28歳で原発不明がんになっても諦めなかった男 Part4
2024年1月 がんセンター② セカンドオピニオンと抗がん剤開始
年末年始シーズンということもあるのか、4人部屋には自分1人だけだった。寂しかったが、毎日面会に来てくれた妻が心の支えだった。
家族の大切さを知るとともに悲しい思いにさせて、申し訳ない気持ちで一杯だった。
年始に入ると呼吸苦から胸水も溜まっていることが分かり胸水穿刺も行った。この時の私は腫瘍・腹水・胸水・ナルベイン・高カロリー輸液と5つの管に繋がれていた。
医療の知識が無いのでどれほど深刻か分からなかったが、医療従事者の方々はこの姿を想像して助かる見込みはどれくらいだと考えるだろうか。
奇跡的に腹水・胸水内のがん細胞は陰性だったが、CT上腹膜播種は明らかなままだった。
原発不明がんと診断されたタイミングでセカンドオピニオンの話も上がっていた。お金はかかるもののできる限りの事はしたいと考え、主治医の後押しもあり国がん(国立がんセンター)を受診した。
残念ながら私は来院できる容態ではなかったため、妻が一人で話を聞きに行った。
結果は最悪だった。
CT上腹膜播種が蜘蛛の巣状に広がり手の施しようがなく、容態が悪すぎて抗がん剤に耐えられないということ。治験・外科手術も同じ理由で不適。よって緩和ケアを勧めるとのことだった。
また無治療だと余命は1-2か月とここで初めて余命宣告された。
治験など他の治療法の提案を期待していた国がんでこんなことを言われるとは想像しておらず、妻から話を聞いて頭が真っ白になった。
面会中、目の前に妻がいるのに急激に遠く感じた。話している間、二人でずっと泣いていた。今までありがとうとごめんねをひたすら繰り返していた。
国がんからは入院先のがんセンターでニボルマブを使用してもよいが、副作用で余命が2週間程度になる可能性も指摘された。
治療をせずに苦痛だけを取り除くいわゆる緩和ケアだけにしたほうが苦しむことなく最期を過ごせるのかもしれないと悩んだが、「何もしないまま、病気と闘わないまま死にたくない」と思い、治療に賭けることにした。
頼みの綱は20%の確率で効くニボルマブだけだった。
なぜかセカンドオピニオンの次の日には精神は安定していた。なぜと言われても性格上としか言えない。しんどいことがあったが、結局は治療を始めてみないとどうなるか分からないと思っていた。
自分ってこんな性格だったのかと不思議に思う。
ここで心が折れると「終わる」と本能で感じていたのかもしれない。ただ20%の割合に入るとは全く想像しなかった。国がんで期待を裏切られたショックが大きかったので期待はしないようにしていた。
それでも投げやりになったわけでもなく至って普通だった。
切り替えが早すぎて看護師が困惑していたと妻が教えてくれた。自分の状況を理解していないのではないかと。上述のように切り替えただけだが看護師は不思議がっていた。
抗生剤投与でCRPは20台となり、高値ではあったが、下げ止まったという判断でニボルマブ(1回目)を投与することとなった。
普通こんな数値で抗がん剤はやらないと後で知ったが、この時は主治医が伏せてくれた。
投与時間は30分ほどで副作用は発熱程度で問題なく終わった。ニボルマブの効果確認は少なくとも投与3回する必要があったため、
とにかくこれ以上感染が悪化しないよう祈っていた。
・大静脈破裂(大動脈ではありません)
一方、ニボルマブの投与日に突如腫瘍ドレナージの刺入部から血が漏れ出てきた。大量のガーゼで抑えることでなんとか止血することができたが、数日間これを繰り返したのち、突然激しい腹痛に襲われた。
痛みで気が狂いそうになったが何とか痛みが落ち着き、採血を行ったところヘモグロビン値が危険値であった。緊急輸血と造影CTを行った結果、胃に繋がる大静脈が破裂していることが分かった。
すぐに緊急カテーテルを行い事なきを得たが、主治医からあと数時間遅れていたら危なかったと言われた。
胃の真横に腫瘍がある影響で付近の大静脈が脆く破れてしまったのだろうということだった。大動脈だとたぶん死んでいた。運が良かった。
今振り返ると血が漏れ出た初期の段階で違和感に気付き、造影CTを行っていれば早期発見できたのではないかと思う。このようにニボルマブは投与できたものの常に綱渡りの状況であった。
話は変わるが、私の父は40歳で亡くなっており(当時4歳)、妻に「死んだらお父さんに会えるのかな」と話していたという。大静脈破裂という死の崖っぷちまで行っても夢にすらでてこなかったので、私の霊感は0のようだ(もう成仏したのかな?)。
