは、化物に倒されることではない。
人間に裁かれることだ。

死を受け入れる者。
老いを受け入れる者。
限界を抱える者。
それでも、人間であることを捨てない者。

そういう人間だけが、アーカードを終わらせる資格を持つ。
なぜならアーカードは人間で居続けることに耐えられず、化物になる選択をしたから。

だからアーカードは、アンデルセンに期待した。
アンデルセンが人間のまま、信仰と銃剣だけで立ち向かってくる限り、アーカードは歓喜する。

これだ!
これを待っていた!

だが、アンデルセンが聖遺物の聖釘を使い、茨の化物になった瞬間、アーカードは怒る。

なぜか?

その強さは、人間であることを捨てた強さだったから。

化物を倒すために化物になる。
一見すれば合理的である。

だが『HELLSING』では、それは敗北だ。

なぜならアーカード自身が、その敗北の成れの果てだからだ。

彼は人間であることを失った王である。
だからこそ、人間のまま立つ者に憧れる。
人間の刃によって終わらされることを望む。

アンデルセンは、その資格に届きかけていた。
だが最後に、聖遺物を使って人間をやめた。

化物を倒すために、人間が化物になる。
主の敵を討つために、主の秩序を踏み越える。

そう、逆徒にして逆徒にあらず。

アンデルセンは、イスカリオテの信仰告白を体現した。
そして同時に、それを破綻させたのだ。


マクスウェルはなぜ逆徒なのか?

顔芸させた方がマクスウェルらしかったか……

イスカリオテのもうひとつの影が、エンリコ・マクスウェル大司教である。

マクスウェルはイスカリオテの司教であり、教会権力の象徴として振る舞う。
だが彼は、イスカリオテの信仰を体現した人物ではない。
むしろ彼はその対極にある。

アンデルセンが「神のために自分を燃やす男」だとすれば、マクスウェルは「神の名を使って単に自分を高く見せたい小男」である。

アンデルセンは、自分が罪人であることを知っている。
マクスウェルは、自分があくまで神の側にいると信じて疑わない。

マクスウェル お前は今 神に司える事をやめた 神の力に司えている!!

アンデルセン神父

マクスウェルは神によって自分が裁かれる立場にいることを忘れているのだ。

故に彼は逆徒である。

主に従うための逆徒ではない。
自分を神の側に置くための逆徒である。

マクスウェルはイスカリオテの信仰を、決定的に履き違えたのだ。


救われない忠誠の神学

イスカリオテは、信仰と救済を切り離した集団である。

宗教的行為には、多かれ少なかれ救済への願いがある。
赦されたい。
天国へ行きたい。
神に認められたい。
魂の安息を得たい。

だがイスカリオテは、そこから全くずれている。

彼らは赦しを乞う。
だが、赦されることを望まない。

彼らは主に従う。
だが、従った結果として救われない。

彼らは敵を殺す。
だが、それで自分たちの罪が消えるわけではない。

それでも従う。

最初から、その程度のものを動機や情熱にしていない。

彼らの燃料は、忠誠そのものだ。

主に従う。
ただそれだけだ。

イスカリオテとは、滅びを覚悟した信仰のかたちである。

彼らは聖人ではない。
英雄でもない。
正義の味方でもない。

彼らはユダである。

銀貨三十を握り、荒縄を携え、短刀と毒薬を手に、主の敵へ向かう者たち。

イスカリオテは、なお信仰告白を唱える。

我ら使徒にして使徒にあらず。
信徒にして信徒にあらず。
教徒にして教徒にあらず。
逆徒にして逆徒にあらず。
我らはユダなり。
我らは刺客なり。
我らは死徒なり。
時至らば、銀貨三十を神所に投げ込み、荒縄をもって己のそっ首吊り下げるなり。


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